165. 神子の提案
昼前だと思う。渾沌精の放つ光に背を向け、ダラルロートがくれたスライムに添い寝されて熟睡していた。俺は大君の館を激しく叩く雨音を騒々しく思って目を覚ました。敵襲でも告げるかのような雨音だ。
「おはようございます、デオマイア様」
「おはよう、ダラルロート」
不快に思って寝返りを打てば、子供用の寝台の側にダラルロートがいた。左腕は、と目を向けたが異常は何もない。ミーセオの絹服は大君としての格を示し、左袖の中には腕があるようだし袖からは左手も覗かせている。自力で再生したのか他者に治癒させたのか。認識欺瞞ではないな、と六つある眼を瞬かせる。ダラルロートの左腕だったスライムは這い動き、俺の膝の上に丸くなって座り込んだ。撫でてやると指先に絡んで来る。
「私が目を離すとスコトスめが女官と入れ替わりかねませんのでねえ」
ダラルロートはそんな事を言いながら俺を着替えさせ、身支度を整えさせた。真っ黒なスライムは俺の脇で丸くなっていたり、伸び上がって鏡を覗き込んで来たり、窓の外が気になるのか這い寄って行ったり、と知性がないようには見えない動きをした。ダラルロートが操っているにしては落ち着きがないようにも思う。
衣服は何を着たいかと何着か候補を示されたが、ダラルロートが最初に示したものにした。アガソス風の白い上着と柔らかく明るい色合いの下履きは俺が自作した衣類よりは良いと気にしなかったが、鏡台の前で梳かれた髪を何やら華美な布で括ろうとしたダラルロートには制止を試みた。
「待て、何だそれは?」
「折角の美しい銀の御髪ではないですか。デオマイア様は結婚を望まれるなら御身の美しさと可愛らしさを活かすべきです」
ダラルロートに言われればそうなのかもしれぬとは思うが、しかし雌として己を飾り立てるのはどうだろう? 母が求めるのは信仰なり悪属性寄りの振る舞い、そうでなければ俺の魂なのではないか?
「魔力は強いものの本質的には臆病な神子、強大ですがイクタス・バーナバに護られながらも幽霊恐怖症を克服してはいないミラーソード。二人を篭絡してやれば、お母君には随分と近付くと思いますがねえ」
「……ダラルロートも俺に努力しろと言うのか?」
「敵視する二人に対して臆面もなく『愛している』とさえ言えるのなら、デオマイア様はお母君を手に入れたも同然ですな」
断言するダラルロートに俺は目が六つとも泳ぐのを止められなかった。俺を売り払ってくれた親父を愛してなどいない。ミラーソードばかりが何もかも握っているのに、愛していると嘘を言えと大君は言う。ゼナイダが言った努力のうちだろうか。
「それとも、力尽くでミラーソードに服従を強いてみますか?
肉体的に貧弱な神子は分体に押し込めばどうとでも致します。今や反逆が可能なアステールも抑えましょう。エファはデオマイア様の愛を求めている。腐敗の邪神の司直としてのお母君はデオマイア様との協力関係を歓迎するでしょう。
それでも最終的には、腐敗の邪神の孫にしてイクタス・バーナバの夫、レベル30のハーフ コラプション スライム、アディケオの第三使徒ミラーソードに抗えるのはデオマイア様お一人です。分かたれた半身との戦いをお望みになりますか」
座らされた俺の間近でダラルロートが言う。黒い瞳は狂魚の目で覗き込んでも偽りの色を見て取らせなかった。……ダラルロートは俺に協力してくれる気があるのか? アステールは反逆が可能とはどう言う事だ?
