177. 腐敗の邪神の神子とその微妙な子
腐敗の邪神についての説明回
面会を一通りこなした俺は図面を引く気力を持てず、夏の宮殿の樹と土と水の匂いがする一室でサイ大師の著した召喚術の手引書を眺めている。室内では母が机に向かい、俺に大量に創らせた便箋に対してペンを走らせ続けている。
俺の父は腐敗の邪神の神子。父の母、俺にとっての祖母は本拠地を異界に構える腐敗の邪神だ。大母とも呼ばれる。増殖の権能を司り、生贄を貪り喰らい命を生み散らして歩く大いなる雌と。
サイ大師がジャオ・ハンを通してリンミに献上してくれた手引書曰く、そもそも異界とは俺が生まれた世界以外にも存在している別の世界だ。より高次の世界と、より低次の世界の両方が存在する。手頃な召喚対象を案内するかのような手引書の上では『腐敗の邪神にして大いなる母』とされる大母の頁を読んでみようか。
******** サイの手引書 六巻の写本より抜粋 ********
腐敗の邪神にして大いなる母
腐敗の邪神の真の姿は原初の大陸に等しいほどにも巨大なスライムであるとされる。召喚に応じて現世に姿を現す分霊は遥かに小さな端末であるが、人にとってはなお巨大であろう。分霊の総数は知られていない。彼女の分霊は分裂によって信じ難いまでに容易く創造される。
腐敗の邪神は大権能を四つ持つ神々の中では相当に召喚し易い。
何故ならば大いなる母は増殖の機会を常に伺っており、生贄を捧げる者達の声に油断なく耳を欹てているからだ。他神への呼び掛けであろうとも、潤沢な生贄の存在を嗅ぎ付けたなら割り込んで来ようとさえ試みる。現世への積極的な介入を好む邪な女神であり、召喚こそ容易だが契約は困難を極める。邪神は召喚者が求める契約への関心が低く、生贄を喰らい命を産み落とす事しか考えてはいない。召喚に応えて現れこそしたが生贄を喰らったのみで帰還した事例が非常に多い。こうした振る舞いが食い逃げ邪神とも渾名される原因になっている。
腐敗の邪神が住まう神域は地獄の深海の一部と融和していると噂されている。神域に踏み込み、生きて帰って来れた者は現在の所知られていない。地獄の深海では腐敗の邪神に寵愛された魂が洗われながら次の生を待ち、飢えた魂はより浅い地獄で現世よりの召喚に応えようと待ち構えている。相応しい生贄さえ捧げるならば、腐敗の邪神から所有する魂を下げ渡して貰える見込みはある。
真名を隠しているのではなく、そもそも真名が存在しない事も拘束と契約を困難にしている。真名を持たない腐敗の邪神が有する大権能は四つ。第一の権能は腐敗。小権能は腐敗、悪、毒、病、酸、衰亡まではよく知られている。地獄との関わりの深さから死霊術に恩恵をもたらし、多くの不利益に対する耐性をも授けてくれる。
異界の神々の契印を奪う機会に対して非常に熱心な邪神であり、大権能四つは全てが強大な複合発達権能と化している。私の知る小権能ばかりが全てではない可能性を指摘しておく。邪神は己に相応しい権能の奪取と統合を望み、多次元世界へと侵略の手を広げているからだ。殊に母なるもの、大地母神への敵視が顕著に強い。
腐敗の邪神の使徒や神子は強力な変成術師であり死霊術師となる。武力よりも魔術を得手とする傾向が強く、腐敗の邪神が大量の生贄と引き換えに産み落とす神子は邪神その人よりかは交渉に応じると知られている。
腐敗の大権能。小権能は腐敗、悪、毒、病、酸、衰亡、融合、発酵、醸造、剥奪。
堕落の大権能。小権能は堕落、狂気、貪り、飢え、嫉み、怒り、憎しみ、楽しみ、溺れ。
腐敗と堕落の大権能は地獄と密接に関わっている。腐敗によって死した者は生前の属性に関わらず地獄へと堕とされ、貪り尽くされるか貪る側になるかを選択する事になる。堕とされた弱き魂の多くは地獄にて消費され、来世を得る事はない。死霊術師ならば祈りを捧げる価値が高い権能と言える。
堕落は大いなる母が生贄を求めて這い回る原動力であるとされる。適量の堕落であれば注がれた者の行動意欲を高め、武芸と魔術への習熟を容易なものとする。弱き者は器を壊すほどの堕落を注がれ発狂してしまう。強き者は堕落を糧として己の精神を守る術を学び、堕落から更なる力を引き出す術さえも得る。
増殖の大権能。小権能は増殖、誕生、再生、繁殖、分裂、交合、懐妊、出産、安産、多産、繁栄。
大いなる母として奉られる理由であり、多次元世界を渡り多くの母なるものを殺した証。善悪の理由を全く問わずに出産を祝福し、異種族間の混血を奨励する。魔性と人が交わる事を殊の外に好んで大いに助け、亡者と生者の間に子を成さしめさえもする。変成術への多大な恩恵を授ける。
創造の大権能。小権能は創造、創生、創世、創成、創意、発生、開始、閃き。
