169. 母からの手紙
『私がこうして手紙を書く事になったのはアステールが建設的な提案をした為だ。我々はデオマイアに宛てて各々が手紙を書き、取り纏めて送る事になった。独り離れて暮らす愛しい孫娘の慰めになればそれでよい』
母からの手紙は相当に分厚かった。母は話題に挙げる順序は特に考慮せず、手紙を書く時間さえあれば書いてくれたらしい。物事が発生した順序を把握しようと思えば時系列順に並べ替える必要性を感じたが、とにかく俺は二回通して読んで内容をほぼ暗記した。
『愛しいデオマイアよ。私は離散して暮らす事を良しとはしていない。鏡を介して神子が提案した請願契約に乗ってはならない。あのような請願契約を受けてしまったなら永遠の離散になる。そなたの望みも叶えてはやれなくなろう。私の神子とデオマイアには共に存在していて欲しいとは何度でも訴えよう。愛している』
『愛しいデオマイア』『愛している』と言った快い文言は二回と言わず百回でも千回でも読みたいのだが、ダラルロートが先を読むように促すので読み進めた。
『私がどう名乗ろうとも神子とミラーは私をお母さんなり母と呼び続けるであろう。当人達は自身をお気楽で芯の通らない気分屋だとは全くこれっぽっちも考えてさえいないが、本質的には臆病であり強く圧迫されれば態度を変える。変えた結果として苛烈な激発を招く場合もある事は書き添えよう。我等が神の神力の導管と化した二人の決断は時として狂気的であり結果の予測が困難だ』
母にどう思われていたのか改めて書かれると俺の頭と胸が痛くはある。
『そなたをイクタス・バーナバに売り渡してしまった事を神子は本質的には悔いていない。神子の性根は悪だ。属性こそ中庸でいるが、我等が神の悪と狂気、腐敗と堕落を正しく受け継いだ腐敗の邪神の神子だ。
エピスタタを排除した今、神子はいつなりと取引相手を殺害する気でいる程度には邪悪だ。その点は神子を信頼して欲しい』
信頼。母は信頼して欲しいと書いている。母だと思えば悪への親しみを感じる。親父への嫌悪感が減る訳ではない。請願契約で魂をくれる条件として、父はイクタス・バーナバを愛して欲しいと言った。母が綴る父の姿とは真逆ではないのか。
『私の言が誤りだと思うのなら神子には力尽くで臨み、ミラーには透けたものを見せ付けてやるといい。神子がそなたに提案した請願契約の如き善めいて軟弱な自己犠牲的思考は、私が力尽くで説き伏せて撤回させる。
イクタス・バーナバに庇われようともミラーは怯えている。そなたならば精霊で事足りよう、デオマイア。涼み袋を拵えたのは良い思案だった』
説き伏せる手段が力尽くなのは母にとって何ら違和感が無い行為らしいぞ。俺は『力尽くで説き伏せて』の下りを二度見したが、母の字には一切の迷いが見受けられない。
涼み袋はゼナイダに助言されたから作ったのであって、俺自身の発案ではなかったがな。文脈から精霊入りの涼み袋だと解るからいいが、もし解らなかったら俺はお化け入りを想像して発作を起こしかねない。
『そのような気質の二人でも私を母と呼ぶ事だけは止めまいと諦めてはいる。私への愛情と密接に関わっているからだ』
母が諦める姿など想像できないのだが、諦めてくれていたらしい。驚きだ。
手紙は大部だったが、大事なのは母から提案が為された事だ。仮初でもいい、母を呼ぶ名前さえあればいいのだ。
『そなたとの手紙の中だけでもカーリタースかコルピティオと呼んで貰う事を考えている。デオマイアはどちらが良いと思うか。愛称はそなたがいいように呼んで欲しい』
愛称で呼んでも良いと言われただけでも興奮のあまり目が眩む思いだったが、母は更に言葉を連ねていた。
『私を愛称で呼んでくれるのなら、私からもデオマイアを愛称で呼び返そう。デミと呼んでよいものかな。手紙に返信をくれるか、リンミで会っても良いとダラルロートに伝えるか、転移で夏の都に来てくれるかして欲しい』
「ダラルロート、母に二人だけで会いたい!」
読んですぐにそう言った俺を誰が咎められよう。愛称で呼ばれた事などなかった俺だが、母にデミと呼ばれるならデミでいい。
「お気持ちに一定の理解を示さなくはありませんが、落ち着きなさい。
お母君の手紙は最後までお読みになるべきです。示された二択、カーリタースとコルピティオのどちらが良いと考えているのか文中に示唆がある可能性をお考えなさい。全文を読んだかどうか試された時、デオマイア様はきちんとお答えになれた方がよろしい事はお解りですよねえ」
