179. 欲望による克己
「よく眠っていたようだな、我が子よ」
目を覚ましてみれば母の声が近かった。妙に近いぞ、と思えば夜着に着替えた母がすぐ隣にいた。夜はいつも神域にいたから、エムブレポの寝台を使ったのは初日以来ではなかろうか。白い鱗を生やした俺に触れる手の温かみは何だろう。母の手はこれほど優しかっただろうか。違和感しかないと言ったら怒られるだろうか。
「いいかい、頭がよろしくないと評価が固まりつつあるミラーちゃん」
父の声を聞き、鏡の剣を探せば広い寝台の端に抜き身で浮いていた。鏡面処理した刀身には銀髪の魔術師が映っている。
「よーく考えて御覧。僕の魔術適正は君と同じだ。死霊術と精霊術は扱えない。僕が作った袋から君の恐れるものが出て来る事はないぞ」
「しかし、父よ。だったら涼み袋の中身は何なのだ?」
身を強張らせると母が宥めるように撫でてくれた。落ち着かなくてはならないとは思うが、涼み袋とはお化けや精霊を詰めた袋ではないのか? 冷やりとした空気に首筋を撫でられる心地がして俺は怯えた。
「僕が作った涼み袋なら君の枕元の上にある」
「そなたに害を為すものではない。涼しかろう」
母の手が伸び、何やら口の開いた袋を俺の眼前に持って来た。小さな袋からは涼しい風が噴き出しており、夏の宮殿の高い気温を幾らか下げている。
「僕が作った涼み袋は元素術の産物だ。身体に害ではない程度の弱い冷気を出す袋でしかない。袋の口を開ける時に強風と弱風の切り替えもできるぞ。今は弱風だ」
「……なんだそれ。袋の中に恐ろしいものでもいるのか?」
「心配しなくても何もいないよ。無害な術具さ、誰にとっても」
母に手渡された袋をどうやら無害らしいと知ったものの、疑わしく思った俺は占術で鑑定もしてみた。父の作った術具で、ごく弱い冷気を噴き出すと言う効果しかないのは本当だった。
「本来の涼み袋とはこうしたものなのだと思われる」
母の声が今日は妙に優しい。抱き寄せられる手付きも別人のようだ。何なんだ一体。白い鱗の生えた肉体を恐れ気もなく撫でられるのは心地いいが、違和感が強い。くすぐったい。いっそ殴り付けられて流血した方が安堵できる気さえする。
「そうよ。涼み袋だぞー、って言われただけでミラーが怯える必要はないのよ」
「しかしな、母に父よ……」
デオマイアが使ったような恐ろしい涼み袋も存在しているではないか、と言いたかったが俺は黙り込んだ。そうではない、両親が俺に求めている態度は違う。そのくらいは解るのだが。
「せめてこの程度の障害を理性によって克己できなければ、私達とイクタス・バーナバが護ろうともいずれは何者かに屈服しよう」
「今のミラーは多次元世界の中でも最弱を争えるレベル30よね。無害な術具の袋でもダメだなんてお父さんもお手上げだわ」
両親からの評価が散々だぞ!? そもそも、俺が涼み袋を恐れる原因は父の与太話じゃないか! ダラルロートからも聞かされた気はするが、大本は父だろう! そう言いたかったのだが、思うようには言葉が出て来ない。寝台の上に寝かされたまま、夜着を着た母が俺の上に跨るのを六つある眼でただ見ていた。
「母よ、どうした?」
「そなたの弱々しい様子を見ていると欲が出てな。善意から支配してやりたくなる」
「母の口から善意なんて単語を聞くと鳥肌が立つぞ」
俺の肌には今や隙間なく白い鱗が生えているがね! 鳥肌は言葉の綾さ。むしろ今なら俎板の上の鯉と言う奴かね? 母は刃物よりも鈍器と徒手を好むが、包丁を手にしているようなものだ。こうして跨られてしまうと力では脱け出し難い。優しげな目元をした母は俺に凝視を注ぎ、愉しげに口許を歪めている。
「ダラルロートは母に何を教えたんだよ」
「調整に際して少しばかり手管を手解きされたまでだ」
ダラルロートが腐敗の邪神の司直としての意識を持ってしまった母に施術してくれたのは見ていた、見ていたがなあ。
