151. デオマイアの孤独
第二使徒が腐り落ちた後、神は俺に課していた呪縛を解いた。
窒息させられずに長距離転移できるようになった俺はすぐさま転移して家に帰ったが、白昼だったので家には誰もいなかった。害意ある者の転移を阻害する結界もあるにはあったが、ミラーソードと親父よりも夏の権能を壊れても構わないとばかりに注がれた俺の方が召喚術は上だ。強力な召喚術と精霊術を植え付けられた代償なのか知らんが、退魔術と治癒術を失ったのは引き換えとしてどうかとは思う。心術も強くはなったか。
それほど長い期間の不在ではなかったのに、俺の家からは別人の家のような匂いがした。交合の音と匂いが絶えなかった夏の宮殿で鼻が悪くなったのかと胸糞の悪い思いもしたが、どうやら変わっていたのは家の方だ。
厨房に隣接する居間にある食卓で過去探査の占術を行使した俺は視てしまった。記憶にないほど仲睦まじく振舞うミラーソードと母と親父を。その晩の主役は鶏だろうか、親父が腕を振るった料理が並ぶ食卓。ミラーソードが茶を汲む食後。厨房に手を出さないなりに二人の様子を静かに見ている母。用意された結構な量の食事はきっちりと三人で平らげる。それも一晩だけの事ではなかった。
ミラーソードの表情は穏やかで、両親に捧げて応えられる愛情に満たされていた。選ばれなかった俺は愛と憎悪の虜の身を免れ、神に囚われてもいない。愛情と幸福を満喫し、信じ難い事に夕食後にはリンミへと転移で戻ってしまう。陽の沈んだ後に仕事をしている俺を見た時の衝撃は重かったよ。
俺の居場所を感じられなかった。小さな雌になってしまった俺を捻じ込める隙間は存在せず、ミラーソードを排除すれば両親も共に消えてしまう。親父には言いたい事しかないが、母は取引に関わっていなかった。俺にとっての母とは母を自称する神ではなく、暗黒騎士の母だ。
「どうするよ、俺」
呻き声を聞く者はいなかった。誰も応えてはくれない。俺は何を間違ったのだ? どうすればいい?
銀の髪の幼子の姿のまま、琥珀の館に幾つかあるミラーソードの私室の扉を開けた。分かたれる前の俺が好んで使っていた部屋で、掃除の手が及んでいない。幼子には大きく重過ぎる机の引き出しを開ければ、俺がまだミラーソードだった頃に書き散らした手紙のようなものがある。他愛無い記述もあるが、主に夢の中で神に招かれていた様子を楽しげに綴っている。
寝台に近付けばミラーソードの雄でも雌でもない匂いが残っているように感じられた。俺がミラーソードだった頃の僅かばかりの痕跡も、清浄化なり衛生の術を一つ振るわれれば消えてしまうだろう。
夏の宮殿から女の呼び声を感じた。愛娘が辛いのは知っている、帰っておいでと。俺は帰りたいとは思わなかったが、自宅にいるのも居た堪れなかった。
夏の宮殿にある植物質のデオマイアの私室に転移してみればマカリオスがいた。エムブレポの個室にはいつ誰が入り込んでいるか知れたものではなく、防ぎたければ人払いの結界や幻覚で欺く必要がある。俺が防いでいるにも関わらず入り込んで来れるのは、神の意向を受けている者だ。常に隠身している俺だが神が教えたのだろう。六つの眼が俺を見下ろした。
「デオマイア様」
「なんだ。俺は機嫌が悪い」
第一使徒も殺してやろうかと剣呑に眺めれば、マカリオスが跪いて視線を下げて来た。
「デオマイア様、我等が女神の愛娘よ」
「デオマイアは俺の名前ではないし、雌の肉体も不本意だ」
神の胎から雌として生まれて以来、気に入らない事しかない。エピスタタへの憎悪と神への嫌悪を秤にかけたらどちらに傾くだろうな。俺は自宅ではなく、真っ先にティリンス侯爵の邸宅を訪ねるべきだったのかもしれん。そんな事を考えていた。だが、いつもなら女神の御意志だとしか言わないマカリオスが何やら違う言葉を吐き出した。
「我等の女神の窮地を救って欲しい。できる事ならばデオマイア様の意思による事が望ましい」
「腐敗の邪神に睨まれていると言う話か? 俺は婆ちゃんが何を考えているかなど知らん。親父の教育については婆ちゃんに言いたい事が山ほどあるがね」
全てを殺し尽くすだけの力があったらとっくに振るっている。戦術級精霊はあまり面白い力ではない。ただ召喚して放っただけでは真価を発揮できない。精霊導師なり精霊徒を満載してようやく全力を発揮する。俺にとっては面倒なばかりの玩具だ。
「デオマイア様は女神に連なる喜びを御存知ではない。群れとの接触を拒み、孤独に苦しんでおられる」
「俺はスライムだったからな。魚の考えなど知らぬし、孤独を感じた事もない」
気付いた時には手遅れだったと言うのが正直な所だ。エピスタタの操り糸を切られたら今度は神の奴隷だ、やってられんよ。入口に歓迎文のある地下迷宮なんざもう二度と行かんぞ。この世の全ての迷宮の類には入口から腐敗と毒を流し込み、厳重に蓋をするべきだ。
「神の奴隷だとしてもせめて俺は心だけでも一人でいたいのだ。
マカリオスも第二使徒のように殺されたくないなら部屋から出て行け」
「あれは息子だった」
第二使徒は男だったのか。興味が持てず、性差さえ認識していなかった。マカリオスの息子だと言われれば似ていなくもなかったのか?
