143. 嫁の条件
俺が楽しい水中遊泳を終えて目覚めた時、黒髪の男二人が側にいた。困ったように微笑むミーセオニーズの男と、認識欺瞞を厚く引き締めたダラルロートが俺の両脇に立っている。空飛ぶ絨毯と言うものは厚みがないにも関わらず、畳めいて心地よく横になれるものなのだな。エファが言っていた、俺が使う事になると。間近な未来であれば全知はまず外れない。
「お目覚めですか、ミラー様」
「ミラーソード様、サイ大師より『正気を手放してはならない』と申し付けられませんでしたか」
「ああ、言われたよ、言われたが……仕方あるまいよ。一時避難は認めてくれい」
エファが寝ていた時にはなかった周囲を覆う幕のようなものはダラルロートの手妻のようだ。視界を遮り、俺の特別な視覚を欺く幕は相応に高等な幻術と占術の産物だろうがね。意味は解る。『見てはいけません』だ。
「戦術級の大地精、大嵐精、大炎精、大海精が各五体、計二十体の出迎えはミラー様の御身体に悪いとイクタス・バーナバが御判断されたようでしてねえ……」
ダラルロートの言葉だけでもう解る。大地精だけが俺の恐怖症を刺激しない穏当な迎えで、他のは……。身を震わせた俺にスダ・ロンが絵巻のようなものを差し出して来た。
「大地精は御存知との事ですので他の精霊について絵図を御用意致しました」
「……絵か」
誰が描いたのだろう。ダラルロートになら何をされても今更驚かないが、ミーセオの毛筆を使って墨で描かれた絵図だ。墨で描かれた絵ならば俺も別にどうと言う事はないのだな、と感心した。
「大使が描き上げて下さったのですよ、ミラー様」
「上手いものだな。大使スダ・ロンは芸事にも強いのか?」
「平時であれば専属の絵師を用います。残念な事にあまりの威容に怯えてしまい、使い物にならず。久方振りに筆を執りました」
何かおかしいな、とは思いつつも俺は大使が描いたと言う絵の出来栄えには実際感心していた。戦術級精霊の姿には興味があったのだ。言葉で説明されると悲鳴を上げてしまうし、幻覚で見せられれば卒倒する超重篤な幽霊恐怖症持ちの俺は水墨画を見せて貰うべきだったらしい。
「確か俺はマカリオスと話していたんだよな?」
「ええ。ミラー様をマカリオス殿が狂気に堕としている間に通過致しましたからねえ」
「……なるほど。発作逃れのやり口としては新手なのかね。
俺の記憶には何も残っちゃいねえのはダラルロートの記憶操作か?」
「私からは僅かばかりの操作で済みました。違和感はございませんか」
違和感。手の中の精霊の絵図を眺めながらスダ・ロンを見る。この男の正体はサイ大師で、サイ大師の正体の名前と冗談じみて似せられている。アステールについてもう少し欺瞞しようがなかったのかと言われた事があるが、サイ大師だって大概じゃねえかよ。認識できている、できていると思う。
「大丈夫だと思う。戦術級が二十体とはまた豪勢な迎えが来た物だ。
俺達が不在のリンミなら一刻で滅ぼされる戦力ではないか、ダラルロートよ?」
「一刻も持てばむしろお褒めの言葉を頂くべきでしょうな」
「そうかい。現実問題としてリンミニア兵の質はエムブレポ兵より下だからな」
ダラルロートの評価は手厳しい。元がアガソスの所属だったリンミはどうにも兵が弱いのだ。ミーセオ兵にやや劣るか互角程度の質ではあるが、密林においてエムブレポ兵が一方的にミーセオ兵を翻弄して殺し尽くしそうになっていたのを見た事もある。督戦していた母を宥めるのに苦労したぞ、あの時は。ミーセオ兵に劣ると言うのは支配者として不満だ。
「神王の下であれば、エムブレポはリンミニアへの派兵と駐在に応じると思われます。ミラーソード様は弱兵を鍛えるよりも強兵を獲得すべきなのではありませんか」
「そんなに俺を神王とやらにしたいのかよ、スダ・ロン」
「ミーセオ帝国の方針に現時点で変更はございません」
微笑む初老の大使は乗り気ではない俺を説得する気でいるようだ。熱心な事だとは思う。
「王様なんてそれこそダラルロートがやるべき業務であって、俺向きじゃねえよ。静かに水を飲んで魔力を吸っていれば暢気に過ごしてくれるジュエル スライムとは訳が違うのだぞ? スライムの王子様に無茶を言わんでくれ」
「私はミラー様にお仕えするのに忙しいのですがねえ」
「大君がやりたくねえなら王様ができるのはアステールくらいじゃないのか?
