170. デオマイアの力
手紙を読み進める間、ダラルロートが俺を見ているのを感じてはいた。快い文脈で手を止めて読み直そうとすると先を読むように勧めて来るし、興奮が過ぎるとくれたスライムが宥めるように膝の上で擦り寄るように動く。
「解っている、ダラルロート」
「一読する前に日が暮れてしまいますよ」
「なに、大君殿が邪魔さえしなければ夕食には間に合うじゃろう」
機嫌よく笑うとダラルロートはそっけなく言う。歓喜に浸る俺はダラルロートの態度の意味合いを深くは考えなかった。ヤン・グァンはダラルロートの話し相手になって気を引いてくれつつ、囲炉裏で沸かされた鉄瓶の湯を使って茶道の腕前を披露もしてくれた。雄でもヤン・グァンくらいの年寄りならば俺の嫌悪を刺激しないらしい。それともヤン・グァンだからか?
『六つある大部族にミーセオとエムブレポの交易路を襲わぬよう通達する事はさほど難しくあるまい。ミラーが繋いだ夏の都とリンミ間の転移陣は既に機能している。リンミを介して帝国との交易が可能になる陽銀と陰銀の有利は明らかだ。武力こそが暴力だと考える者は多いが、不正に塗れようとも財力が優れた暴力である事を私は否定しない。無論、そなたとミラーと神子が誇る魔力でも良い』
母は『通達する』とは何人殺す前提で書いているのだろう? 全員ではなかろうな?
リンミとの間の転移陣が既に開かれているのならば、長距離転移を修めていない者でも単独でリンミへ来れるようになっているだろう。俺は手紙を読み進めた。
『魂洗いについては、知らせなければスカンダロンについての説明が不完全なものになる。アディケオとミーセオ皇帝がデオマイアにサイ大師との婚姻を提案した、とダラルロートから報告を受けた以上は知らせねばならないだろう』
母の手紙は魂洗いについても詳しく書いてくれていた。冥府の一つである煉獄で執り行わなくてはならず、多大な魔力を消費する秘儀。受ければ欠けた魂を癒す事ができるが、ミラーソードと母と親父の魔力を合わせてさえ一回の儀式で魂の一欠片を回復できるかどうかだと言う。魂洗いを受けると母は魂の癒えを感じられるそうだ。書き方からすれば快いのだと思う。治癒には莫大な魔力を注ぎ込まなくてはならないと読み取れた。
ゼナイダに祈りを勧められた煉獄の神スカンダロンがミラーソードに秘儀を教え、時には分霊が魂洗いの場に姿を見せるそうだ。
「分霊が見に来ると言うのは、スカンダロンに会えるのか?」
「ええ。私としてはデオマイア様を引き合わせたくないのですがねえ」
スカンダロンについて母は手紙でこう書いている。
『デオマイアは私と結婚したいのだろう。アディケオの第一使徒サイ大師は確実にミラーよりも強かろうが、そなたに望まぬ婚姻を強いるのならば倒さねばなるまい。帝国で姿を見せるサイ大師は崩落の大君スカンダロンの分霊だ。大師の力は使徒と呼ばれるべき範疇を大きく逸脱している。
大師はアディケオの従属神だと考えて差し支えない。属性が正しき悪である事は煉獄の洗い場の管理者である事から確定として、権能が魂洗いと陥穽だけの小神だとは思えない。アディケオの不正の権能の関与を疑うべきだ。我々には能力の全てを予測はし難い』
サイ大師はスカンダロンで、使徒を装った従属神なのだそうだ。そんな奴でも倒そうと大真面目に考えているらしい母はどれだけ豪胆なのだろう? 婚姻相手が神は嫌だ。俺は母の方がいい。カーリタースの愛称はどう呼ぶべきか。そんな事を考えながら読み進め、便箋を十数枚隔ててこんな文章があった。
『デオマイアの魔力は強大だと神子とアステールが口を揃えていた。二人が敵わぬほどの術者など滅多にいるものではないぞ、デオマイア。そなたは己の強さをよく認識して欲しい。機嫌を損ねなければダラルロートが教えるだろう』
機嫌を損ねなければ。母はそう書いていた。
本として綴じられた手紙の通読を終え、ヤン・グァンが点ててくれた茶を口にすると俺は幾らか寛大な気分になっていた。舞踏の稽古の時間に子供らしい笑顔の作り方も教わったのだが、効くものか試してみようか。
「作り笑いなどなさらずともよろしい」
「つれないな。ねだりたい事があるなら笑顔を作れるようになれと教えたのはそなたではないか」
「お手紙をお読みになっている間は自然に笑っておられたではないですか」
ダラルロートに言わせると俺の笑顔は作り笑いだそうだ。不自然だという事かな。手紙の快い部分を読みながらであれば、大君に対しても自然に笑ってやれるだろうか。
