178. 想像と現実
夏の宮殿は妻の聖域だ。双頭の権能により狂神として恩寵を授けるイクタス・バーナバの聖域であり、狂属性の者には素晴らしい場所だと妻の第一使徒が言っていた。中立の俺にとっては妻の声と心が近しく感じられる。正属性の者が留まるには危険な場所だと聞いた。そして夏の宮殿の一角にある離宮に滞在しているミーセオの外交使節団の多くは正属性だ。問題は起きている。
例外的に正しき善のアステールは平然としているが、アディケオに呪われて外せない呪面の力だそうだ。
正気を保ちたいミーセオの官僚達が呪面の神力にあやかろうとし、アステールに対して数珠を通した手を合わせて拝んでいる姿を見た時は何事かと思ったよ。官僚とアステールの様子を眺めるスダ・ロンも微笑が苦笑に変わっているように見えた。
「なあ。今のは何してたんだ、アステール」
「アディケオの神力に触れると彼らは苦痛が和らぐのだそうだ」
アステールにしては平坦で無感動な余所余所しい声を聞いた。呪面の力で認識欺瞞できるはずだが、当人が不機嫌さを隠そうとしていない。アステールも崇め奉られるのは嫌かと思えば仲間意識を感じた。
「苦痛? さっきのは戸籍の下準備をしている官僚じゃなかったかね?」
「どう見ても成人したエムブレピアンに年齢を質問しても頻繁に3歳だの4歳だと答えられる事が辛いのだ、と愚痴を聞かされたの。誕生日はおろか生みの親が誰なのかさえ知らぬ住民の多さにも悩んでおったか。エムブレポはそうした国じゃろうに、覚悟の足りぬ事だ」
「……よく解らぬ」
官僚に対して明らかに好意的ではないアステールに解説を求める限界を感じなくもなかったが、俺はもう少し話をしてみた。
「戸籍を作る為の情報が揃わないのが官僚としては嫌なのか?」
「現場で直面した困難から今後の苦難を見通してしまい、苦悩しておるのだ。
卿は口を縛った小さな袋を一つ、意味ありげに見せられたなら何を想像する?」
小さな袋で、口を縛った……?
「それは、このような?」
スダ・ロンが何やら巾着袋のようなものを手にして振ってみせた。待て、見覚えがあるぞ!?
「我々は今、何の袋かまでは卿に明言しておらぬが……」
「解るよね、ミラー」
「ミラーの苦手なものなのだ」
アステール、エファ、ゼナイダの三人に言われずとも知っている、そいつは涼み袋じゃねえか! 膝の力が抜け、身体が傾ぐ。幽霊恐怖症の発作だ。袋の中にはけしからぬ滅ぼされるべき手合いか、存在を許し難い部類の精霊が詰まっている!
「ミラー、袋をよく見て御覧よ」
鏡の剣の中にいる父の声が聞こえたが、俺にそんな恐ろしい事はできん! 常に両脇を固めてアステールに味方しようとするエファとゼナイダに煽られたのが止めだった。涼み袋だ! 普段なら妻が支えてくれるのだが、今は床に片膝を突いてしまっている。
「卿が怯えておるのは小袋が真性の涼み袋である可能性に対してだ。
超重篤恐怖症を患う卿は自身の想像によってさえ行動の自由を失いかねない。同じような事だと言えば理解できようかな」
返事をしようにも口が利けねえよ! アステールめ、俺を処刑できると言うのは本当らしいな。悪意を持って行動できているではないか! 行動不能に陥れられた俺にスダ・ロンが歩み寄って来る。
「ですがミラーソード様、よくお考え下さい。
ミーセオの大使である私が使節団の代表である第三使徒、暗黒騎士ミラーソード様を脅迫するような事を致しますでしょうか?」
サイ大師ならやるだろうよ!! ただのミーセオの大使であったなら、俺を神域に招いている間でさえも妻が貴様を監視などするものか! その袋を俺の眼前に差し出すのは止せ!
「仮に涼み袋であり、ミラーソード様の苦手な何者かが詰まっていたと致しましょう。
恐怖症の発作を脱した後、ミラーソード様の決定的な不興を買いませんでしょうか? 定命の者に過ぎない私にそのような事ができましょうか?」
嘘吐きめ! しかも開けようとするんじゃない!! 俺はもう、首はおろか瞼一つ動かせんのだぞ! 眼前には半ば紐の緩んだ袋が揺れている。
「この小袋は本当に涼み袋でしょうか? よくお考え下さい」
「我が子よ、そなたは自力で立ち上がれるはずだ」
手紙を書くのに忙しくしている様子だった母が俺を助ける気になったのか歩み寄って来てくれたが、おかしな事を言ってくれた。俺は完全に発作を起こしているぞ? 恐怖の対象が眼前から去らない事にはどうしようもない。烙印を紋様から翼にする事も恐慌に陥ってしまった後ではできない。
何だ、どうして今日に限って誰一人として俺を助けてくれないのだ!? 俺は知らぬ間にアディケオかサイ大師の不興を買うような事を仕出かしたのか?
