148. 夏の都の俺
パラクレートス関所を発って六日後、俺達とミーセオ帝国の外交使節一行はエムブレポの首都に到着した。標高のやや高い山地には薄く引き伸ばされた神威が漂い、首都全体が聖域化されているように感じられる。
エムブレポに君臨する妻の力はますます強くなり、俺に表出を許してくれていなければ容易く呑まれて意識の奥底へと沈められそうだ。夜毎に見る水中遊泳の夢の中でも日々妻の美しさが増して来たように感じている。昨晩など俺はスライムではなく魚なんじゃないかと思えていた。
「皆も神威を感じていると思うが、夏の宮殿に入ったらもっと強くなりそうだな」
「そうね、首都全体を聖域にして夏殺しから護ってた感じかな。いいんじゃない」
「狂神の聖域は心地よいな。開放感のようなものがある」
「狂属性の人をいい気分にさせてくれる空気だね。エファも気持ちいい」
「夏の都の空気が肌に合う者にとって、夏の宮殿はより一層素晴らしい場所だ」
「私は恩恵を受けるほどではないようです。アステールには辛そうですかねえ」
まだ端の時点で父と母は何やら機嫌がよく、エファも同様だ。マカリオスの属性は狂った中庸だそうで、六つの眼を細めて機嫌が良さそうに見える。中立のダラルロートは常と変わらず冷静だったが、アステールには滞在するだけで辛そうな土地柄であるそうな。俺の五人いる四天王で正属性なのはアステールだけだ。俺に保管されて公爵の部屋にいる分には問題ないようだが、アディケオが与えた呪面に護られているのかもしれない。
ミーセオの使節団には正属性の者が多く、不調を感じさせられる土地であるようだ。夏の宮殿へと近付くにつれて属性力が強くなるのを俺も感じている。女神が偲び笑うようにして歓喜を伝えて来るものだから、俺自身も狂属性の異能を発してしまっている。平然としているのはスダ・ロンだけじゃないのか? 烙印が伝える大母の注視を感じ、口の中で小さく祈った。
夏の都に住んでいるのは陽銀の部族と陰銀の部族だ。道中でマカリオスから概要を聞いたし、イクタス・バーナバも教えてくれた。近衛にして側仕えとして神と王族を護るのが陽銀。陽銀の部族だけはエムブレピアンの中でも例外的に男が多いそうだ。夏の都の地下にある地底湖で漁をして魚を獲ったり、都の周辺で採集をしたり、各部族で産まれた生後間もない子を戦えると看做される10歳相当の肉体になるまで都で育てるのが陰銀。陽銀が貴族階級で陰銀が生産者階級だと理解すれば間違ってはいないようだ。
夏の都で陰銀の部族が住んでいる家は奇妙な外見をしている。生きたままの樹木が精霊術によって形を変えて住居とされているそうで、どの家も何がしか独特な外見をして個性を主張している。家々に扉はなく、編み上げられた簾のようなものが入口に垂らされている。防犯はどうなっているのだ? そう大きくはないのだが一つとして同じ家がなく、色取り取りの飾り付けも施されている。
面白いのでもっとよく見たいとは思うのだが、陽銀の部族の者が先導して歩く間エムブレポの民は平伏している。俺も民に要らぬ負担を掛けるのは本意ではない。後で妻の神威を抑えて貰い、忍んで見て回りたい。スダ・ロンも興味はあるようだった。
「異国を訪れると筆を執りたくなります」
「好きなように描いてくれたらいい。大使の絵はまた見たいぞ」
「ミラーソード様がお望みでしたら描き上げましょう」
世辞ではなく言えば、スダ・ロンはそれとなく観察する目を深めたようだった。ミーセオとエムブレポの利害の対立がなく俺も穏やかな時には、スダ・ロンは定命の者に見える。これはサイ大師、この男は大使ではなく大師と念じていないと、ただの敏腕大使だと誤認させられそうになる。常に認識欺瞞を纏ってはいるのだろうよ。
イクタス・バーナバが頻繁に降らせると言う豪雨がもたらす水を地下へと排水する排水構については、リンミの下水よりもよく整備されているように思えた。地底湖に流れ込むべき雨水を汚す事は重罪であり、夏の都に張り巡らされた排水溝の清掃は陰銀の部族の重要な職務だそうだ。
