136. 秘儀の習得
精神体とは言え母の身体に粘体で押し入るような感覚は俺を大いに戸惑わせた。
だがやった、支配権は奪回し切った。耳を澄ませば悔しげな声が聞こえる気がする。母はまだ正気ではないのか? 俺だって母には優しく接して愛を捧げたいのだが、ちと失敗するとこれだよ。
精神体を未来から前借した俺の魔力で捏ね上げて小さくまとめれば、サイ大師が護符についていた銀の結晶に戻して母を鏡の中へと返してくれた。
「母さんは磔刑場で磔にしながらでないとダメなのかもしれん」
あんな事は二度とやるまいとは思っていたのだが、いかんせん俺の母は邪悪だ。腐敗の邪神が唆したにせよ、多過ぎる源泉を浴びて癒着欲を刺激された母自身の判断にせよ、隙を見せたなら喰らい付いて来るのが母だ。それでも愛しているがね。……だいたいは母の声に動揺した俺のせいであったし。
今、母の意識は鏡の剣の中の世界で眠っているそうな。「お腹が空いたら起きて来るでしょ」と父は投遣りに言ったが、状態を調べる為に随分と占術を使ったらしいのは解った。ダラルロートに記憶を少々操作させる事も考えておこう。事の善悪よりも母を苦しませたくないのだ。愉しそうに見えたし聞こえた事は黙殺したい。
母に対する魂洗いはなかなかに困難であろうが、俺達に汲み上げられる源泉の量を全て一人に注ぐのなら地獄で一年洗われるくらいの効き目は期待してよいそうだ。
「つまり、母を完治させるには魂洗いを90回やれと?」
「そうだ。幾つかの注意事項ができたので慎重に行うように」
「90回は大変だね。エファも手伝うよ?」
サイ大師の返事とエファの声に俺は暗澹たる気分になった。地獄では90年掛かるものが煉獄の源泉でなら90回だ。有り難いよ、充分に有り難いんだが。90回もやるのか。俺がやらねばならんのだろうが、土下座してでもサイ大師に手伝ってくれと泣き付くべきだろうか。いっそ崩落の大君スカンダロン本体でもいいぞ、俺は縋れるもの全てに縋りたい。
「……どうしようね、ミラー。僕が磔台を作ってあげようか」
「今度は忘れずに《耐久力》なり《非破壊》を刻んでくれ」
また暴れられたら言い訳をしながら嬉々として身を任せかねんのが怖い。サイ大師曰く、浴びてしまった濃いままの魂の源泉のせいで欠けた魂同士で癒着し易くなっているそうだ。母も同様の欲求を感じているからミラーソードが気を付けるように、と言うお達し付きだ。癒着しようとはされない、魂に欠けのない者を補助に付けるべきだと言われたよ。
「と言う事はダラルロートかアステールを煉獄に連れて来ないとならんのか」
「暗黒騎士殿ほど欠けていれば、魂が欠けた者なら誰にでも癒着して我が物にしたがるであろう。ある程度以上に魂が癒えるまでは注意する事だ」
「……うわあ。ミラー、お母さんか僕のどちらかをなるべく分体に入れておいてくれる? 僕、食べられちゃう」
……母に厄介な悪癖が付いてしまったのではないのか? 母の魂洗いは最優先だ。
人型に戻り、源泉さえ汲んでいなければ重い訳ではない魂洗いの柄杓と転移門を開く為の魔石を眺める。実践した今でも、俺は魂洗いの秘儀を授かった実感に浸り切れずにいる。
「なあ、父にエファよ。心配事しかねえんだがどうすりゃいい?」
「エファと遊んでくれたらいい」
「忙しくしてたら不安も紛れるかもよ。僕もちょっと働きたい気分だわ」
現世へは魔石を使って転移門を開けば戻れるそうだが、戻ったら戻ったでやる事は山積みだ。アディケオとの契約を守り続ける事はいつまでできるだろう? イクタス・バーナバは喜んでくれるだろうか? 現世に戻ったらダラルロートとアステールには何を言われるやら? 何より母が目覚めた時、気まずい空気にならんだろうな?
「ミラーソードは血族の治癒に当面多忙であろうな」
「サイ大師には借りも恩も重苦しいほど感じてるよ! 帝国に永き栄えあれ!」
自棄混じりではあったが、俺の言葉に紅の衣を着た美丈夫の分霊は偽りや欺きを見つけなかったようだ。俺の上司の正体は煉獄の洗い場の元締めだった。スカンダロンを聖火教が祀る神に加えて拝もうとは思っている。地獄の公子なんて大層な名で呼ばれても神には勝てんのだ。……少なくとも、今はまだ。