181. 女王と使徒の請願
妻が俺と話すだけなら神域に呼べば済む事だ。わざわざ夏の宮殿の本殿の一角に部屋をくれたのは心遣いばかりではあるまい。そう考えれば妻は本題を切り出して来た。
「ミラーソード。ファエドラとマカリオスに会って貰えるだろうか」
「女王とマカリオスに? 今からか」
「二人でミラーソードと話をしたいそうだ。折り良く両親は席を外してくれている」
エムブレポの女王ファエドラと妻の第一使徒マカリオスが揃って話したがる話題など限られていようにな。二人とも嫌いではないが、今日は俺の好かぬ話をされるかもしれんな。両親抜きの方がいいとなれば尚更だ。
「良かろう。呼ぶといい」
妻の意志を受けた陽銀の側使えが慌しく動き始めた気配がある。
食卓を移動させ、幾つか俺好みの間食を創造した。今日はバシレイア風に水牛乳のクリームでも食べようじゃないか。クリームには砂糖を混ぜ撹拌し泡立てた風にしてヨーグルトに添えてやる。北側の諸国の果物と木の実を砕いて混ぜ込んだ小麦粉と卵と砂糖の混合物を焼いた菓子も供するとしようかね。たまには俺の擬態するバシレイアンらしい方向性で攻めてみよう。……鱗と六眼のせいで最早誰も俺をバシレイアンとは思わないかもしれんがな。
俺は母が生まれた国の知識を持っている。擬態した姿からバシレイアの暗黒騎士とアガソニアンには呼ばれていたそうだが、俺自身は生後すぐに生れ落ちた枯死の森を離れた。危険だったからだ。当時俺はまだミラーと偽名を名乗る事になる自我を確立させておらず、鏡の剣もなかった。離宮の寝室で母と父を触れ合わせた間に父の記憶を覗き、ようやく客観的に振り返れるようになった。小さくなってしまった銀の宝珠だけを手に彷徨っていた頃の記憶を辿れば、俺は枯死の森の近辺へ転移する事ができるだろう。
……まあ、今やることではない。真に大母が俺に求めている事が何なのかは知ってしまったがね……。規律を第一の権能とする律する賢母ノモスケファーラ云々以前に、やるべき事が俺の前には山と積み上げられている。
両肩の烙印を翼として実体化させ、多くの力は込めず垂れ下がるに任せる。白い鱗の生えた下から灰色の烙印が浮かび上がるのは妙な心地がするが、じきに慣れてしまうだろう。鱗と六眼に戸惑ったのは最初の一日だけで、二回目に神域から戻った際には違和感などなかった。
側仕えが来客の到着を告げる頃には俺は六品ほど菓子を仕上げ、アガソスの作法で茶を淹れる手筈を整えていた。側仕えの仕事振りは残念ながら不満でな。俺自らやりたくなっていけない。
「ファエドラ、マカリオス。そなたら自身の意志でイクタス・バーナバの夫と話すがいい」
「そう固くなる事はない、女王。マカリオスもよく来たな」
「婿殿にお願いがあり女王共々に参上した」
「ミラーソード様、我らの請願をお聞き入れ下さい」
毎日顔を合わせてはいように、年経た女王の六眼は何やら決意を感じさせる。銀の鱗に全身を覆われた巨漢と言っていい体格のマカリオスの六眼も同様だ。面倒事を俺に押し付けたいと顔に書いてあるぞ、二人共。
「王にはならんぞ。遠慮なく遠出できる身分を維持したい。現世の塵芥が俺を不当に拘束するならば、いずれ滅ぼさねばならない時が来る。そう遠い未来ではない」
「神王としての即位を婿殿が拒絶するであろう事は我等が女神より承っている。請願は別件だ。どうか女王の願いを聞き入れて欲しい」
……口振りからして確実に面倒事だな。心当たりは幾つもある。
「椅子に座ってはどうかね。並べた異国の菓子は俺が変成術で創造したものだ。質はある程度のものを保障できるが、そなたらの好みに合うとは限らぬ」
面倒だなと思いつつも側仕えに合図して女王とマカリオスを着座はさせた。妻は沈黙を守っている。