雨については俺達が旅する間は抑制してくれていたそうだ。本来のエムブレポ領内は魔獣と野獣が盛んに徘徊し、予見の困難な突然の豪雨が気紛れに降ると言う厳しい環境だ。ミーセオ兵だのアガソス兵では道があってもまともに行軍などできまいし、道がなければ六日で夏の都へ到達するなど到底不可能だろうと思える。拓いてくれた道とても、イクタス・バーナバが閉ざそうと思えばすぐにでも密林に沈むそうだ。
エムブレポにおいて商業活動はそれほど活発ではないようだ。物々交換が主体で、貨幣のやり取りが重視されない社会であるそうな。外国の貨幣も通用はするが、金なり銀としての価値で量られると聞いたか。夏の宮殿へと続く大路はどこもかしこも直線が少なく、入り組んだ造りだ。夏の都の全体が混沌としており、商売がやり易そうな設計にはなっていない。
ミーセオとは違って高層建築物が少なく、陽銀の部族の者が多く住むと言う区域を通行する際には陰銀の部族の者が住んでいた地域との差を見出すのに少々苦労した。占術で探ってみると魔法的な防護を施された住居が多いようだ。平伏するエムブレポの民をよそに、番犬めいて魔獣や魔性が徘徊しているのも見た。
イクタス・バーナバは陽銀の部族の信心深い民には気前よく祝福を振り撒き、一行へ捧げるように掲げられた乳児の肉体を幼児へと成長させ、神に自らの成長を願う幼児は少女へと成長させてやっていた。夏の権能の小権能は夏、密林、熱気、生育、促進、熱狂だ。生育と促進の小権能が女神の庇護下にある子の成長を促し、死亡率の高い乳児を安定して成長可能な幼児へ、幼児は少年少女へと変えてしまう。エムブレピアンは総じて短命だと聞いていたが、幼い肉体のまま死んでいる訳ではない。幼い精神のまま大人の肉体を与えられて戦うから短命なのだと知った。
それにしても。リンミであれば俺が執拗に設置したものがあるのだが、夏の都にはそれらしいものを見つけられない。俺と同じく恐怖症持ちのデオマイアが俺と同等の能力に加えて精霊術を扱えるのならば、やっていないとは思えないのだが……。
「なあ、父に母よ。ダラルロートでもいいぞ。あるべきものがなくねえ?」
「浄化の結界がございませんねえ。範囲を宮殿周辺に限っているのでしょうか?」
リンミではヤン・グァンが主体となって担当していた作業だが、大君は気付いていた。俺を怯えさせるけしからぬ不浄の手合いを退ける浄化の結界がない。俺の退魔術は聖騎士だった母由来の技だ。相当に強力な魔性でない限りは一方的に破壊し、強いものでも損傷は与えられる。……俺自身は見てしまうと何もできなくなるがね。亡者恐怖症ではないので肉体なり実体があるならば戦えるが、ない場合は無力だ。
夏の宮殿だと言う巨石で建造された壁の端に辿り着いても、まだ浄化の結界の存在は察知できなかった。デオマイアも弱点は同じだろうに、何故浄化の結界を張っていないのだ?
「その点はデオマイアに訊くといい。陽銀よ、まだ言うな」
「我等が女神の御意志であれば語りますまい」
偲び笑うように妻が俺の肉体で言った。ダラルロートが俺に目配せをした先にはマカリオスがおり、何やら物言いたげな雰囲気も感じた。不機嫌になったのは母だよ、俺は面頬の下を覗きたくない。
「退魔術を失うほど信仰心が弱っていると言うのか?」
「治癒術と退魔術は本来なら魔術師の領分じゃないよ、お母さん」
父は魔術師としては治癒術と退魔術を習得していなかった。純粋な魔術師である父が高度な治癒術を行使したい時は、俺と経路を繋いで借りて行く。傷の治療自体は元素術でもできるのだが、治癒術の方が高度な治療行為に適している。本来なら神官や僧、聖騎士と言った職が得意とする系統だ。俺は暗黒騎士にして魔術師だから扱える。
俺は毒の効かない相手には治癒術を連打連発して支援主体で戦った事もある。……なあ、アステールよ? ダラルロートを盾役にして貴様と戦ったのも懐かしい事だとは思わないか。今、当時のアステールと再戦したら剥奪魔法の一撃で決めてやれるのかね?
