173. 変化
「減点したい点がなかった訳ではないのですが……まあ、よろしいでしょう」
アガソス様式の一室での面会で使徒二匹を相手に無言を貫き眼も逸らさなかった俺だが、ダラルロートから見て完璧ではなかったようだ。ワバルロートは化け蛙と共に退室している。
「ダラルロートよ、そなたはデオマイアにどの程度の高水準を要求する気だ」
「お言葉ながらお母君、六眼をお持ちのデオマイア様は眼が正直過ぎるのですよ。
私は眼が二つある者の表情の作り方は教えられますが、六つあるとなると完璧には教え切れない恐れがございます。ジャオ・ハンは手応えを感じた事でしょうな」
とは言え、俺はダラルロートに要求されていた事を守りはしたと看做される事ができた。ダラルロートは『面会の間は口を開かず、眼を逸らさない事。差し上げたスライムの上に手を出しておく事。術干渉を感じたなら左手で示しなさい』と指示した代わりに褒美も約束してくれていた。
「肉体的に5歳のデオマイア様となら問題はございませんでしょう」
「よし! 今晩はカーリーと一緒の寝室で寝ていいのだな!」
思わず飛び上がらんばかりに喜んでしまったが、大目に見て欲しい。俺に姫らしい振る舞いなどできん。
「ダラルロートよ、そのような約束をしていたのか? 道理でそなたにしては大人しいと思ったぞ、デミ」
「デオマイア様の情操教育に御協力頂けますよねえ、お母君。それともカーリタース様とお呼びした方がよろしいでしょうか」
「事前に聞かされていなかったとは言え、協力はしよう。名は好きなように呼べばいい。孫娘が選んだ名だ。
だが神子の前では配慮せよ。神子は名がない事を何とも思ってはいないが、私には名があるとなれば嫉妬しかねない」
「そのように致しましょう」
俺、今なら作り笑いではなく笑えていると思うぞ。カーリーにデミと呼ばれるだけで機嫌が良くなるのが解る。母に会えただけでも嬉しいが、親父とミラーソードがいないと言うのが尚更にいい。夏の宮殿に転移したら全員と会う事になったからな。
蛙相手に我慢して良かったと思う。眼は随分と反応してしまっていたらしいが、それでも俺は褒美を貰えた。
カーリーと一緒にダラルロートが点てた茶を楽しんで間食に甘味を食べる間、ダラルロートは普段に較べると喋らなかった。カーリーと俺に時間をくれていると解ったよ。
「息災だと言う報告はダラルロートから毎日受けていた」
「ダラルロートは付きっ切りでいてくれたよ」
「知っている。何を訊ねても的確に回答した。よく見てくれていた事はそなたの手紙からも明らかだった」
届いた手紙を手に、どんな事があったのか本人の口からも話を聞いた。
「夏の都の外には随分と獣が多いのだなと思った」
「ああ。手紙にも書いたが、黄竜と緑竜が増え過ぎていたので間引きをした。私やアステールからすれば竜など多少吼える戦利品の塊でしかないが、エムブレポ兵には危険がある。軟弱なミーセオの隊商では対抗不可能だろう。六部族は脅し付ければ良いが、獣は間引く必要がある」
カーリーにとっては老竜まで成長していない限り、竜は気軽に狩れる相手だそうだ。
「単独でやれたのだが、アステールと神子を同伴しなければ散歩であっても外出させたくないとミラーには随分と渋られた」
「ミラーソード本人は何をしていたんだ? カーリーの手紙にはあまり書かれていなかった」
「新婦と蜜月を過ごす新郎の様子など母親が孫娘に教えるものではあるまい」
「カーリタース様も常識が全くない訳ではないのですね」
「私を何だと思っているのだ、ダラルロート」
「ミラー様のお母君だと認識しておりますからねえ」
雑談の端々から、カーリーの声と表情には記憶にあるよりも変化や起伏があるように感じられた。小さくなり過ぎていた魂の治癒が進められている事に関係があるのだろうか? 表情豊かと言う程ではない。
「デミは召喚術が得意だと報告されていたが、何ができるのだろう?」
「まだ研究不足で大した芸がないよ、カーリー。大君の館を守っている転移妨害結界は刷新しておいた。かなり強い魔性か神の如きものの召喚もやれるとは思うが、今の所は必要がない」