母は殺しに躊躇いがなさ過ぎるし、父は万事適当だ。エファはそう言う仕事に向いていなかろう」
俺は別に、支配する国が増えたって構わんのだ。
スダ・ロンを眺める。どうにかしてこいつから本音なり本当の事を聞き出すまでは、応じるとは言いたくねえんだよ。アディケオを裏切る気はないが、妻への背信も真っ平だ。俺は妻を愛してやりたい。
「現在のエムブレポは部族合議制だからこそ統治が困難なのです。
ミーセオの官僚団が支援して中央集権化を果たせばミラーソード様の負担はさほどございません」
「イクタス・バーナバの力を削ぐ気で言ってるよな。適当な妥協案が出るまでは同意する気がない」
「エムブレポの民は神王の即位を待望しているとしてもですか?」
「俺とイクタス・バーナバの子が男児であるなら神王とやらにしても良かろうさ。
つい先日まで戦争やってた敵国人が現体制を引っ掻き回す気満々なのはどうかと思うぜ、大使。妻が警戒するのは当然だ。俺を捻じ込もうとされるのは俺自身、不快だ」
イクタス・バーナバは娘しか産まないそうだがね。知っている上で言っている。
「もしくは俺がエムブレポの王族を眷属に変えてやって子を産ませるかだよな。
ミーセオでも同数の子を産ませると契約した身だ、誰彼構わず眷属に変えて腐敗の種子を授ける気はない」
「そうなんだけどね、僕らの孫を除くと耐えられる器はかなり強い魔性と神くらいしかいないと思うよ。君は大きくなり過ぎている」
俺と父が言っているのは世代交代ではないコラプション スライムの交配のやり方だ。見込んだ個体を眷属に作り変え、充分な大きさに育った雌に腐敗の種子を撒き小さな分体を産んで貰う。俺は自分自身の切り離した血肉に保管している人格を入れて分体として操っているが、子と思った事はない。誰も彼も俺よりも年長ではないか。冗談でも何でもなく俺は言う。
「サイ大師が俺の嫁になってくれるのなら産めるとは思うぞ」
「サイ大師に報告して検討して頂きましょうか?」
「ミーセオで子を産めと言われると真面目な話アディケオかサイ大師の二択だとは思っている」
さて、微笑む大使スダ・ロンはどこまで本気なのかどうか。
サイ大師に愛してると口走るのは特に抵抗がねえんだよ。煉獄の神の分霊でも構うものか。俺の異能に呑まれないのは神だと言うのなら、神を相手にすればいい。簡単だろう?
「報告はして貰って構わんよ。今の俺は狂気に陥ってもいないし、それほど冗談は言わない。できない事を言うのも趣味ではない。崩落の大君スカンダロンがいい返事をくれるなら喜んでやってやるぞ」
「鏡はミラーの望みを叶えるよ」
「卑しき宦官は我が主の意向を尊重するまでです」
俺達三人を前にしてもスダ・ロンは微笑みを保っている。こんな定命の者がいて堪るかよ、本当に。それともサイ大師の姿の方が好みだと言ったら化けてくれるのかね?