「ダラルロートはミラーソードに逆らえるのか? アステールはどうして逆らえる?」
「本質的には、我々は命を喰らわれた時から服従しております。しかし、自由に振舞う事を許されている時間を有効に使えばやりようはあるのですよ」
甘ったるい毒を耳から注がれている気分だった。ダラルロートが言うならそうなのだろう、と納得する俺がいる。
「少なくとも、お父君には報復なさりたいでしょう」
「そうだ、親父にけじめはしたい」
大君が言う事は正しいのだ、と脳が思考を止めかけていた。冷や水のようにダラルロートが言葉を浴びせて来る。長い指が俺の首筋を微かに掠めた。
「手加減を誤るとお母君を含めた全員が敵に回ります」
「解っている。母の怒りに触れれば俺は殺されるだけでは済まない」
母は父に執着している。邪神に魂を捧げて地獄から蘇って来る程度には深い執着だ。名前の話をしたら俺達の施した欺きから逃れてさえ見せた。
母に幽霊恐怖症を押し付けて鏡の剣から眺めていた間、母が恐ろしくて仕方なかった事は忘れていない。夏の都へと向かって来る旅の間、占術で覗いた母も恐ろしかった。ミラーソードのスライムの黒い肉体の向こうにいた母の声にも恐ろしさは感じた。恐ろしいが、それでも。
「それとも、母の怒りに任せて母の望みに応えてしまえばいいのかな」
「怒らせてしまったなら、お母君はデオマイア様の望むようにはなさいませんよ。暗黒騎士としてのお母君に考え得る限り、最も残忍な刑罰と拷問の対象になりましょう。お考え直し下さいませ」
ダラルロートに諌められてなお、心惹かれるものは感じる。親父さえいなければ、母の一番大切なものになれないだろうか。ミラーソードの一番大切なものを奪い取れないだろうか。
「そうよ、デオマイアちゃん。あいつを起こしてしまったら誰の望みも叶わない」
俺の認識の外から親父の声がした。間違いなく親父の声だが、室内にはダラルロートと俺の他には誰もいない。渾沌精も反応していないし、結界も全て無反応だ。いるはずがない。なかったのだが。
鏡台の鏡の中だ。鏡の中に、六つ眼の銀髪の雌ではなく緑の目をした銀髪の魔術師が映っている!
「親父……!」
「可愛いリボンじゃない、結って貰ったらいいのに」
紫の長衣を着て、鏡の剣を納めているはずの華美な鞘を帯革で佩いている姿には違和感がある。鏡の剣を父が持っている? ミラーソードはどうした?
「ねえ、デオマイアちゃん。僕に報復したいだろう。
狂神と取引して魂を売り渡したのは僕だ。僕らの手元に残ったミラーは取引が終わるまで知らなかったし、お母さんも取引を終えて僕が知らせるまでは何も知らなかった」
腐敗の邪神の神子の顔をして親父が言う。雄とも雌ともつかない声が響く。
「君の願いを叶えてやろうか。お母さんの一番大切なものになりたくないか。ミラーの一番大切なものが欲しくはないか」
「デオマイア様、お父君は請願契約の使い手です。くれぐれも短慮に任せた返事はなさいますな」
ダラルロートの腕が俺を庇うように引き寄せる。雨音に惹かれたように窓辺にいたスライムが寄って来て、俺の膝の上に這い上がる。
「エピスタタを殺す為には君を売り渡すしかなかった僕からのお侘びさ。
請願契約に応じてくれるのならば、僕が持つミラーの魂の欠片をくれてやろう。五分の一くらいの小さな欠片だ」
五分の一の欠片。親父はそう言った。
「欠片を受け取ればお母さんは君を一番に愛してくれるよ。
サイちゃんに初孫をやるよりはいいだろう。そう思わないかい、デオマイアちゃん」
窓の外から響く雨の音が耳に響く。母が一番に愛してくれる? そうだろうか? もしそうなら、俺は。
「お嫌いなお父君に取って喰われたいのですか、デオマイア様」
ダラルロートが俺を咎めるように言う。けれど親父の誘いは魅力的に聞こえる。俺を売り渡した侘びに魂をくれると言う誘い。
「……そうだとしても拒む必要があるのか、大君」
「愛しているよ、僕らの孫娘。君に僕が許されるとしたら他の手段は考え付かなかった」
鏡の剣に宿っていた父。父だと知ったのは隠れる君の御所での事。
「請願契約としての引き換え条件は何です、お父君」
「デオマイアちゃんを産んでくれたイクタス・バーナバを許してあげて欲しい。君の母親として受け入れて、愛してあげておくれ」
嫌な交換条件だとは思った。俺を引き裂き、繋いでいる神などどうして愛せよう。それでも、父に対する報復と母の獲得と言う一挙両得には抗い難い魅力を感じてならなかった。
「ダラちゃんは説得に力を貸してくれるべきだと思うのよ。
デオマイアちゃんにイクタス・バーナバが受け入れられないなら、ミラーは初夜を迎えたばかりの妻を失う事になる。かーちゃんのお怒りを解くにはこうするべきじゃないかな」
親父は懇願するようにダラルロートに話し掛けたが、鏡に向ける大君の視線は冷たかった。俺に対する咎めの色など比較にもならない冷淡な眼と拒絶の声だった。
「ミラーソード様とお母君が許されませんよ」