190. デオマイアとエファ
鳥の目で覗き見る娘はエファに対して頗る友好的だ。幼子の手で朝食も摂ってはいるが、エファとの会話に熱心だ。
「昨日は母が夏の宮殿へ帰った後、次はいつ母に会えようかと考えてばかりいた」
「お母さんも同じだ。大使への警戒はそっちのけでずっとお手紙を書いていた」
「そうか……母も同じ気持ちでいてくれたのかね」
娘の六つある目が全て遠くを見る目になった。狂信的な表情を見せる際の母に似ていなくはないが、顔立ちそのものは母よりも父に似ている。
「お母さんはデミの気持ちを知っているよ。ミラーのお父さんは離宮の寝室で随分とお説教されているのだ」
「エファの全知は夏の宮殿には及ぶまいに」
「何事も観察だよ、デミ。朝は眠そうでお昼寝もしているお父さんの声を聞けば判る」
「……なるほど? エファならばそうか」
エファの言う通りでな。小皿で与えられた豆を食む鳥の目を食卓へ向けさせながら、夏の宮殿で俺の間近にいる母の腰に佩かれる鏡の剣を眺める。眠いのか父にしては口数が少ない。今日は母とアステールを外に出す事になりそうだが、父は当てにできるのかね?
あまりに眠そうなら俺が出撃する事も考えるべきか。俺が出るならスダ・ロンも強制参加だ。宮殿にゼナイダとマカリオスのみを残す事はできない。各部族との交渉に帝国の大使として着いて来いと言えば同行はする。
「デミに課されているお勉強は難しくはないのかい? 考え事をしていたらダラルロートに難しい課題ばかり積まれそうだ」
「言われてみると昨日課された女言葉の学習は難題だったな、ダラルロートよ?」
「退屈しておられる御様子でしたので難易度を引き上げました」
「……念の為に言うけれどデミに全知はないのだよ、ダラルロート」
「デオマイア様に相応の難易度ですとも。あまり疑って下さるな」
「今日はどんなお勉強をしてるのか見せて貰うからね」
話題を振られるとダラルロートも応じる。認識欺瞞で半ば気配を断っているダラルロートは座る娘の左隣に立ち、注意深く言動と表情を観察しているようだ。
「あれをエファに見られるのか!?」
「デオマイア様の舞踏の練習意欲にはよい刺激になりましょうな」
「フィロスの方が上手いくらいだぞ」
「習い始めたばかりなら当たり前なのだよ。デミの可愛らしい姿を見たいな」
「退屈かもしれんぞ」
「愛しいデミと一緒にいる時間さえも退屈なら、エファはとっくに退屈に殺されているのだよ」
「……そうか。エファなら構わぬ」
何やら甘ったるい会話だ。娘が照れる様子は鳥の目を通さなければ見られなかったであろうな。
フィロスと言うのは、満たされし聖釜が湧き出させる白いスープを啜っている黒いスライムの名だ。ダラルロートが産み落とした分体だと考えるなら俺にとっての孫分体か。フィロスはピーちゃんを同族だと察しているらしく、恐れ気もなく隣にいる。意思疎通を試みて来る様子はないが、知性が全くない生物の行動ではない。
「フィロスと一緒に踊っていると聞いていたよ」
「そうだ。俺がダラルロートと踊るには背丈が違い過ぎるのでな」
俺もダラルロートが直々に教えていると言う舞踏には興味がある。稽古をさせると仮足を伸ばし、デオマイアと一緒に踊っていると聞かされた母が随分と質問を重ねていた。スライムはスープだけの食事を手早く済ませると満足げに這い動いて娘の膝を乞い、丸くなって座り込んだ。……フィロスは俺の初恋の女性と同じくらいの大きさだ、思う所はある。
デオマイアが本当に子供ならば稽古を名目にして近い年頃の友人を作らせたそうだが、父よりも魔力の強い大魔術師から目を離して行動させるのは危険過ぎるとは意見の一致した点だ。
「練習そのものは嫌じゃないのだね?」
「覚える事は多いが、その分 気が紛れる」
「いい事なのだ。人としての生には楽しみが必要なのだよ」
「楽しみ……なあ」
「デミ、愛と堕落はどちらも生きる意欲を与えてくれる権能ではあるのだよ?」
適量ならな。鳥の嘴は豆を啄ばみ、俺自身も夏の宮殿で朝食を摂ってはいる。食事そのものにはそれほど意味がない。調理された肉や穀物を口にせずとも生きてはいける。分体であるエファも同様だ。食事とは円滑な会話の一助を求めた行為に過ぎないのかもしれない。
「エファはデミに愛を捧げよう。こうして食事を共にして言葉を交わせた事にエファは興奮しているし、今日は一日リンミにいられると思えば楽しみで仕方ない。エファにとって特別な日なのだ」
チーズと溶き卵を焼いたものに蒸した野菜、パンとスープ。アガソス風の朝食そのものには何の変哲もないように見えるのだがな。エファの穏やかな表情からすれば満たされているようだ。堕落では与えられぬ境地と思えば嫉妬めいた気分を味わなくもない。エファを満たしているものは愛だ。よく知ってはいる。
「エファであれば拒みはせぬ」
「喜びを表現する言葉の持ち合わせが足りない事を恥じるばかりだよ、デミ。愛に応えて貰える事がこんなにも心躍り沸き立たせられるほど快いと知っていたら、エファはきっと我慢などできなかった」
「そうか。エファがいい気分ならそれでいい」
応える娘の言葉数は多くはない。俺の半身にしては寡黙だなとは思うがね。それでも乞われる愛に応えてはいる。
……エピスタタの野郎は何で妻に毒殺されたんだろうな。
エファの語彙や感情表現の大元はエピスタタの知識と経験だ。エピスタタが俺の父よりも数段上の性悪なのは間違いないが、エファがデオマイアと上手くやれているのを見る限りでは疑問に思える。本人はアガシアとの間に子を授かれなかったからだと言っていたか?
