182. 暗黒騎士の茶会
黙っていても差し出される命の値打ちなど知れたものだ。それでも、死期を目前にして俺の子を産もうと腐敗の種子を受け取った女王の命は価値が高い部類であろう。女王はレベル15の精霊導師であり、デオマイアには遠く及ばないにしても定命の者としては相当だ。
「……俺が腐敗の種子を蒔くのは初めての事だ。
父が蒔いた際の記憶にある番は火山の溶岩を吸って大きく育ったスライムだった」
俺の配下で言ったら、リンミの大君ダラルロートの跡継ぎと目されているワバルロートがレベル14だ。ワバルロートにはまだ成長の余地があるとは思うが、死を迎えた時にどこまで強くなれているかは定かではない。
まだ認識欺瞞を見破れなかった頃、俺はリンミの太守ダラルロートをレベル15だと思っていた。今にして思えば伯爵領の統治者にしては高過ぎると警戒すべきレベルだったが、実際にはレベル18と更に高かった。二柱に対して使徒として仕えていたダラルロートが異常なのであって、女王のレベル15と言うのは充分に高いはずだ。
アガソスの例で言えばティリンス侯エピスタタでレベル17、スタウロス公アステールはレベル20だ。アガソニアン神族の侯爵よりもレベルで上回っていたダラルロートに手を出してよく無事だったな、俺よ……。リンミに目を付けたのは随分なやんちゃだったな、とクリームを入れた茶を啜りながら思う。
種子を受け入れた女王は今の所、動けてはいる。死期を間近に控えるほど年老いてはいても強者ではある。意識がいつまで保たれるかは解らないものの、俺の種を受け入れた女には違いない。愛しくは思ってもよいのではないか。
「一度に四つの種子を受け入れた父の番は産後に酷く衰弱した。そなたに与えたのは一つだが、マカリオスと側近も含めて覚悟はせよ」
「……覚悟の上での請願だ、婿殿」
女王が地獄に堕ちたなら、あまり苛めないでやって欲しいとは口添えしに行ってやるよ。マカリオスの子を産んだ事もあろうが、おそらく女王にとって最後の子については俺の子の母には違いないのだからな。
「産む事ができればわたしにとって十三人目の子になります」
「そうか。俺の祖母たる大母はいかなる出産であれ祝福して下さるだろう。
だが女王は下がって休め、腐敗の種子による繁殖は苦痛と衰弱を伴うだろうよ」
「ファエドラ、下がるがよい。マカリオス、連れて行ってやっておくれ」
「我が女神の御下命であれば」
気丈な事だ。遂に女王は俺の前では苦痛を感じている様子を伺わせず、微笑んでさえ見せた。俺の手から離れた種子が女王の体内へと吸い込まれた後、劇的な反応が進んでいるだろうに。妻も退室を促し、マカリオスが女王を抱え上げて側近らと共に去った。
「なあ、妻よ」
「ファエドラが望んだのだ。あの子はより強い夫を求めて子を孕んだ。十二人産んだ子の半数は戦の中で死んだが、生き残った六人の王族は全て契印との契約が可能な子らだ」
茶を汲み、結局俺が手を付けただけの菓子を食みながら妻の声を聞いた。女王の半生を語る妻の為にと茶を淹れれば、杯の中身がすっと消える。
「有能な女王だったんだな」
「イクタス・バーナバの自慢の娘だとも。戦の中で死ぬか、尊い生贄として命を捧げる事で生涯を終えようとしていた。死期を前にしてミラーソードの子を授かれる可能性があるのならば種が欲しい、と言い出したのはファエドラからだ」
妻の為にとお代わりを注ぎ、菓子を勧めればふっと消えた。リンミで執り行った国葬の際に営んだミーセオ式の通夜じみた雰囲気が漂う。だが俺一人で菓子を食うよりはいい。独りで消費するのは寂しい。
「俺が魔性だと知った上での事だろう? 気丈な女だ」
「知らせるべきではなかったのかもしれないが、ファエドラは精霊導師だ。得手ではなかろうとも占術を扱う事はできる」
「そうか。俺はレベルを偽装はしていないからな」
俺の最大の弱点である幽霊恐怖症を鑑定で知られるのは流石に馬鹿馬鹿しい事態ゆえ、その身の醜悪を覆い隠すアディケオの使徒らしく隠蔽している。醜さとは弱さを含んでもいいはずだ。レベル30と言う事実は伏せていない。俺は治水の君アディケオの第三使徒、暗黒騎士ミラーソードだ。強者で当然であろうよ。
「婆ちゃんよ。偉大なる大母よ、新たな母と我が子を守り給え。俺の二人目の娘か一人目の息子かは知らないが、宿るべき魂を導き給え」
祈りは自然と口を衝いて出た。女王は己の命をエムブレポの為に捧げる気だったと言う。ならば祖母は聞き入れてはくれまいかな。祖母は捧げる者に対して報いてはくれよう。
俺は出来の良い菓子を創造した大皿へ丁寧に取り分け、両手で皿を捧げ持った。俺から祖母への捧げ物としてはささやかな供物だが、孫のお手製菓子を食べてやって欲しい。
「捧げよ、然らば与えられん」
腐敗を帯びた手は皿諸共に全ての菓子を黒い靄のようなものに変え、現世から消滅させた。魂のない供物であっても聖句と共に捧げれば祖母の手に届くのではないかな。祖母好みの命や魂ではないやもしれぬし、味に改善の余地がある事は認めるがね。ここは一つ、孫の上達の過程も楽しんでやってはくれまいか。
「敬虔な信仰は日常的な祈りの積み重ねによっても深められるものだ」
「いたのか、母よ」