「デオマイア様。子を失った父としての報復の権利を行使する事は本意ではない」
「気の毒な事だ。神が降りながらにして護れなかったものを第一使徒が守れるとも耐えられるとも思えないぞ。死にたくないなら止めておけ」
腐敗の邪神たる祖母の考えは読めない。第二使徒を殺して恫喝紛いに自由をもぎ取ってくれた事そのものには感謝しているが、代償として何を求められるか解らない。祈ればマカリオスも死ぬのだろうか。試してやろうか。
誰かの奴隷を抜け出したと思えば、より悪い主の手の中にある生になど何の意味がある? 全て差し出してしまえば、母のようになれるかもしれない。地獄に堕ちていた母を救った邪神に祈れば、薄れた恩寵を取り戻す事もできるのではないだろうか。魅力的な考えに思える。
「捧げてはならない、デオマイア様。欠けた魂で強大な神に接触すれば待っているのは魂の破滅だけだ」
「無断で思考を覗くのはどうかと思うぞ、第一使徒」
六つの眼が俺を見ている。俺にも六つある眼で睨み返す。
「我等は女神に連なっている。憎悪に苛まれて病んだ心が視えるのだ。
既に一度 願いを叶えられたデオマイア様はいつ地獄へ連れ去られてもおかしくはない」
「地獄など母の実家のようなものだ。故郷へ帰るのに何の不都合がある」
魂を捧げての加護の獲得であれ、地獄送りであれ、俺は別段恐ろしくはない。暗黒騎士の母が通って来た道ではないか。今の俺は魔術師にして精霊導師だがな。
「孤独は憎悪に満ちた心にとって毒にしかならない」
「腐敗から毒を引き出して行使して来たミラーソードへの説法としては的外れだ」
憎悪な。そうだろうよ、俺は選ばれなかった方の俺と違って不幸せでな。
腐敗の邪神はどうして俺への恩寵を薄れさせたのだろう。両親と共に幸せそうにしていたミラーソードなどよりも、俺の方こそ助けが必要だと言うのに。どうして俺ばかりが不都合を負わされているのだ? 嫉みと憎しみと怒りが俺の中で力を増す。俺がミラーソードでミラーソードが俺でも良かったではないか。どうして俺は両親と共に残る方へ選ばれなかった?
「俺は生に価値を感じておらん。国一つ滅ぼして生贄として捧げ、地獄へ引き摺り下ろすのは望む所だ。腐敗の邪神も力を貸し与えてはくれよう。
気に入らないのはエピスタタのクソ野郎がエムブレポの滅亡を喜ぶだろう一点だけだ」
「……デオマイア様。我々は怨敵への憎悪を共有できるはずだ。
デオマイア様が我々を滅ぼしたなら最も喜ぶのは夏殺しだ。夏殺しの命じたままに我々を殺し尽くす事がデオマイア様の願いだとは思わない」
……それともエピスタタの野郎はここまで全知で読んでいたのだろうか?
中立にして悪から、中立にして中庸への属性転向を強制されたのは今にして思えばおかしな点だ。双頭の権能を注がれた俺は知っている。双頭の印が最も引き裂き易いのは中立にして中庸の者だと言う事を。
契約内容の穴だらけ加減も、穴ではなく誘蛾灯めいた誘導だったのでは? 子を成す神をアガシアでなくともいいと言われたなら、ミラーソードはエピスタタの宿敵であるアディケオもしくはイクタス・バーナバへ向かって突進すると読まれていたのではないのか?
「そうよな。マカリオスの言う事も間違ってはいまい」
マカリオスの言葉は俺の激情を慰撫する事はできた。落とし穴を一歩前にして疑問を抱いた体ではあったが、エピスタタの掌の上で奴が最も喜ぶ事をするのだけは我慢ならなかった。
音もなく伸びて来た銀の鱗に覆われた手が俺に触れると、溜め込んでいた堕落由来の感情を喰われる感覚を味わった。大きな手は心地よく、触れられている間だけは孤独を忘れられた。俺が抱え込んでいたものにマカリオスは苦痛を感じたようだが、エムブレポの大いなる父は気丈にも耐え切って見せた。