176. ミーセオ帝国の大使館
「今戻った」
「お帰りー、お母さん。愛してるよ」
「待っていたよ、母よ。俺も愛してる」
定例報告を終えたダラルロートは長距離転移でリンミへ帰り、朝食の後くらいの時間に母を夏の宮殿へと送り返してくれた。黒塗りの板金鎧に身を固め、《非破壊》の魔力回路を刻んだ戦槌を手にした母はいやに機嫌よく見えた。魂洗いが進むにつれて少しずつ見せてくれる感情の幅が広がってはいたが、何だ?
「無論、二人とも愛している」
「お母さん、デオマイアちゃんはどうだったの?」
「直々に可愛がってやるよい機会だった」
……母よ、俺は今の一言で若干の不安を覚えたぞ。
「なあ母よ、寝室で一緒に眠ったそうだが……」
「デオマイアはまだ5歳そこそこの肉体だ。祖母と共に就寝しても良かろう。入浴はダラルロートに追い払われたがな」
「ねえ。お母さんは男だからね? 忘れないでね?」
「私自身が男だと言う事は片時も忘れてはいないとも、神子よ。そなたらこそ、常に私を母と呼んでくれて本来の性を忘れてはおるまいな」
「忘れちゃいねえけどよ、母さん」
見た目は間違いなく金髪に白い肌で鍛えた筋肉を備えた男だからな、母は。股間に何もない無性の俺とは擬態している構造が違う。しかし何だろう、俺自身は1歳でしかねえからアステールの知識なり経験に照らすしかないにしても違和感があるぞ。
「デオマイアと私ならばおかしな事ではないぞ、神子よ」
「そういうもんなの?」
「そうだ」
何の疑いも持っていなさそうに母は断言した。嘘の気配は微塵もないし、母の下手な嘘であれば見破れる自信がある。俺の帯剣たる鏡の剣に宿る父、腐敗の邪神の神子とても精神的に2歳でしかない。バシレイアンとして42年生きてから死んだ母に断言されれば俺達に抗弁する術はなかった。
「時折はリンミへ行かせてくれ。デオマイアは私の訪れを待っていようからな」
「努力はしよう。皆で一緒に暮らせるのが一番いいんだがな」
「我が子と神子についてはまだ早かろうとダラルロートが言っている。次はエファが適切だそうだ」
「エファか? スダ・ロンの監視に張り付けているが、外せるようには取り計らおう」
エファとアステールは可能ならば二人揃ってスダ・ロンに同行している。何しろ正体が正体なので、目を離したらエムブレポの王族を一人残らず殺戮する程度の事はできてしまう。そうなったら妻の契印は守りを失い、アディケオに奪われかねない。
俺がサイ大師と戦うとしてもアディケオには離反したと看做されるだろうし、大師は俺の弱点を知っている。大使ですら涼み袋を手に脅して来るのだ、大師がやらない理由は何一つない。サイ大師にエムブレポの殲滅を決意されてしまった時点で俺は負けに等しい。できる事はアディケオへの嘆願でしかなくなるだろう。
敵対はできないし、敵視されても不味いと言う立場の弱さは気に入らんのが正直な所だ。デオマイアを欲しがった帝国を相手に母が拒絶を叩き付けて来てくれたとダラルロートから報告されてはいるが、俺の立場では拒み切れたかどうか。母が拒絶してくれた一事とても、俺の知らん所で母が大暴れして帝国の皇帝一族を殺っちまったよと言う話にしたくないなら勘弁しろやと言っているに等しいからな。俺の母は強い。
「スダ・ロンと協議していた大使館の建設予定地についてはどうなったのだ、ミラー」
「ああ、提案はしたんだがなあ」
妻の安全の為にも夏の宮殿と夏の都からミーセオの使節団を追い出したいとは思っている。しかしミーセオ大使館は下手な立地には建てられない。俺は帝国に対してもそれなりに愛国心とやらを見せてやらねばならない。そんなものの持ち合わせは俺が支配するリンミニアに対してしかないのだが、サイ大師に対しては必要な格好付けさな。
「夏の都は我が妻の聖域ゆえ、転移陣だけ置いて大使館は都の外でいいんじゃねえのかと提案したのは却下を喰らってさ。夏の都の中にミーセオ帝国の存在感を主張する建築物をミーセオの様式で建てる事は必要だそうだ」
「帝国の言い分にも妥当性はあるが、職員の精神的な安全性について疑問を呈してはどうだ。帝国の官僚はほぼ例外なく正属性かつ悪属性であろう?」
「そうなんだよ。もう二人だか三人が発狂しちまって送還済みだ」