ゼナイダと母からは特に強い視線を感じる。ゼナイダの六眼からは熱狂の凝視を、温和に見せかけようとしている笑みを含んだ母の眼からは堕落者の凝視を受けかねない。平素であれば俺は抵抗できようが、今は無理だ! 理性など消し飛ばされるだろう。いっそ卒倒したいのに、今日はどうしてか恐怖が中途半端に薄い。卒倒できるほど強い恐怖ではない。術は使えない。今脅されたら容易く要求を呑むと思う。
「解らないか、我が子よ。屈するのならデミと同様に愛してやろうか? そなたの半身は素直で可愛らしい娘だったぞ」
俺とて愛しているが、母よ。素直で可愛らしい? デオマイアがか? ……そも、母がこんな顔をして見せた事があったかね? 満たされたような、飢餓感をより一層増したようでもある顔。
「お母さん、デオマイアちゃんとは一緒に眠っただけなのよね?」
「勿論だとも。そなたらも同じ寝室で眠れる程度には好かれて欲しいものだ」
父の咎め立てにも母は余裕を感じさせて笑った。おかしいな、母の笑顔が恐ろしげではないぞ。いつの間にそんな笑い方を覚えたんだ。俺は夏の都への道中でスダ・ロンの微笑みを真似る練習をしていたが、母には見られていなかったはずだ。中途半端な恐怖に縛られてさえいなければ心穏やかになれたかもしれない笑みだった。どうして胸騒ぎがするのかは解らなかったが、僅かばかり掻き集めた気力を振り絞る。
妻よ、助けてはくれまいかな! そう強く願えば肉体を扱われ、立ち上がらせられた。
「ミラーソードにイクタス・バーナバが一つ教えよう。その袋の中身は必ずしも幽霊や精霊ではない」
そうは言っても、そうである可能性はあるのだろう!? 俺の恐怖症を喚起するには充分だよ!!
「スタウロス公の提言とは言え、我が夫を脅かすのはそろそろ止めようではないか。擬態とは言え心臓が苦しげだ」
「どうぞ、御自身の手で御覧下さいミラーソード様」
妻に操られた俺の手がスダ・ロンに差し出された袋を受け取り、緩んでいた紐を解いた。袋は軽く、中には小さくて軽いものが入っているだけだ。妻は袋の中に指先を入れ、小さな根付を取り出した。……翡翠で造られた蛙の根付だと?
「その袋は涼み袋ではないぞ、ミラー」
「そうよ、ミラー」
「卿が怯えておったのは『涼み袋である可能性のある袋』に過ぎない」
発作は嘘のように去った。袋に対する認識が恐ろしい涼み袋ではなくなったからだ。蛙の姿をしたアディケオに化かされた気分だよ!
「卿は素直過ぎる。未確定の袋に対しては涼み袋ではないと決め付けて掛かる態度で臨めないなら、どんな小袋であっても脅迫されてしまう」
「……そうよな」
アステールは俺を諫めてくれたのだろう。そう思っていた。
「時に、別の袋が儂の手元にもある」
「エファも持っているのだ」
「ゼナイダも用意したのだ」
「実は私の手元にもある。ダラルロートに渡されたものだ」
「私も、もう一つ二つと用意しております」
アステールは掌大の赤い袋を。エファは小さな御守り袋のようなものを。ゼナイダは獣の胃袋めいた革袋を。そして母はデオマイアから妻が取り上げてダラルロートに渡したような袋を持っている。スダ・ロンに至っては似たような小袋を複数見せやがった。
「これらは全て本来の用途の涼み袋です、ミラーソード様。夏の宮殿は暑いですからね」
「僕が作ったのよ」
スダ・ロンと父が恐ろしい事を言った。涼み袋が……六つ? 七つか? 本来の用途と言う事はお化け入りだろう!?
妻は俺を支えなかった。全身を這い回り、舐め尽くされるような不快感が俺の全身を駆け巡った。……耐えられるはずがなかろうよ。意識が途絶した事は覚えている。