2. 狩り暮らし
「いいかい、ミラー。魔獣だってちょっと鹿より強いだけ。殺ればできる」
日は高く、岩がちな山の奥深く。鏡は毎日、俺に狩りと修練を課している。
鏡が鞘の中から弁を振るうのを俺は「黙ってくれんかな」とは思いつつ聞き流す。
「あいつを殺れば君の夕食のおかずが増える。解るね?
鏡としては一ヶ月以内にミラーの食卓に同じものを出したくないの。お返事は?」
そんな配慮は要らぬ、俺は同じ献立が続いても良いと言っても鏡が聞き入れないのは既に実践済みだ。
あいつと鏡が言うのは大型の蜥蜴に見えなくもない魔獣だ。黒く硬い鱗に覆われ、吐く息には毒が濃厚に含まれている。俺に気付く気配も、巣穴から動く気配もない。魔術による気配隠しは鏡がやってくれており、気付かれる素振りはない。
「どう控え目に見ても毒竜なのだが」
「そりゃ黒竜だからね! 毒の息を吐く。
だが君に毒なんぞ効かん、この鏡を信じなさい。あいつの内臓はきっと美味いぞ。
もしミラーに効く毒があったら……そうだな、鏡は麓の村の墓地で一晩過ごしてもいい」
「大言を吐くな。墓地で一晩などと蛮勇が過ぎる」
恐怖に震えそうになる身を必死で抑え、俺は不機嫌そうに演じて見せる。成功した気はしない。俺はそんな恐ろしい想像をしたくないのだ。鏡も話題を変える。
「で、ミラー。本当に見えないのかい」
「ああ。鏡の言う血管だの心臓は見えない」
鏡が言うには、俺には占術的な防御を施されていない相手の身体構造の内部が透視できるはずなのだそうだ。そして塞いでやれば生死に関わる部位に変成術で栓を創り出し、殺害するのが最善手だと。俺の中で惰眠を貪っている物騒なもののうちのどれかを叩き起こせば見えるようになるはずだ、と鏡は言う。だが、間近で観察していても見えて来る気がしない。
「ミラーってばまだ0歳児の赤ちゃんだからね。バブーでハーイなのは仕方ないかあ?」
鏡は言ってくれるが、俺の外見は間違っても0歳児ではない。自己鑑定は0歳だと告げる。だが肉体に流れる妖怪の血がどうあれ人間の形をしているし、青年の年頃に見えている。あまりに出来が悪く進歩が遅い為、外見に中身が追い着いていないようで非常に不本意だ。
「己の中の堕落と向き合うんだよ、ミラー。人間性に囚われ過ぎるな」
「堕落……か」
俺には上手く飲み込めない概念だ。元々俺とは遠い所にあったような気がする。肉体の奥深くで何かが待ち構えるように息衝いているのは感じるのだが、触れ方が解らない。堕落。夕食前の自己鑑定が俺の中にあると教えてはくれる。しかし掴めない。
「堕落がお好みでないなら他の性質でもいいと思うがね。
本質の引き出し方は早めに学ばないとミラーが困るよ? お嫁さんを探さなきゃ」
「はて、俺は鏡と結婚しているのではなかったか?」
「鏡はミラーの奥さんだけど、子供を産んであげられないからね」
揶揄するように問えばさらりと返して来る。減らず口を叩き続ける鏡が黙る所は見た覚えがない。
「0歳の時点で青年の姿でいる意味は真剣に考えようね、ミラー。
ミラーは寿命が1歳なのかもしれないよ」
息が詰まった。……鏡は今、何と言った?
「不老は不死を約束する異能ではない。それは解るね?
鏡はね、ミラーが死んだらそこまでの命なの。
ミラーと繋がっているから、ミラーと一緒に死ぬ」
尾を振る黒竜は何年生きた個体だろう。一年ではあるまい。三年か、五年か。その命を喰らいたいと思った。
「ミラーが寿命を全うして逝くのなら鏡も諦めるよ。
でも、力の引き出し方も知らないまま命を散らすのは許さないから。もっとよく御覧よ」
よく見てみろ、と鏡に促された俺は視界内の課題に対して集中し直す。
「ミラーは竜の命を喰らいたくないか。よりよい命を喰えば、より永く生きられる」
鏡の言葉は、無自覚だった渇望を思い出させる甘美な誘惑だった。俺の中で寝こけていた何かが腹の奥底で寝返りを打つ。栓をして殺せと言う課題だが、要は殺せば喰えるのだ。殺せばよい。竜を殺す、俺自身の為に。
「鏡よ、要は喰えればいいのだな?」
「えー。嫌な予感がするなあ……どうしたいの?」
「殴り倒す」
俺は両手で戦槌を握り黒竜目掛けて駆け出す。気配隠しが効力を失い、竜が俺を見る。
だが竜に先制の吐息を許すほど俺は鈍足ではない。正面から戦槌で殴り飛ばしてくれる。鞘に収めたままの鏡の剣からは悲鳴が聞こえた。
「うわあ、そうなるのか! お願いミラー、魔術も使おうね!?」
士気高揚と身体強化は半ば本能的にやれる。形式ばった術として頭にあるのではなく、肉に血として定着した力がある。こっちなら引き出し方は知っている。俺がよく知った戦い方だ。より多く俺の元になった血の―――鉄槌を!
振り下す鉄槌は単発ではない。巣に飛び込んだ黒竜の腹に二撃、三撃と立て続けに叩き込む。悲鳴を上げる竜の反撃は遅い。俺の目には不自然に押し込められて見える。一手で打倒できなかった苛立ちは奥歯で噛み殺す。
「鏡が理力で止めてる! ミラーは殴るのに念動力も使えるんだよ、思い出して!」
きゃいきゃいとした叫び声を上げる鏡の声に納得し、頭の中で竜の爪の像を結ぶ。眼前の黒竜よりも大きく、強靭な竜の爪を。戦槌による連撃と同時にやるのは完全に捨て身だったが、なあに。殺してしまえば反撃はできぬ。初撃の手応えは充分にあったのだ。俺の二手目はまだ若い竜の鱗と肉と骨を叩き潰し、肺腑を潰した。やってみれば一方的な蹂躙だった。
「あっぶない戦い方しやがって……! ミラー、反省!」
「殺せばいいのであろう? 鏡が言ったのではないか、殺れば献立が増えると」
「そーだけどさ! 君は魔術師としての方がずっと強いんだよ、解ってるの!?」
「竜の血は甘いのだな」
「ミラー! 鏡のお話、聞いてないね!?」
手ずから命を奪った竜の流す血からは快い甘さを感じる。肉を得る為に知恵なき獣を殺した時にはなかった感覚だ。衝動に身を任せてナイフを抜き、僅かに竜の傷を拡げる。流れ出す血が心地良い。ああ、それこそ念動力の竜爪を使って縦横に引き裂いてやればよいのか? さぞ良い香りを楽しめるだろう。
「あーあー……。黒竜は毒が美味しすぎてミラーには逆にダメだったかー……」
鏡の声を聞いてはいたが、俺の興味は美味い血肉に長い事釘付けだった。強い毒を帯びる黒竜の死骸は、俺にとっては良質の餌でしかなかった。