「煉獄の番人は従属させるのに手頃かと思う。武力と魔力と知性を兼ね備えた下僕は幾ら揃えても困る事はない」
「そうだな、俺の代わりにダラルロートを手伝って戦えるくらいの下僕が欲しいな」
「定命の者にはなかなかおりませんでしょうねえ」
カーリーが勧めて来るのだから煉獄の番人とやらは俺にとって適切な下僕なのだろう。スカンダロンに番人を貸してくれないかと祈って供物を捧げてみようかね。俺の召喚術なら大抵のものは喚べるはずだ。
応じてくれる意志のある存在を引き抜いて来るような召喚方法だと何が来るか確定しないが、上位者に許しを得て使役させて貰う招請であれば狙ったものを呼べるし同一個体が来る。それとも当たり外れのある召喚で当たりを引くまで召喚してみるか? 精霊であれば容易に従属させられるが、精霊以外が来たら召喚術師として真っ当に交渉する事になる。
「今は渾沌精を寝室に置いているが、現界しているだけでも正属性の者に悪影響を与えるから大君の館に務める者にとってよろしくないんだ」
「デミにはダラルロート以外にも適切な護衛が必要だ。そなたを護っているスライムのように忠実なものがよい」
「うん、カーリー。ダラルロートがくれたんだ」
「時折でいい。忠誠には報いてやる事だ」
「そうするよ」
夕食の時間になってようやくカーリーは鎧を脱いだ。ミラーソードの私室で衣類を選んでいたが、白い鱗が生えたミラーソード自身が着ると服の方が裂けかねないと聞いた。……ミラーソードにも苦労はあるらしいな。
カーリーとダラルロートと一緒に手の込んだミーセオ料理の夕食を食べる間は、カーリーとダラルロートの会話が多かった。料理を褒めながらカーリーが取り分けてくれようとする皿に専念した俺は、ミーセオの官僚や宦官が使うと言う消化と分解を加速させる変成術を行使する必要にさえ迫られた。カーリーによそわれた皿を残す訳にはいかないではないか! 日常に役立つ術として覚えておいて良かったと思う。
「こうして招かれると大君の館の料理は別物だと実感させられる」
「料理長以下、厨房職員が熱心にエムブレポ産の食材に取り組んでおります。
祝福を受けた後、リンミ湖の魚類も顕著に質が上がりましたからねえ。淡水魚同士の組み合わせの試行を重ねてもおりますよ」
「そうか、デオマイアを楽しませてくれるならそれでよい。
大君の館の料理人を貸してくれまいかとミラーがぼやいていたぞ」
「大味でしょうからねえ。夏の宮殿と言う特殊な環境でさえなければお貸しできましたが、当座は我が館でお楽しみ下さい。デオマイア様も我が館ではきちんと三食摂られる事を思えば、神子様以下なのではないですか」
「違いない。常夏と言う環境は必ずしも食べ物を美味くはしないようだ」
食後の茶の後には入浴させられ、女官の手で香りのいい石鹸と香油で身体を洗われた。俺自身、熱心に身奇麗にしたのは今夜が初めてだったかもしれない。
「楽しそうですねえ、デオマイア様」
「楽しくない訳があると思うか、ダラルロート」
入浴前から入浴を終えて髪を乾かされている間まではカーリーと離されているが、次は寝室で会える。ダラルロートはいるのにカーリーは駄目なのか、と訊いたらダラルロートは宦官だからいいのだそうだ。ダラルロートが言う事にしてはおかしい気もしたが、俺はすっかり慣らされてしまっていた。
普段なら、入浴後で水気を含んでいるとダラルロートがくれたスライムはしきりに吸い付いて来る。今日は膝の上で丸くなって大人しい。特別な日だと解ってくれているのだろうか。今は子供部屋の鏡台の前に座らされて髪を乾かされ、ダラルロートの手で念入りに梳かれている。
「ダライムとコラルロート、どちらがいいと思う?」
「……デオマイア様?」
ダラルロートもそんな声を出す事があるのだな。
「この子の名前だよ」
「できる事なら名付けの感性には難点を感じて頂きたいです、デオマイア様」
「感性などそうそう変わるものではあるまい。ミラーソードだった俺の頭を整理してくれたのは大君だ。どうして俺がミラーソードと偽名を名乗っていたのか知らぬ訳ではあるまい」
「存じてはおりますが、デオマイア様はそのような名前をお付けになるのですか」