「そなたの精神耐性を引き剥がして精神支配してしまえば母と会わせてくれるかね」
「デオマイア様であれば不可能ではないでしょうな」
「デオマイア様、大君はやられた事を忘れる性格ではございませんぞ。面倒に思えても手順を踏むべきじゃ」
ミラーソードからダラルロートを奪い取る為の術式は既に組んだ。双頭の恩寵を受けた心術で精神耐性を無理矢理に突破して精神支配すると言う、我ながら力任せの術式だ。やろうと思えばいつだってできる。今試してもいい。しかし機嫌は損ねるだろうなとも思う。
「手順な。俺はどうしたらダラルロートに療養の必要はないと看做して貰えるのだ?」
「そのような思考でいらっしゃる間、当分は療養を続けましょう。傷付いた心はそう容易くは癒えないのですよ、デオマイア様」
どうやら俺は不合格らしい。膝の上のスライムにまで止めるように手を握られている。握り返してやると俺も落ち着く。
「だが、ダラルロートとていつまでも俺に付きっ切りではいられまい? ミラーソードは手を欲しがっているのではないか? 魂洗いに魔力が要るのならば、母は俺の魔力が欲しいのではないか? 連日の雨で河と湖の水位が上がっている件もワバルロートが助けて欲しそうにしてはいないか?」
ダラルロートの周囲から切り崩せまいかなと試してもみた。
「デオマイア様の療養が完了するまでは側におりますよ」
「大君に侍られるのが心地よいからと仮病を続けるかもしれんぞ。俺は神なんぞよりダラルロートの子供に生まれたかった」
「戯言を仰いますな」
見破れないとでも思っているのか、と咎められた心地はしたものの。頑とした拒絶でもないように感じた。
「デオマイア様、大君殿の家になどお生まれになった日には跡継ぎとして厳しく当たられますぞ。ワバルロートは相当に優秀ながら、一言も褒めて貰えてはおりません」
「ダラルロートが厳しいのは出来が悪い間だし、ダラルロート自身にできぬ事は求めて来ないではないか」
俺はダラルロートがヤン・グァンに言われるほど厳しいとは感じていない。大君の館は快適だし、こうして母からの手紙を読ませても貰えた。
療養とは腐敗の邪神の司直としての務めを思い出した母と俺を隔離する名目ではなく、実際に療養なのかね。手紙からは司直としての母を感じられない。俺に結婚しようと言ってくれた母を。家族として過ごすようになっていた母を感じる。愛しい母を。
司直としての母が求めるままに同化してしまいたい気持ちはある。手紙をくれた母に愛されたい気持ちもある。母が呼んで欲しい名前として挙げて来た二つの名前、カーリタースとコルピティオはそれぞれの名前なのではないのか? 名前の候補が四つや五つあったならこうは考えなかったかもしれない。母の性格からすればカーリタースを選んでいいとは思うのだが……。選ばれなかった方はどう思うだろう。
ダラルロートには見透かされているのだろうなとも思う。俺は愛したいと言うよりはミラーソードから奪いたいのだと。
「なあ、ダラルロートよ」
「司教殿よりもデオマイア様に評価されている事そのものは喜ばしいですな」
「しかしな、ワバルロートはそろそろ過労で倒れかねんぞ大君殿」
整えた長い黒髪を一糸も乱さずに言うダラルロートはちっとも嬉しそうではないが、少なくとも口ではそう言った。ダラルロートが俺に構っている間、大君代行として執務しているワバルロートは昼夜を問わず対応に追われている。原因は冬らしからぬ長雨による増水だ。
「ならば雨を止ませてやろうか」
くれたスライムを抱えて立ち上がり、窓辺に歩み寄る。俺にはできると知っている。開け放った窓から重く垂れ込める黒雲を眺め、室内に入り込もうとする雨は元素術の障壁で弾き返す。
空へと右手を差し伸べる。抱えていたスライムは俺の異能の発現が気になるのか、それとも雨水が欲しいのか右腕に絡み付いて来た。魚の神は夏の都の地底湖の水位を保つ雨を降らせる事も、止ませる事もできる。
「今日の俺は気分が良い。ワバルロートは母に感謝するがいい」
「私から言い含めておきましょう」
「相当に濃い神族の血じゃな……。何と偉大な力か」
数日振りに晴れ上がったリンミの夕刻の空を見遣り、小さく息を吐いた。ミラーソードが授かった異能なり神自身の権能が降らせる雨を退ける事は俺でも厳しかった。生半可な神官だの僧が祈る日和乞いなど通るものではなかろう。ヤン・グァンに拝まれれば夏の宮殿の住人を思い起こして鬱陶しくは思ったが、今日の俺には許せなくもなかった。