20. 砕け散った平安
その日、魔女が何か言った。太守と司教も同席していたはずだ。
俺はその場で卒倒した。意志力で耐える耐えない以前の問題で、俺には認識の時間すらなかった。
「ミラー、ミラー」
「ミラーソード様」
俺を呼ぶ声がした。優しげな男とも女とも付かぬ声が一つ。もう一つは俺に従属する生物。俺が半ば造り替えたもの。泣き叫ぶ懇願を聞き入れずに魔力回路を刻み込んだ女。
「ああ、起きた。ミラーが起きた」
「お目覚めでしょうか。ミラーソード様が昏睡なさるなど初めての事態だと太守と司教が戸惑っておりました」
あまり使ってこそいないが、太守の館にある俺の私室だと解る。寝台に寝かされていた身を起こそうとした。しかし、目に入るのは寝台の天幕に張られた木札。奇妙な文字列。
『魔女だめ』『聞かないで』『また気絶』
鏡の筆跡だとは気付いた。どう言う訳か鏡は俺とは癖の異なる文字を書く。念動力で筆を動かして器用に文字を書き、調理道具を操って俺よりも達者な腕前で食事の用意もする。しかし、このようなまだるこしいやり方で意思疎通を試みて来た例は記憶にない。
「ああ、何とも……ないとは言えんな……」
震える身体。淀む言葉。俺は知っている、この感覚を。
弱みを見せる気などなかった自称腹心三人の前で昏睡状態に陥ったと言うのなら、間違いあるまい。―――奴等だ。あの口にするのを憚られる手合いが俺の耳から蔓延って瞬時にして脳を握り潰したのだ、とは察した。頭が重く痛み、人めいた皮を被る俺の体表に嫌な汗が湧き上がる。
「魔女だめ、言わせないで。黙らせて。部屋から出すべき、今はだめ」
鏡の声は俺に優しいが、どこか混乱している。
「退室していてくれ。予定していた職務に戻って構わない」
魔女に対して向ける言葉としては調子がおかしい気はしたが、俺は可能な限りの語彙を震える心の上から取り上げて発した。
「……畏まりました。いつなりとお呼び下さい。司教も治療に待機しております」
「うむ」
司教の力を借りる必要はあるかもしれん。俺は頷くに留め、魔女が部屋から出てすぐに防音の結界を張った。指一つ動かさず、意思を集中する事なく低級術の結界を張れる程度には俺の魔術も改善はしている。……さあ、泣き喚く準備はした。陰惨を極めた惨劇の予感しかしないが、横になったまま寝台で華美な鞘に収まって傍らにある鏡に話し掛ける。鏡はおそらく相当慎重に言葉を選ぶだろうが、それでも俺は再び一撃で殺される気がする。精神的な意味でだとは思いたい。
「ミラー。……今回は初っ端から重態だ。鏡も説明に困っている」
「だろうな。……か?」
『出たのか』と問いたかった俺の声は絞め殺される鳥よりも乏しい声量しかなかった。
それでも鏡は察してくれた。流石は俺の半身だ。絹布と銀糸で作った聖句の御札がするりと鏡の操る念動力の手で胸元から取り上げられ、俺の手の中に握り込まされた。鏡がここまでする以上、間違いなく……出た。俺は確信した。このまま気絶したかった。
「……鏡が肯定したらミラーは今度こそ衝撃が強過ぎて死ぬんじゃないかと心配している」
「可能性を否定できないのが恐ろしいな」
とうに確信はしていたが、俺と鏡はそういう会話をした。
鏡の優しさだろうか。慈悲だろうか。俺が鏡の中に住むから鏡が俺を操って話だけ聞いて来てくれと……いいや。できれば鏡の手で事態を解決した上で、夕食のできた自宅で起こして欲しいとまで俺は願った。これほどまでに酷い怯えに支配された事例は記憶にない。他に一例だけあるような気もするが、今、俺は思い出したくない。そんな記憶を掘り起こしている最中に話をされたら、今度こそ本当の本当に死ぬと思う。いっそ殺して欲しい。
「鏡は俺を殺せるのか」
「それほどまでに参ってしまっているのかい、ミラー。
腹心どもには聞かせられないね。聞かれたらリンミ最後の日だよ」
鏡は俺の問いに対してははぐらかした。鏡の声は俺にしか聞こえない。だから鏡が何を言っても誰にも聞かれはしない。
「俺はダメだ、今回のは本当にダメだ。俺の意識がある間は対処できないと思う。
腹心どもに解決能力は期待できるのかどうかだけ聞かせてくれ、鏡よ」
震えが来る。愚問だ、こんな問いは愚かしい。俺は自制を失っている。解るが、抑えられない。
「厳しそうよ。下水道に出たの、聖火と御札が効かなかったって言うから」
俺はまた卒倒した。絶望と失意が俺から意識を刈り取り、約半刻に渡って戻らなかった。




