159. 夏の宮殿の夜
夏の宮殿の一角がミーセオの使節団の滞在の為に提供されている。何代か前の女王が建てた離宮だそうだ。見慣れぬ様式と精霊術による植物操作の複合建築で建てられてこそいたが、俺が休まされていたのは奥まった部屋で上等な部類だったのだなとは判った。人型に擬態して歩く離宮の中はどこも水と土と植物の香りがする。
「すまん、エファ。デオマイアに会わせてやれなかった」
「気にしなくていいよ、ミラー。ダラルロートと愉快な仲間達が試練を乗り越えてくれたら、会うべき時に約束された人と会える」
「何とも不穏な響きだな。確かに大君は単独でやるとは言わなかったが……」
スダ・ロンの護衛名目の監視をエファからアステールに引き継ぎ、俺は休憩を与えるついでにエファに詫びておいた。エファの態度は予言者か神官めいていた。発言内容には嫌な予感もしたが、ダラルロートを使ってもどうにもならん事など滅多にない。尤も、アステールは仕事になるかどうか。
「じいや! 会いたかったのだ」
「息災だったかな、ゼナイダ」
「ゼナイダは元気だったよ。デオマイア様がイクタス・バーナバの第二使徒にしてくれたのだ」
「使徒か。イクタス・バーナバの課す務めは辛くないか?」
「夏狩人のゼナイダにはそれほど難しい事ではない」
「……そうか。エムブレポではどのように暮らしているのか訊いてもよいかな」
「ゼナイダもじいやにお話を聞いて欲しい」
赤毛で六つの眼があるエムブレピアンの少女が盛んにアステールに纏わりついており、俺としてはスダ・ロンが姿を消しやせんかと気が気ではない。エファの魂を引き裂いてイクタス・バーナバに産み落とされた半身、夏狩人のゼナイダだ。父はと言えば「この国には僕の知らない美味しいものがあると思うのよね」などと言い放ち、とっくに姿を消している。大丈夫なんだろうな、父よ。母が目覚めた時に言い訳ができる場所にいてくれよ。
「こうなるんじゃねえかなとは思っていた」
「ミラーソード様は今夜の主賓でしょうに」
アステールも注意は払ってくれているが、俺がいられる間は見ておくしかあるまい。ゼナイダはアステールに余程会いたかったらしく、微笑みを崩さないスダ・ロンを意に介している素振りすらない。
マカリオスもいる事はいるが、認識欺瞞に耐性のない者が何人いた所でなあ。アディケオの使徒に注がれる不正の恩寵は強力だ。ただの大使スダ・ロンだったならイクタス・バーナバの第一使徒直々の監視は過剰だが、アディケオの第一使徒サイ大師が相手となると力不足が否めない。確実にサイ大師の方が圧倒的に強い。
「俺が知っておくべき事かやるべき事があれば教えてくれ、スダ・ロン」
「使徒殿とのお話が一段落してからでよいので、アステール様の力をお借りしたいです。使節団の随行員の正気を守る為に正属性の護りが必要なのです」
「アステールの? いいだろう、アステールは結界は使わないが陣法なら使える」
アステールは最上級元素術を含む魔術と二刀流の剣術を両立させて戦う上、防御に秀でている。一般的な魔術師らしい弱点は見当たらない。高度な魔法操作も使いこなすが、流石に専業魔術師の父ほどには網羅しておらず欠けはある。正属性の属性防御陣ならば問題なく施術してくれるだろう。
正属性の護りが必要だと言うのなら父はいても役に立たなかった。狂属性の魔術師なので対抗属性の正属性には触れられない。俺はと言えば中立で、アディケオの統治の恩寵を授かっているので結界か陣法による防護はできる。
「ミラーソード様は御自身の正気を保つ事に注力なさって下さい。夏の宮殿から繋がる神域へ踏み込めば間違いなく強い神威が降り注ぎます」
「そうか、毎回思うが大使はすげえ博識だな。俺が心配で一緒に来てくれたのなら、素直に大師で良かったんじゃねえのか?