「ミラーソード様。わたしはいつ万色の大海から遣いが来てもおかしくはない歳月を生きました」
万色の大海は中立にして中庸の広大な冥府だとされている。他の冥府から爪弾きにされてしまったような者でも受け入れてくれる代わり、魂が余程強くなければ来世を得る事はできないとも言われている。弱肉強食とされる地獄よりかはまだ緩い冥府らしいが、俺は行った事がない。エムブレピアンの死生観として、死後に魂が一匹の魚となって目指すのは万色の大海なのだそうだ。
「女王の精神年齢は21歳と鑑定できるのだがな」
「わたしは王族として勤めを果たす為に成人を早めた身です。旅立ちの時も相応に早くに参ります」
知っている。肉体的には40歳を過ぎている。エムブレピアンの肉体的な寿命は40歳前後と知られてもいる。
「跡継ぎは定めていると聞いていたがな」
「陽銀の長との間に産んだ子フィロテアがおります」
マカリオスと女王の子。そうだ、面会させられた事もあったはずだな。全く印象に残ってはいないが。
……やはりエムブレピアンに茶を淹れさせると微妙な事になるな。女王とマカリオスには問題ないのかもしれんが、陽銀の部族の者の茶汲みは落第点すれすれだ。ダラルロートならば手付きを見ただけで口にしない可能性が高い。茶葉と茶を消し去り、理力術で茶器を操って淹れ直す。
「フィロテアはデオマイア様の御力の足元にも及ばない非力な娘です」
「デオマイアは俺の半身であり、妻が直々に産み落としたエムブレピアン神族だ。尋常のエムブレピアンの尺度で測るな」
実は俺、牛の乳からヨーグルトを創るのは大得意でな。腐敗の大権能が小権能として発酵を含んでいるせいだろうか? バシレイア風に水牛の乳を使うのが好みだ。エムブレポの政治? 実の所、興味が持てない。
「デオマイア様はお元気でしょうか」
「まだ危うい。そなたらを会わせられる状態ではない。俺と父は面会を拒否されたよ。そなたらは俺と同程度か、下手をすれば俺達以上に嫌われている」
「……デオマイア様は我々には御心を開いて下さいませんでした」
「事情がちと厄介でな。俺からそなたらを咎めはしないが、娘の癇癪で何人か殺されてはいよう? 報復が望みならば」
淹れた茶には砂糖とクリームをたっぷりと注ぐ。アガソスの茶芸からすれば邪道であろうが、バシレイアの茶はこうして飲むのだ。母も好きだと思うぞ。
「声を上げる者を俺直々に全て始末するゆえ引っ立てて来るがいい」
茶を口に含む。実に甘いな。
「やはりデオマイア様に女王として即位して頂く事は叶いませんでしょうか。
エムブレポの定命の者で最も濃く神の血を受け継ぎ、優れた精霊の担い手でもある者はデオマイア様です。デオマイア様が即位して下さるのなら、全ての部族が異を唱えようがないのです」
「我が娘は心の強さを受け継げなかった。今はまだ守られて育てられるべき幼子に過ぎない。却下せざるを得まいよ」
用意している菓子も甘いのだが、くどくはし過ぎていない。幾層も執念深くパイ生地を重ねて作るべき時間の掛かる菓子も、俺の変成術でなら時間は要らぬ。ある程度の集中力は必要だがね。本来なら砕いた木の実を磨り潰して蜂蜜と混ぜ込んだものを塗り込め、パイ生地を重ねて作るのだ。
「既にミーセオ帝国から婚約の要望が届いてはいるが、現時点で受諾する内容ではない」
「アディケオの第一使徒とデオマイア様の婚約と伺いました」
「女王の跡継ぎとてイクタス・バーナバの第一使徒との子ではないか。格だけで考えればおかしな事はあるまい」
混ぜ物のないヨーグルトをひと掬いし、添えたクリームに触れさせてから口に運ぶ。双頭の異能を食事をしながらでも全く淀みなく発声できる、と言う使い方をしているのは我ながらどうかとは思う。