声に驚いてエムブレポの流儀で扉のない戸口を見れば、平服に着替えたか擬態した母が鞘に納めた鏡の剣を佩いて立っていた。
「何やら我が神の神力が振るわれたのを感じたのでな。そなたの所業であろうと様子を見に来た」
「そうだよ。血族が増えるのは歓迎してくれような、母よ? 女王の腹からいつ産まれるかは分からん。妻との子の方が先かも知れぬ」
「……ミラー。今日はそんなに繁殖したい気分だったの? ちょっと目を離した間に何があったのよ」
俺は偲び笑いを漏らし、母の茶を淹れるべく新たな杯を用意した。視線が甘味に向いているぞ。甘いものが好きなのはよく知っている。
「話すから茶にしようではないか。今日はバシレイア風の菓子を拵えてみた。母の感想を聞かせてくれい」
妻の為の茶はもう少し大きな器がいいのだろうか? お代わりを注ぐとふいと消えてしまう。茶器毎捧げた方がいい気がして来る早さだ。神域で接する妻の巨躯を思えば茶器毎であっても雫の一滴であろうな。夫としては精一杯、旨い一杯を淹れる事に注力すべきか。
「何やら懐かしい味だ」
「母の好みを再現できていると良いがね」
掴みは悪くないようだ。母に給仕をしながら話をするのは俺にとって楽しい時間だ。
「……とまあ、こんな次第だ。女王が負うであろう支払いについて説明はした。くれと言われたからやったに過ぎない」
母が飲み干した茶のお代わりを淹れるのは新しい茶葉だ。夏の宮殿の本殿にある俺の一室の気温はクリームの都合で少々下げている。常夏の気温そのままでは泡立てたクリームが溶けるのでな。父が作った袋と同じ要領で、元素術で冷風を作り循環させている。
「地獄に堕ちるのが確実ならば、生前に悪へ属性転向しておいた方が楽かもしれぬ」
「母は地獄で苦労したのか? 死ぬ前は正しき善だったのだよな?」
「そうだ。名を喪った聖騎士と呼ばれている男の属性は正しき善だった。そ奴は堕とされた地獄で正気を磨り減らしながら腐敗と堕落の中を彷徨い歩き、絶望の最中で属性転向する術を悟るには時間を要した。地獄の声に耳を傾けさえすれば良かったのだがな」
クリームを好きなだけ使ってくれと小さめの器で差し出せば、母は目一杯投じた。目測を誤ったか? もう少し器は大きくても良かっただろうか。名を喪った聖騎士当人に違いなかろうに、母の言いようはどこか他人事めいている。
「……その、なんだ。お母さん」
「そなたが私を堕としてくれた事は我が神のお導きだ。そのように怯えてくれるな、愛しい神子よ」
そわそわと怯える様子を見せた父に接する母の声は淡々とした調子だが、父は気を落ち着けてくれたようだ。
「そう。愛してるよ、お母さん」
両親の仲がいいのはいい事だ。女王には悪属性への属性転向毒を与えてやるべきか。中立にして中庸の今でも作成自体はできるのだが、中立にして悪だった当時よりも属性力が弱くなっていると指摘されたものしか創れない。腐敗は悪の権能であり、全力を発揮するには担い手も悪属性である事が望ましいのだな。リンミに俺が悪属性だった当時の在庫がまだあるか問い合わせてはやろう。
「女王は俺の子を産めると思うか、父よ」
「薬包紙に包んであげようか。それとも剥き出しのまま聞く?」
俺が尋ねた時には父の声は既にいつもの調子だった。
「素でいい。俺も父の記憶を知ってはいる」
「猫が虎の子を産もうとするよりもずっと分は悪い。命と引き換えでも難しい」
「祖母の加護を受ける事ができても厳しいか?」
「かーちゃんが祝福するのは安産な出産までだもの。僕の可愛いかったお嫁さんのように予後がよくない事はあろうよ。まして女王って高齢でしょ。よくエムブレピアンのままの女王に種を蒔く気になったね、ミラー」
高齢だと言われて俺は首を傾げた。女王は確かに年経た外見ではあったが、精神は20程度でしかない。
「シャンディを抱くのと大差ないのではないか? 精神的には21だぞ」
「そなたは時に蛮勇めいて寛容だな、ミラー」
母が何やら目を瞬かせ、菓子を手に取ったまま中途で固まっていた。小麦粉に卵とバターと砂糖をたっぷり投入し、木の実と共に揚げたものを母は気に入ってくれたらしい。
「そういうもんかね。女王は嫌いではなかったよ」
「ミラーは『嫌いじゃない』で種を蒔けるのなら、もうアステールとダラちゃんに仕事は全部任せてひたすら繁殖に精を出した方がいいのかもね……」
父にも何やら批判的に言われている気がしてならない。俺の好みは初恋の女性だぞ。女王は嫌いではなかったから愛せるだろう程度ではないか。女王は多くの子を成し、良き子を多く育て上げた母だろうに。……それとも、俺の感性は妻の意識に侵食され切っているのだろうか。
「二人とも俺の事を何だと思っている」
「僕には無理よ。もっと特別な感情がないと腐敗の種子は取って来れないと思う。少なくとも眷属には変えなきゃ、現住蛮族はよっぽどの事がない限りは無理よ」
「神子よ、そなたの言い分からすると私はどうなるのだ」
「お母さんは僕の特別な人だし、そもそもスライムじゃないか」
「そうか」
家族で茶を楽しむ場にデオマイアもいれば完璧なのだがな。こうして離れている間も俺は血族を新たに拵えているぞ、デオマイアよ。そなたを姉にしてやろうではないか。