「気合入れ直さねえと取って食うぞってか」
「委ねてくれるのなら愛に浸らせてやろう」
愛ね。……何だか腹が立って来たぞ。少しばかり意識を源泉に沈め、魔術師としての力の一部を暗黒騎士のものへと入れ替えた。あまりやりたかないが、母がやれと言っているのは解った。さもなくば支配された方が楽だぞと。我が血族の善性のなさを知ってはいるがね、祖母よ。
「俺を受け入れろ、母よ」
命じれば母の表情から装われた優しさが剥がれ、見知った母のものに変わるまでそう長くは掛からなかった。
素を現し、力の抜けた肉体と上下を入れ替えてやる。堕落に溺れた母の肉体は思ったよりも容易く扱えた。意識はあるものの陶然としている母の上に跨るのは心躍る経験だった。俺の分体であっても取って食ってやりたくなっていけない。
「六眼で味わう凝視はどうだ。母には心地よいかね」
「……我が神を近しく感じる」
「そうかい。父にもしてやろうか」
「僕はいい。かーちゃんに触れられてもいい気分にはならん」
「それは残念だ。俺が注ぐ堕落は快かろうにな」
吸収してやったら幾許かは楽しめようか。それとも吸収し、俺が満足するまで何度でも産み直してやればいいのか。その方が母も愉しんでくれようか。母の眼を覗き込み、両肩の烙印も使って堕落を注ぎ込めば愛しく思える。猫撫で声で訊いてみた。
「実際の所デオマイアはどうだったのだ、母よ」
「……デミの精神は弱い。袋に怯える平時のそなたも強くはないが、より一層薄弱だ。
守ってやらねばならない。外敵からも、デミ自身の悪意からも。生きる事を望んでいない意識の誘導にはダラルロートでさえ苦心している。私への執着を利用する事も已むを得まい」
「母は愉しんでいないか?」
「少しばかりの役得はおくれ、我が子よ。
私とても飢えてはいる。デミとそなた、或いは神子と癒着できれば深く満たされるとは知っている。取引によって宥められているに過ぎない」
烙印の強い疼きを感じた。俺であれば母の飢えを紛らわせてはやれよう。そうしてくれていたのと同じように触れながら堕落を注ぎ入れる。吐息が漏れ聞こえても満足はしてくれていまい。母が感じている飢えは相当に強い。ダラルロートはよく抑制できていたものだ。
「エピスタタに殺され、蘇らされた直後の俺と同等の半身のはずなのだがな」
「同等ではないのだ、ミラー。魂裂きで裂かれた魂は多かれ少なかれ損傷する。そなたが神子に五分の一ほどの魂を盗まれた際の損傷の比ではない」
母は陶然としていたが、堕落に溺れて記憶の混濁を起こしてはいない。望まれるままに堕落を注ぎながら鏡の剣に意識を向ければ、父はそっと宙を滑って逃げ出そうとしていた。
「なあ、父よ。何度か訊ねる機会はあった。本当の所を教えてくれんかね」
「……あー、うん。僕は君の魂を少し貰って存在している」
「五分の一は少しなのかね」
「まだ私よりも魂は大きいであろうな」
母が手招けば、父は宙に浮くのを止めた。そうしろと命じたのだがな。口説き文句までは吹き込んでいない。
「そなたも浴びればいい。私と共に溶けるといい」
「待って、離して! お母さんに食べられちゃう!」
「案ずるな、俺が食わせはしない。触れ合うだけだ」
母の手が鏡の剣の柄に触れる。銀の宝珠を介せば父にも伝わるだろう。
「……お預けを命じられ続けるのは辛いものだぞ、ミラー」
「最優先で魂洗いを進めるゆえ許してくれ、母よ。愛している」
愛していると口にしながらも上位者として振舞わねばならないのだがな。
デオマイアにはできなかっただろう。遅かれ早かれ、ダラルロートに溺れて従属を選ぶ事は妻共々知っていたよ。俺まで溺れては半身の隣の独房に囚われる事になろう。母に与える口付けが応えを封じてしまったから、愛の言葉を聞けなかった事を惜しくは思った。