俺が招かれている間の警護にはアステールとエファを付ける。父はふらふらと遊んでいるはずだ。話し掛けられたらどの料理や酒が美味かったか教えてやってくれればいい。ダラルロートと母は今、外してる」
サイ大師だと思って報告はした。ダラルロートがデオマイアを連れてリンミへ戻った事、母は名前を話題にしたら精神的に不味い状態になったので鏡の剣の中にいる事。貰った返事は何となくサイ大師らしさが強かったように思う。
「ダラルロート様ならばお考えがおありでしょう。
暗黒騎士殿は真名を神に握られている状態なのではないかと思われます。欺瞞されていた記憶が修正されてしまったのは今後も警戒すべき点です」
「ミーセオの大使が妙に有能で良かったとは思ってるよ」
母は真名を握られていると大師らしき大使は教えてくれた。握っているのは腐敗させた祖母だ。母の本当の名前は何と言うのだろう? 知りたいような、ミラーソードと名乗ってくれればいいような。仮に祖母に母の名前を返して欲しいと願うなら、どれほどの代償を求められるだろう。俺の思考を中断させたのは妻の声だった。
「アディケオの第一使徒が我が宮殿に立ち入るのは前例のない事だ」
「何事にも前例を作る者はいるものです、イクタス・バーナバ。或いは初めてではないかもしれませんよ」
「いずれにしても正式に歓迎するのは初めてだ。我が夫が忠誠を誓う神の使徒には違いないのだからな」
応じるスダ・ロンは旅の間ついぞ崩さなかったままに微笑んでいる。鎌掛けなのか事実なのか、俺には読み取れない。妻は機嫌がよろしくない。耐えるような色がある。妻の聖域だと言うのに気懸かりがよほど多いと見える。歯切れの悪い妻が何かを堪えているのは俺でも解る。もうすぐ神域で触れてやれる。
その日の夜はエムブレポの王族に招待された宴席だった。俺の席がどう考えても上座過ぎるのは気になったが、神の夫なのだからとスダ・ロンに放り込まれてしまった。あいつはサイ大師だ、力が尋常じゃなかっただろ! 蔓性植物を編み上げて造られた長椅子に横になって食事をすると言うのは慣れなかったが、エムブレポよりも南の狂属性国家では珍しくない風習だそうな。
アステールはスダ・ロンに張り付いてくれていたものの、ゼナイダとエファに両脇を固められていた。……仕事になるんだろうか? アステールだから何とかなるのか?
父はひょっこり戻って来てちゃっかりと料理を味わい、俺達が家ではあまり口にしない魚料理についてスダ・ロンや陽銀の部族の者にあれこれと質問しているのが見えていた。大君の館では魚はそこそこ食べる機会がある。ミーセオ風に調理された父の魚料理を口にする機会は近日中にありそうだ。
料理に関しては旨い料理に慣れてしまっている俺には正直な所、物足りなかった。素材はいいように思うので調理技術の問題なのかね。果実酒は良かった、俺好みに甘い。
妻とマカリオスはずっと気を張っていた。契印と契約した王族が多く、守備の為に相当な緊張を強いられていたようだ。何しろサイ大師が王族を一掃してやろうと決意した日には全員が死ぬだろうからな。妻の本拠地だと言うのに妻本人が安らげないのも無理はない。妻に負荷を掛けている使節団はなるべく早く帰らせてやりたい。
神と言う稼業も楽ではないのだなと思ったよ。王族を殺し尽くされたなら地上への影響力を失ってしまう。母は神格の獲得を示唆してくれたが、俺自身は神になどなりたいのだろうか?
宴の続く中、俺はマカリオスに案内されて夏の宮殿の奥へとやって来た。どう言う風の吹き回しか父も一緒で、アステールはスダ・ロンと一緒にいる。
「ミラー、鏡の剣を預かるよ。お母さんを神域へ連れて行っては、イクタス・バーナバは話したい事を話せまい」
「そうよな。母を頼む。母にとっての一番大切なものは父だと思うよ」
手を出して来た父に、飾りを三つ括り付けている鏡の剣を帯革と鞘毎渡した。サイ大師に貰った魔石を繋いだ聖金の鎖も父に渡しておく。他の神の影響力の強そうな品物は外しておこう。
「僕の愛しい人は預かるよ。無事に帰っておいで、ミラー。
神になるべきかどうかは君の妻の苦境を把握してから考えてもいいと僕は思う」
「父は何を知っているのだ?」
「僕も全知を借りたからな。試してみたが、やはり全知は強過ぎる」
母を抱くように鏡の剣を持つ父は緑の目を伏せて言った。
「マカちゃんは死なせちゃならんし、イクちゃんも下手を打てば殺される。
まあ、行っておいで。こうして生きてイクちゃんの神域へ向かえる時点で、君は望ましくない未来を回避して立っている」
「よう解らんが……。いいさ、妻が待っているので行って来る。
マカリオスは死ぬなよ。死なれるとどうも俺が幸せになれんようだからな」
「陽銀の長は女神の御意志に従うまでだ」
「それでもいいさ。じゃあ、二人ともおやすみ。朝に戻って来るかは解らん」
夏の宮殿の最奥部からは妻の呼び声が聞こえている。呼ばれるままにさほど深くないように見えていた大きな水盤に身を沈めれば、妻の手で神域へと招き入れられた。