22. 鏡の嘘
「なあ、鏡よ」
司教が退出した私室の中には俺しかいない。俺にとっては鏡が傍らにいるが、俺の腹心を自称している三人は鏡の剣にけたたましく喋り散らす人格がある事までは知らない。
「なに、ミラー」
鏡の声はやや硬い。俺は司教に沈静化を受けたらしく、多少は落ち着いている。司教は俺の事を魘されていたと言った。俺が気を失っていた時間が一刻であったなら、防音の結界が効力を失うには早過ぎる。
つまり鏡は俺に悪夢めいた夕食の夢を見せながら防音の結界を解体し、意図的に魘される俺の声を寝台の外に聞こえるようにした。おそらくは司教に対して扉を念動力の手を使って開ける事もしただろう。
「どうしてこんな事をする」
「何の事を言っているのか心当たりがないな」
「隠す必要性が理解できない」
「たくさん隠していると時々本当に隠すべき事が解らなくなるよ」
嘘だ。嘘を言っている時の鏡の声だ。
「鏡はミラーが苦しむ姿を見たくはない。
さりとてお腹を空かせて飢え死にさせたくもない」
「鏡は過保護が過ぎる。この所、俺は満たされている」
俺が作り変えたリンミは俺に対して安定的に命を供給している。時として隣国からか弱い使徒が襲い掛かって来るのは気分転換にはいいと思える興行に過ぎない。飢えには瀕していない。
「でも、出ちゃったよね」
どくりと心臓が跳ねた。半ば反射的に術で恐怖を除去する。
「俺は可能な限りの施策を打ったのだがな。
けしからぬ手合いが存在する余地が下水道にあったとは恐ろし過ぎる」
俺の口から言っておいて何だが、びくびくと手が震え出す。俺はまだ“何が”出たのか認識する所まで耐え切れていない。“出た”と言われるだけで怖い。耐え難い恐怖が俺を前にして舌なめずりをする。
「ミラーはさ、ご飯を食べながら飢え死にするのは幸せだと思う?」
「訳の解らぬ事を言うな、鏡よ。それが幸せに思えるのなら頭が相当おかしい」
「そうね。鏡はね、ミラーにそうしてあげたくなったよ」
俺に悪夢を見せた事を今度は肯定する鏡。鏡の見せる夢の中に閉じ込められて眠り続ければ飢え死にする、と理解するのに要らぬ恐怖のせいで理解が遅れた。そうだ、俺が鏡に「鏡は俺を殺せるのか」と言ったから「できる」と答えを返したのだ、迂遠な見せ方で。
「して欲しいのかい。鏡としても相当頭のおかしい殺し方だと思うが」
「……さっき聞いた事は忘れてくれ。益体もない事を言った」
「うん、いいよ。あれはお化けに惑わされたミラーのうわ言だ」
和解できたろうか。鏡の本心は時として全く読めない。鏡は反故の方を聞かなかった事にして「前に鏡に頼んだじゃない。殺してあげる」と言い出しかねない気の触れ方をする事がある。鏡が俺に対して殺意を抱いたなら、眠りこけた果てに飢えて死ぬのだろう。俺はいつかそんな死を迎えるのだろうか。家の中に彼女のいない夢を見せた鏡。
「ねえ、ミラー」
「なんだ、鏡よ」
ほんの少し、鏡の言葉が柔らかく聞こえる。
「三人の腹心にはもう少し話してもいいと思うよ。
どうせ君の支配から抜け出す力はない。彼らなりに君の為に全力を尽くすだろう」
返事をしようとした俺に男の声が突き刺さる。
「左様ですな。我等に御相談頂ければどうとでも致しましたのに」
お化け以外に対しては感じた事のない恐怖が俺を見舞って殴り飛ばす。精神の均衡を保てない。
「……太守!?」
やれやれ、とばかりに腰に剣を佩いた男が言う。リンミの太守。
「ダラルロートと呼んで頂けると司教殿に対して一歩リードだと思うのですがねえ」
こそこそと鏡が寝台から逃げようとする気配がある。掴む気力もない。悲鳴めいた声が喉から出る。
「いつから、どこまで!」
「このお部屋に最初から、ずっと。鏡殿の御指示でして」
太守―――ダラルロートに対する恐慌で俺は絶句した。