「それもそうだ」
弾む声を抑えられずに言えば呆れられたのだろうか、ダラルロートに窘められた。俺は頷き、先を読んだ。カーリタースだろうな、とは決め付けていたがね。母が候補を二つ挙げられたなら、先に示された方を採ると思う。
俺の機嫌がよくなったのを察したのか、ダラルロートがくれたスライムも膝の上で喜んでくれたように思う。スライムにも俺が名前を付けてやるべきだろうか。
「のう、大君殿よ。その本は大ミラーソード様からデオマイア様への手紙で間違いないんじゃな?」
「そうですよ、司教殿」
「……愛情深いのは解るのじゃがのう」
「お母君からの親愛の表現でありましょう」
「そうだとしても、そう言う問題ではない気がするがの……」
母の手紙はエムブレポの事情にも触れている。ミラーソードはアディケオとミーセオ帝国からの意向でエムブレポを掌握しなくてはならないのだそうだ。神域から戻り、眼は六つになり鱗を生やした姿に変容したミラーソードは夏の宮殿で崇められていると言う。
『ミラーは随分と姿を変えてしまった。夏の宮殿のエムブレピアンに神王の再来と崇められる事に対し、徐々に不快感を感じなくなりつつあるように観察している。
それでもミラーは愛しい我が子の意識を保っている。もし我々が肉体の変容に動じればミラーの心も変質し、完全に神の掌中に奪われてしまうだろう。私はイクタス・バーナバを殺害できないとは思わない。夏の大神であろうとも偉大なる大母よりは下位だ。ミラーの魂を半分持ち去った上、心までも失わせたなら容赦せぬと決めている。無論、我が子が望む間は我が子の妻として遇するとも。望まれている間は相応に遇するが、ミラーが決意したならば私はやる』
母が綴るミラーソードの話を読む間、嫉みを感じた。
けれど、母がミラーソードを案じる様子を読むと俺に耐えられただろうかと疑念も湧く。母の文字からは、神がミラーソードの心を壊したなら神に挑みかねない雰囲気しか漂って来ない。その時はミラーソードを利するとしても母に加勢したいが、神に繋がれた俺では邪魔にしかならないだろうか。忌々しい事だ。
『ミラーに生えた白の鱗はマカリオスの銀の鱗よりも護りが強いようだ。私にも生やせないか尋ねたところ、神子によれば全知をエファに借りる要領で可能ではあるそうだ。試しているが、私には発現しない。イクタス・バーナバへの帰依なり信仰が必要らしい』
神から恩寵を注がれた俺に銀や白の鱗は生えていない。戦士として戦う為に恩寵を授けられたエムブレピアンにしか生えないのだ、とマカリオスかゼナイダから聞いた覚えがある。六眼は術師に、狂魚の鱗は戦士に対して授けられるそうだ。両方を持つ者はエムブレポで重責を負う事が定められているとも聞いたか。
母は純粋に防御力の強化に関心があるような書き方だな……。鱗を生やした上で板金鎧を着用できるのか、鎧に内側から傷を付けないか、手入れはどうすればいいのかと言った事を気に掛けているようだ。母が望むならば受け入れるべきなのだろうか。鱗を生やしたミラーソードの姿を思い出し、俺はそっと嘆息した。できれば母には生やして欲しくないが、何と言えば穏当に伝わるのか。
「神王に白い鱗……むう」
「司教殿は御存知ですかねえ? イクタス・バーナバ曰く最後の神王が初代の夏殺しに討たれて以来、エムブレポの王族から男子が産まれた事はないそうです」
「臣はそこまで詳しくはない。ミラーソード様から質問を受けた際、一通りの事を調べただけじゃよ。ミラーソード様が神王として祀り上げられておるのか」
「狂属性が強烈な夏の宮殿は正しき悪の司教殿には相当に辛い場所ですよ」
「まあの、大君殿の言う通りよ。それでも死ぬ前には神の聖域に君臨するミラーソード様の御姿を拝謁したいものじゃな」
どうも正属性のヤン・グァンにとって、夏の宮殿とは決死の覚悟でもしないと赴けない場所らしい。俺にとって居心地のよい場所ではなかったのは神に対する嫌悪感からだろうか。今は母が居ると思えば、転移して会いに行ってもいいとは思う。
「デオマイア様は返信すべき事を考えながらお読みになって下さい」
「ああ。俺も相当書かなくちゃならないな」
母は俺と共に過ごせるように色々と動いてくれているようなのだ。母の為に俺は何ができるだろう? ダラルロートならいい知恵を貸してくれると思う。