正直な所 忘れてしまいたいが、奴と同じ失敗をして死ぬのは御免被りたい。俺に毒は効かぬとは考えていない。幽霊恐怖症を喚起されれば何をされても効くのは解り切っている。弱点を知られている者に嫌われたなら何をされるか解らんのだよ。
夏殺しの記録を抹消したばかりに同じ穴に嵌る事態は望ましくない。焚書にしてくれようと集めさせた資料の類は監察官らによる精査の対象になっていたはずだ。調査結果を訊いた覚えはない。目を通す必要を感じさせられた。あの憎たらしい喋り方を思い出せば陰気で殺伐とした気分にはなるだろうがね……。
大君の館の朝食は随分ゆったりと進められ、食後に点てられた茶を干した頃には暖かな冬の日差しが稽古場に差し込む頃合になっていた。俺が創造した生地で仕立てられた衣装に着替えたデオマイアは愛らしく見えたし、舞踏の練習を鳥の目で眺めるのは心楽しかった。舞としてまだ形になってはいないが、教えられた型を覚えようとしている娘は素直に指導を聞き入れていると思う。
ダラルロートは舞を教える間は認識欺瞞を緩め、表情の抑制と演技についてデオマイアに説いていた。舞踏は女としての足運びや所作の講義でもあるのだな。必要な教養だろう。教官が宦官のダラルロートだと言う点以外は疑問はない。
夏の宮殿に戻って来たならダラルロートとエファが詳しく語ってくれるだろう。母が問い質すのは間違いないのだからな。
「お稽古を始めて十日も経っていないのだよね? よくできているのだよ」
「そうか?」
「エファ、安易に褒めないで下さい。デオマイア様が達するべき水準は低くないのですからねえ」
「デミを褒めるのはエファやお母さんの大事な役目だと思うのだ」
鳥の目で見るエファは穏やかな表情で、どこか眩しげにデオマイアを見ている。
「お母さんがデミを愛しているように、エファもデミを愛している」
「エファ」
「ダラルロートも愛しているし、じいやもお姫様の事を気にかけている」
「……そうかね」
娘はエファを見つめているが、六眼のうちの一対はダラルロートを気にしているようだ。大君にしては嫌味めいた言動を抑えているとは思う。
「ミラーとお父さんだって愛してはいる。あの二人は無理矢理されるのが好きだから、仲直りでさえも手篭めにすればいいと考えている節があるのだけは頂けないけれどね」
俺はスダ・ロンと共に面会させられ、顔も名前も記憶に残りそうにない陰銀の部族のエムブレピアン達に拝まれていた所だった。額を抑えて呻いてしまった俺を誰が咎められよう。俺か、俺自身か。俺が断罪すべきは俺自身なのか。デオマイアも六つある青い目を随分と露骨に彷徨わせている。
「エファ、デオマイア様が困っていらっしゃいますよ」
「エファはデミが望まない事はしないよ。求めてくれるのなら何でもするけれどね……して欲しいのかい、デミ」
身に覚えしかねえんだよ! 目線の高さを合わせ、愉しげに笑うエファに誘われた娘が断る姿は想像し難い。返答に窮し、言葉を発せずにいるデオマイアはエファの琴線を掻き鳴らしてしまったものらしい。
「なんて愛らしいんだろう! エファも我慢しない方がいいのかな」
「接吻以上の事はもう十年待ってくれるか」
「もちろん。大人の遊びは大人になったらうんとしよう。成長するのは子供の間しかできない遊びをやり尽くした後でいいのだよ、デミ。お母さんとダラルロートが教えたがらないような事はエファが教えてあげる」
明らかに勢いに圧されたデオマイアは十年と口にしたが、エファは言質を獲ったかのような喜びようだ。実際、言質ではあるのだろう。
「キスさせてね、デミ」
「……エファには許す」
エファが娘の頬に落とした口付けは恭しくさえあった。接吻はしていいと言われたなら俺だってする。娘の態度はまだ硬いが、外堀と内堀を埋め立てられた砦の様相を呈している。
なあ、ダラルロートよ。これでいいのかね。俺は偽相棒に大君を見上げさせたが、認識欺瞞に隠された大君の心情は窺い知れなかった。