「ミラーソード様、この巨石を潜った先は神威が更に強まるようです。お心を手放されませんように」
スダ・ロンの声で俺は意識を現実に引き戻した。壁を越えた時に俺は劇的な差を感じなかったが、ダラルロートが微かに嘆息したのを聞いた気はする。辛いようなら狂属性の父に代わって貰った方がいいのだろうが、母と父の両方に分体を与えると二人とも機能しなくなってしまう。ダラルロートには悪いがアステールよりはましであろうと踏み、耐えて貰う。
夏の都を区切るような巨石の壁には魔力回路めいた刻印を施された門扉があり、俺達を迎える為に開かれていた。門の先には銀の鱗を生やし、革鎧を身に着けたエムブレポ兵が客と言うよりは主を迎え入れるようにして長く立ち並ぶ。陽銀の部族の者だなと解る。
皆から一人離れて歩む列の先には、いかにも屈強げな銀の鱗を生やしたエムブレポ兵に護られている複眼の女。女王だと妻が言う。俺の耳が聞いたのは聞き取り易く快い、歳経た女の声だった。
「おかえりなさいませ、陽銀の長よ」
「女王よ、ミラーソード様をお連れした。我等が女神に選ばれし貴き方だ」
「エムブレポへようこそおいで下さいました、ミラーソード様」
女王の六つの眼はマカリオスほどの魔力の輝きはないものの、契印を護る王族としては相当な手練であろうなと思わせる。土着神と契約する王族は必ず定命の者だ。イクタス・バーナバの契印と契約できている神の血を受け継いだ王族の中でも、女王の強さに妻は満足しているようだ。女王は複数の狂神から受けた恩寵を帯びる俺を前にしても怯まず、むしろ快さそうにしてさえいる。親しくできそうだなと感じたよ。
「俺はアディケオの第三使徒、暗黒騎士ミラーソードだ。
今日はミーセオの外交使節の長としての訪問であるが、我が妻イクタス・バーナバの夫としての訪問でもある。だが、可愛い娘のデオマイアに会いたくてやって来た父親だと名乗った方がよいかな」
女王への挨拶だが、娘への宣告でもあった。
なあ、我が娘よ。ようやく会えたと言うのに、どうしてそのように隠れているのだ? 邪視と狂魚の目を持つ俺には視えている。認識欺瞞で身を覆い、兵からも離れて誰からも見えないつもりでいるらしい銀の髪の幼い娘。
詠唱破棄した短距離転移で間合いを詰め、娘の眼前で微笑みかけてやった。母を真似ると恐ろしげに見えるのは知っているので、スダ・ロンの笑みを真似る練習をこの数日ずっとやっていた。俺の誰にも見せなかった努力は実っただろうか。俺とても甘やかな声を出そうと思えば出せるのだ。防音の結界を張って練習を繰り返した日々よ、俺に報いてくれ。
「デオマイア、そう怯える事はない。お父さんだよ」
「ああ、目の前にいるの? 僕はお祖父ちゃんよー」
娘は分体を与えた時の父によく似た輝きのある銀の髪を長く伸ばし、父が好んで着るのと同じような長衣を着ている。肌の色はアガソニアンとバシレイアンの中間めいた薄い白。背丈はまだ俺の腰にさえ届かない。幼く柔らかそうな肌をした女児の顔に輝く六つの青い瞳が驚きに見開かれる様は愛らしく思えた。
「久し振りなのか初めましてなのか、どちらだ俺よ?」
幼子の声はひどく陰気に響いた。声は幼い女児のものだが、宿る意志が俺らしさを感じさせられる。認識欺瞞で隠身しているデオマイアは俺かダラルロート並の使い手でなければ認識できないはずだが、スダ・ロンの目はデオマイアを確かに見ている気がした。
「初対面だとも。そう恐れてくれるな」
「俺を恐れている訳ではない。恐れてはいないが」
六つ開いている目がそっと六つ揃って逸らされるのを見るのは少し面白かった。デオマイアは俺を見てはいない。視線の先には暗黒騎士の母がいた。デオマイアの声は震えている。
「母は恐ろしい」