21. 鏡と司教
俺は夕食の匂いを嗅ぎ付けていた。
鏡が品数を最も多く作るのは夕食だ。朝は肉体に一日の始まりを教える程度に。昼は狩りに出ていると携帯食。家にいるとやや軽めの昼食と間食の甘味。湯気の中に嗅ぎ分けられる食物の種類の多さがこれは夕食の仕度だと告げている。
休んでいた床から身を起こす。そうだ、人里からは遠く隔絶した山深くにある俺の家。慣れ親しんだ我が家。俺が鏡と暮らす家。
「……眠っていたのか?」
「あ、起きたのかいミラー。胡椒を下さいな。赤いのを少しだけ」
厨房を操る鏡が言うや小皿が一つ、念動力で飛んで来る。俺は皿を一瞥して潰した赤胡椒を創り出す。俺にとっては容易い変成術だ。集中はなく、魔素も碌に動かさない。在れ、とちらりと考えはしただろう。
「ありがと、ミラー。お腹空いてるね? もう少し待っててね」
「ああ」
鏡を見る。間近で宙に浮き俺の顔を映す鏡の剣を。鏡の剣に映る俺の顔を。
金と銀の髪が入り混じった頭髪。倦んだような青い瞳。顔には重い疲れ。夕食の後には再び眠るべきだろう疲れが俺を苛む。何故だろう、今日は酷く疲れている。
鏡が食卓に夕食を運んで来る。何が並んでいるのか頭がはっきりと認識しない。下手な事を言うと鏡が臍を曲げるぞ、とは思いながら夕食の用意に対しての謝辞を口にする。
「どうぞどうぞ、召し上がれ。
鏡はね、ミラーがずっとこうしていたいなら心を閉じ込めておいてあげる」
鏡に何を言われているのか俺には解らなかった。手は匙を手に取り、温かく滋味の香るスープを飲み下す。赤胡椒を振られた厚みのある肉にナイフを通す手応えも確かにある。肉汁が溢れ、熱された鉄板の上で爆ぜる音が耳を楽しませる。
「それこそ、永遠にでも。そのくらいの力はある。それくらいしかない。
ねえ、ミラー。鏡は永遠にでもお家でお夕飯を作ってあげられる」
鏡の操る見えない手が「こっちにも手を付けなさい」と言わんばかりに茹で野菜の皿を押し込んでくる。俺は逆らわずに芋を取る。いつものような夕食時。
「だから、鏡にミラーを殺せるのかなんてお願いだから聞かないで」
悲痛な声を聞いた直後、俺は今後こそ意識を現実で覚醒させた。
「……ここはどこで、いつだ」
「リンミの太守の館に設けられたミラーソード様の私室ですな。
時刻はミラーソード様が意識を失ってから一刻と少々。平素であれば既にお帰りの時間を過ぎております」
俺が寝かされている寝台の側に、杖を手にした老年の男がいる。
「……司教か」
「あまりにも酷く魘されておいででしたので少々施術を致しました。
無断での私室への立ち入り、平に御容赦を。御加減は如何でありましょう」
すぐには言葉が出て来ない。
俺は時々こうなる。話したい事があっても言葉が出なくなる。鏡は俺の傍らで華美な鞘に収まったまま黙り込んでいる。今は司教と話せ、と促されているように感じる。
「差し当たってすぐにどうこうなる案件はないな?」
「さて、臣の抱えておる案件についてのみお答えするのは危ういかと。
太守殿は嬢ちゃんに仕事を受け持って貰ってもまだ仕事が遅いですからな」
ほほほ、と司教が笑う。
「太守殿が少々足を引っ張ってはおりますが我等腹心一同、誠心誠意ミラーソード様にお仕え致しましょうぞ。
御存知の通り、臣の本職は司教にて説法だの説諭、要は眠たくなる長話でございます。お役に立てるかと存じますが……」
気が弱っていたのだとは思う。俺は司教に一つものを訊ねた。
「……重度の生来の衝動に抗う術は何がある。抗う必要がある種類のものだ」
「衝動でございますか。そうですな、祈祷による意志力の強化。もしくは心を占める感情の除去。
欲情であるならば抑えるよりも発散をお勧め致しますぞ。
奴隷であれば精神を完全に磨り潰し、感性そのものを失わせる躾も時には致しますか」
精神を完全に磨り潰す。
司教の助言に俺は考え付いた事がないではなかった。
「ミラー、それは鏡が許さないよ!!」
今まで黙っていた鏡が怒鳴り付けて来たのを司教は知らない。
「……そうか。施術で落ち着いたようだ。面倒を掛けた、司教よ」
「ミラーソード様のお召しであればいつなりと参上致しますぞ。では、よくお休み下され」
「ああ」
私室にいるのは俺と鏡だけになった。