「狂った悪になってしまえば楽であろうにな」
スダ・ロンが迷いなく本国へ送還したのは、治療しても再度発狂する恐れが強かったからだ。暗黒騎士の母からすれば属性は狂った悪が最善であろうが、狂った悪の官僚に統治機構が未整備のエムブレポで一から必要な法律だの書類を作成させるのはどうかと思う。正しき善の者に作らせると国情に合わぬ法律になりそうだ、と言う点ではアステールも敬遠したい。狂った中庸なんて父だぞ、父。貴様らは俺の父に法律だの戸籍を運用させる気なのかと帝国の官僚には問いたい。サイ大師の無茶振りもいい所だ、どう考えたって国情に合わねえよ。
「デオマイアちゃんの風船ハウスみたいにするしかないんじゃないの」
「風船……なあ」
デオマイアは夏の宮殿が余程嫌いだったのか、娘自身の魔力だけで創り上げた部屋に住んでいた。父が風船ハウスと呼ぶデオマイアの部屋は地上には存在しておらず、夏の宮殿の地面に繋いだ細い鎖の先に浮かんでいる。形状は丸いような、丸と呼ぶには歪に過ぎる球形だ。
琥珀色をしてはいるので、俺達の自宅である琥珀の館を模そうとしたらしい。娘が一人で過ごす事しか考えなかったようで部屋はそう大きくはなく、窓も扉もない。妻はマカリオスとゼナイダの入室に際していちいち召喚術を行使してやっていたようだ。娘には建築の心得が全くないらしく、家具はないし内装も施されてはいない。娘がリンミへ去った今でも、琥珀色の部屋は鎖に繋がれて夏の宮殿の空に浮かんでいる。
「空に浮かぶ大使館はありなんだろうか?」
「スダちゃんに聞いてみたら? ミラーなら創れるでしょ」
「煉獄で創ったような家を大型化させてもいいのではないのか」
俺達なりに変成術で模型を創ったり、幻術で幻を創ってみたりと案は出せるのだがね。スダ・ロンに訊いてみた。
「幾つか案はあるがどうするよ、スダ・ロン。どれでも実現は可能だ。大使館自体は帝国内にあるものを俺が変成術で複製するか、既存の建築物を転移で運ぶ事になるがな」
「大使館の建設については我々使節団に段取りをお任せ頂いてよろしいのですよ」
「本来、俺向きの仕事はこっちなんだよ。毎日毎日、顔も名前もよく覚えられぬ者どもとの面会ばかりでは大母に授かった創造の異能が錆付きかねん」
「ミラーソード様がその御姿で夏の宮廷にいらっしゃる事そのものが帝国にとっては重要なのです。今暫くお付き合い下さい」
俺向きの仕事はやる時間がないし、エムブレピアンに崇められても俺自身は有難くねえし。妻は敬虔な信仰を捧げてくれている者は解るようで祝福してやったりもするから、ますます偽物の神王ミラーソードは崇め奉られると言う悪循環だ。
「俺、面会した相手の顔と名前が全く覚えられんぞ」
「ミラーは人に関心が無さ過ぎるのだ。ねえ、じいや」
「ミラーソード自身が無関心な対象に対しての記憶力が著しく低い事を否定はできまい」
「アステールまで俺の頭が悪いって言うのかよ」
「個人の資質には特化された偏りや傾向があるものだ」
「頭が悪いって指摘について否定はしてないよね、アステール」
アステールとエファからの評価も低いしよ。王なんか俺には向いてねえぞ、何か創って過ごす方が間違いなく楽しい。デオマイアの部屋を大型化したような住居や、大使館を建設する土台の設計図を描くのがささやかな楽しみだ。設計図ができても母の魂洗いに注ぎ込んでいる魔力を一晩か二晩は建築に回す必要がありそうだがね。
朝はダラルロートから報告を聞き、アステールと母を外に出すか宮殿に置くか妻と俺に把握できるエムブレポの様子から判断。昼間は夏の宮殿で崇められながらスダ・ロンを可能な限り監視。夕食の後に魂洗いができるようなら執り行う。その後は妻に呼ばれて神域で魚になって泳ぐ。多忙なのは別にいいが、見てしまったら卒倒する精霊が多いのは辟易するし、大使に対して妻の気が休まらないのは大問題だ。
正式なものでなくともミーセオの大使館を建ててしまい、夏の宮殿からは使節団を追い出すのが短期的な目標だよ。追い払った後は宮殿を徹底的に掃除してやる。占術を助ける印が確実に大量に設置されとるからな。何と言われようとも俺は帝国よりも妻の味方をするぞ。たとえ祖母が両肩の烙印を通し、イクタス・バーナバの契印を奪えと囁き掛けて来ようともだ。