地獄の創造に関わった一柱であるとされる一方、偽典の可能性も指摘される。発明と魔術の守護神としての一面であり、創造の権能もまた変成術への多大な恩恵を授ける。
******** 以上、ジャオ・ハンの弟子の手による孫写本より ********
サイ大師の手引書の腐敗の邪神の頁には付箋も付いていた。
―――我々の世界に対する最新の侵攻について述べる。霊泉の森を枯死の森に変えた腐敗の邪神の干渉は、律する賢母ノモスケファーラを狙ったものと推測される。邪神はあらゆる母を呑み込まんと欲し、大地母神に対して特に強い敵愾心を示す事が知られている。私はノモスケファーラが神子を退けたものと考えているが、本人からも話を聞きたいものだ。
読み返していると鏡の剣から声がした。父の声に惹かれたのか、ペンを置いた母もやって来る。
「サイちゃんめ、正体を隠す気があるのかないのか」
「やたらと詳しいよな」
「サイ大師ならば詳しかろうな」
当初、父は付箋を隠そうとしたが折り悪く同席していたスダ・ロンに摘み上げられていた。俺達に読まれてしまった今は諦めたのか放置している。
創造の大権能に含まれる小権能については俺も知らぬ事だったよ。創造、創生、創世、創成、創意、発生、開始、閃きと挙げられている。俺にできる事と一致してはいる。創造の異能を大雑把に使うよりも創生の権能を意識した方が生命創造はやり易いと感じられた。
「我々を存在させ給うた偉大な神だ。神子は今少し熱心に祈り、生贄を捧げてくれまいかな」
「お母さん、僕はかーちゃんに産み逃げされたのよ。どうして熱心に仕事しなきゃならないのよ。そもそもノモスケファーラを僕一人で狙えなんて無理よ、あいつ五権能持ちじゃないか」
「ノモスケファーラの有する大権能は規律、支配、剛力、大地、賢察だ。教えた小権能は覚えているか、ミラー?」
俺はそっと目を逸らしたい気分になったが、眼球が行方不明の俺にとっては肉体に反映されなかった。なんだっけな、両親の敵として神学講義を受けたはずだが小権能を全て正確に言える自信がない。話題を逸らそう。
「今は俺達が知っているよりも増えていたりするんじゃないのか? バシレイア神国の神君は外征と契印の獲得に熱心なんだろう」
「そうさな……。北部戦線で聖獣の目撃例があったとは聞いた。ノモスケファーラが招請に応じて貸し与えるセレスチャル グリフォンではないかとな」
「……あいつらかよ」
母に襲い掛かってくれた透けた聖獣の姿を思い出しかけて身震いしながらも、どうにか恐怖除去を連打した。妻が俺を支えようとしてくれていたのも感じてはいた。愛していると心の裡で囁く。
母は書類を読むのが嫌いではないらしく、報告書の類に目を通す事を好んでいるのは知っている。もっと好きなのは手紙だ。今度は何枚デオマイアに宛てて書く気なんだ、母よ。変成術による質の良い便箋とインクの追加は既に何回目だろうか。魔力を流したら便箋を創造する術具を造った方がいい気はしている。
「北側の国に聖獣ってよくないんじゃないの、お母さん」
「軍事的な支援を与えている可能性はある。北部戦線で敵対している三国はいずれも正か善であるし、帝国の情報部も浸透できていないようだ。よい状況ではない」
「俺はエムブレポで手一杯だぞ、母に父よ……」
召喚術の手引書を読んでいたら、あまり聞きたくない話になってしまったな。父は腐敗の邪神の神子なのだが、どうも使命に失敗したか放棄するかした神子らしいのだ。
幽霊恐怖症さえなければ父は強大な死霊術師として振舞えたのかもしれないが、俺が父から受け継いだ幽霊恐怖症は足枷として重過ぎる。地獄との強い関わりを生かせれば、帝国との関係に頭を痛めずに済む力を持てるかもしれないのだがな。或いは妻の夏の権能を借り受け、夏の異能由来の強大な精霊術を振るう余地があったかもしれない。ところが俺には死霊術と精霊術の両方に対して全く適正がない。召喚術は凡庸だ。魔力はそこいらの凡百よりも遥かに強かろうが、魔力に任せた軍団の形成に向いた資質がないんだよ。俺の意のままに動かせる軍事力が欲しいとは思う。スライムは創れるのだが、スライムだからなあ。
「食い逃げ邪神の神子とその微妙な子としてはどうしたもんかと思ってる」
俺の立場は板挟みだと感じている。矢面に立って戦える力が欲しい。
「ミラー、そのように自信を失う必要はない。我が子は充分に強大だ。困難に直面している今こそ我らが大母によく祈るがいい」
「お母さんはこう言ってるけど無理しなくていいのよ、ミラー。家族だけで静かに暮らしてもいいじゃない」
両親はそれぞれに俺を鼓舞してくれようとしているのだがね。溜息を飲み込み、別室にいるスダ・ロンに対して意識を向けているらしい妻の鱗を撫でる想像をする。家族だけで暮らすには俺の妻は巨体だし、信仰を必要としている。夫として妻の為に働くさ、働くとも。