「ミーセオの守護神の命として下されても拒めるのですか、アディケオの第三使徒ミラーソード様」
「娘を嫁にしたいのなら婿候補を俺の嫁に遣せとでも言い張るさ。俺は男と女のどちらでも喰えるからな」
匙を手にしつつ、もっと美味く創りようはあるはずだなと感じる。俺は調理技術を極めてはいない。原材料の生産技術も相応に高いはずだが、極まってはいない。もっと美味い料理を口にした経験ならばある。
「ミラーソード様、お願いがございます」
女王はまだ何も口にしていない。マカリオスも同じくだ。
「我等が女神の夫たるミラーソード様が即位を拒まれ、デオマイア様の即位も叶わぬと仰るのであればどうかわたしの願いをお聞き入れ下さい」
「言え。聞くだけは聞いてやる」
無慈悲に聞こえるように声を出した。エムブレピアンの命など取るに足らぬとしか考えていない暗黒騎士に見えるように。
「ミラーソード様の貴い子種を下さいませ。わたし自身は旅立つ事となりましょうが、神王となるべき子を産み落とせる可能性はございます」
「女王の請願を受け入れては下さらないだろうか」
白い鱗に覆われた左手を握る。俺の雰囲気の変化にマカリオスは気付いただろう。緊張が走るのは見て取れた。力の源泉の奥底に片手を突っ込み、腐敗の種子を一つだけ持ち帰った。今の俺にはそう難しい事ではない。
「欲しいのならばくれてやる。
だがマカリオス、そなたは確実に女王を失う事になる。愛してはいようにな」
左手を開く。蠢く黒い種子が一つ。
「女王よ。腐敗の種子を受け入れたが為に死ねば、赴くのは万色の大海ではない。
地獄だ。悪属性ではない者にとっては辛い運命が待ち構えているぞ。それでも俺の子が欲しいか」
右手には茶の杯。クリームを混ぜた茶を啜る。
「子は人の形をしているとは限らぬし、俺の力をどの程度受け継ぐかも定かではない。母体の弱さに引き摺られるであろうな。俺を受け入れるにはそなたは小さ過ぎる上、死期も近い。そなたの望み通りの神王が生まれるとは限らない」
母めいて淡々とした声を出しているな、とは自覚している。
マカリオスの眼前で死なせるのは悪趣味だろう、とも認識はしている。
「俺はバシレイアンなどと言う種族ではない」
「我等が女神より伺っております」
俺にはどちらでもいい事だ。祖母はエムブレポ歴代の女王の中でも有能だったと聞く女の魂に関心を持つかもしれない。持たないかもしれない。
「止めずともよいのか、マカリオス。
そなたにとってデオマイアは息子の仇、俺は女王の仇と言う事になるが」
妻の第一使徒を殺す気はないのだがな。歯向かって来たなら殺して喰う事に躊躇いは持つまい。
マカリオスの斧は鋭く、土着神に仕える第一使徒に相応しい腕前だ。竜の首を易々と落とす程度には鮮やかなまでの切れ味を誇っている。一撃の重さだけなら母を上回るかもしれない。
「「我等が女神の御為であれば」」
女王とマカリオスは声を揃えた。
……娘が夏の宮殿を嫌っていた理由が俺にも解った気はしたよ。夏の宮殿では誰も彼もがこうだ。
「選ぶならば種子を手に取れ、女王よ。そなたの肉体が何歳であろうとも懐妊に失敗する事はない。増殖の異能が繁殖を助けるからな」
子が凶暴に母体を食い荒らして生まれるのか、それとも母体を労わって産み落とされるまでは赤子の振りをするのかは俺も知らない。種子は原始的な意志を持っているはずだが、今は沈黙を守っている。
「選択は委ねよう。妻も良いのだな」
「イクタス・バーナバは我が娘の意志を尊重したい」
「そうかい」
俺は女王が差し出した両手の上に種子を落としてやった。
女王が俺の予想よりも強かに生き延び、本来迎えられるはずの冥府へと旅立つ可能性を完全に否定する事はあるまい。俺が初めて腐敗の種子を与えた現住種族は、死期を間近に控えたエムブレポの女王だった。