ミラーソードと名乗り始めたのはリンミを乗っ取った時からだ。支配者の名前など解り易い名前でいい、と考えて鏡の剣そのままにしたのだと記憶している。二択を示して来た母は賢明だと思う。ミラーソードなり俺に考えさせたなら、ダークソードやミラーグレートソードになっていたのではないのか。俺の名前にしてもシルバーソードとでも付けられたに違いない。
「可愛いがってはいるつもりなのだがな。なあダライム」
触れようとしたら嫌そうに身を捩られてしまった。
「ダライムが嫌ならコラルロートにするぞ」
そう言うと今度は膝の上から垂れるようにして広がってしまった。
「どちらも不本意そうではありませんかねえ」
「そのように大君が操作しているのではないのか? 大君なら何と付けるのだ」
そう言えば、くれたダラルロート本人には訊いていなかった。訊いてみると淀みなく答えられた。
「アミチェかフィロスとでも」
「ならフィロスにしよう。フィロスなら納得してくれよう?」
そう呼び掛けると黒一色のスライムが膝の上で丸くなり、俺の手をやんわりと包んでくれた。納得されたらしいのでダラルロートに貰ったスライムの名前はフィロスだ。
「今晩はカーリーと仲良くしてくれよ、フィロス」
「カーリタース様との同化にはお気をつけ下さい。我々に触れれば同化しようと致します」
「……それはいかんな。少し離しておこう」
ダラルロート自身はフィロスに触れようとしない理由がやっと解った。ミラーソードが産み出したスライムは、ミラーソードに触れると同化したがるのだ。ミラーソードの分体が形を変えているカーリーにしてもフィロスからすれば同族だろう。
「俺だけがスライムじゃないと実感させられるのは寂しいものだ」
皆、普段は生前同様の人の形をしているがミラーソードが切り離したスライムが化けているに過ぎない。切られれば黒い血を流すし、本性を現せば黒いスライムだ。
「デオマイア様だけが生者なのですよ。ミラーソード様の一部でしかないスライムになどなりたがるものではございません」
「大君は死者だと言う感じはしないがね」
ダラルロートの黒い瞳が俺と目線の高さを合わせて来た。こうして見るとワバルロートにはない威圧感がある事に気付かされるが、好ましくは思っている。
「ワバルロートよりはダラルロートの方が好きだな」
「何を仰います。今晩は随分と浮かれていらっしゃいますよねえ」
「何だよ、俺は芯の通らない狂った気紛れな気分屋で嘘も言うかもしれないがね。好き嫌いを口にしたっていいだろう。なあ、フィロス?」
同意を求めれば黒いスライムは何やら小さく丸くまとまってしまった。拒否ではないように思う。常にダラルロートの操作を受けているのなら、これほど露骨には動じない気もする。
「カーリーに会わせてくれてありがとうな。俺、今日は楽しかった。子供で良かったと思った」
「デオマイア様はまだ子供でいたいですか」
「うん」
「そうであるならば」
「……? どうした、ダラルロート」
何かを感じた。受け入れてしまったらしいが、何をされたのかは認識に至らなかった。ふわふわと浮ついた気持ちはそのままだ。
「異能や権能に頼る事なく、ゆっくりと成長なさいませ。急ぐ必要はないのです」
「そうする」
ダラルロートの声が近しく聞こえる気がした。
「デオマイア様が精神支配などせずともお仕え致しますよ」
「そなたをミラーソードから奪いたいのだがな」
「デオマイア様はまずは御自身を取り戻す事ですな」
化粧をした宦官が笑った。
まだミラーソードだった頃、アステールに公爵の部屋で聞いた事がある。ダラルロートは腐敗の邪神の注視を受けていて、ミラーソードが自我を崩壊させる度に都合よく造り替えるだろうと。弄り回す事に喜びを感じているのだと。そんな記憶を額に触れられた長い指先で思い出させられた。
「さあ、愛しいカーリタース様がお待ちかねですよ」
「うん。フィロス、おいで。今日はカーリーと一緒に寝るんだ」
フィロスを抱き上げて椅子から降りる。脈打つように輝く渾沌精を引き連れ、カーリーが待っている寝室へと移動する大君の館の廊下はいつもとは何かが違って見えた。