126. 面会
意地悪そうに見える半眼の蛙が見つめる中、魚の目が俺を見た。
「ミラーソードがイクタス・バーナバに呪われ、今も無事を祈る娘に憎まれようとも、大母は力を与えるだろう。憎悪を肯定し、尽きる事のない憤怒を地獄から供給し続けような」
悲しげな声でイクタス・バーナバが俺の口で言った。強大な腐敗の邪神が烙印を介して唆すからにはそうなのだろう、と理解していた事をイクタス・バーナバは肯定した。
「イクタス・バーナバが握っている双頭の半分は殆どの魂にとって強固かつ永遠の支配だが、大母ならば腐敗させる事もできよう。腐敗こそが大母の第一の権能だ。剥奪できぬものなどなく、同意など求めない」
……俺、我を忘れたら何するか解らんな。
今の俺ならスライムとしての本性を現しても意識を保てるはずだが、祖母直々に干渉されたら理性なんぞ吹っ飛ばすとは思う。俺の両肩の烙印は灰色に見えるが、最初は黒かった。腐敗と堕落の烙印は清められて中庸と中立の烙印に変えられた。それでも今、干渉を受けてじくりとした浸出の感覚と共に悪と狂気が加わっているように感じる。
「ミーセオとエムブレポの両方が無事では済まぬぞ、アディケオよ。ミラーソードの母の魂を人質に取る気ならば考え直す事を勧める。
大母の望みは地獄に堕ちる命を増やす争乱だ。我々の諍いを煽り、より多くの生贄を送り込ませようとしている。我々が和睦を望んだとしても、次の戦は終わりなく続く事になろう」
「ミラーソードをイクタス・バーナバが唆せばそうなろう」
魚の神と蛙の神がこうも不仲では水の中はさぞ棲み辛かろうな。互いの神力を隠そうともせずに俺の鼻先と肉体を介して睨み合う二柱の圧力に接しているだろうに、俺を抱えたままでいられるアステールの意志力には改めて驚かされていた。その名をイクタス・バーナバが口にするまでは。
「聞いているな、アガシアよ。見ての通りアディケオは永劫に焼け爛れているばかりか愛を理解さえしないのだ。終わらぬ幽閉の身をイクタス・バーナバは哀れに思う」
俺の肉体が僅かに手を震わせた。イクタス・バーナバの神力が泉に対して走り、認識欺瞞を引き剥がす。アディケオによって封をされていた神域への入口から女の声が響き渡る。振り絞るような悲鳴だ。蛙が俺の鼻先で跳ね、泉へと向く。意地悪げな目付きは消え失せ、感情を感じさせない無表情に取って代わった。……蛙の心情と言うものを俺もしくはイクタス・バーナバが正しく読み取れていればの話だが。
「じいや、じいやがいる! 会わせて、アガシアを会わせて!」
「哀れな事よな。アガシアの幽閉は決して終わらぬとはスタウロス公も知っていよう。ミラーソードに使役される身であってもアガシアへの献身を続ける哀れな魂よ」
アステールの手が震えた。抱え上げる俺の肉体を落としはしないが、それでも確かに震えた。俺には不快な金切り声だが、かつて仕えていたアステールにとってはそうではないようだ。
「じいや、アガシアはここにいる! 助けて、じいや!」
「君が寝ていた間の道中もずっとこんな悲鳴が響いてたのよ、ミラー」
父の声がそう教えてくれた。アステールには辛かったろうにな。よく無言を貫いていられるものだ。―――スタウロス公はよく耐えているが、イクタス・バーナバは哀れでならない。
「アディケオよ、囚人に世界を隔てた面会くらいは許してはどうだ? 狡からいアディケオの事だ、これほど悲痛な叫びを前にしても女心を解さずアガシアから譲歩を引き出そうとするのであろうがな」
鼻先の蛙を心の底から侮蔑した声音で女神たるイクタス・バーナバが言う。俺の口からでさえなければ良かったのだがな。蛙は不機嫌そうと言うよりは感情を感じさせない。
「アガシアよ、今のスタウロス公はミラーソードに従属する魂だ。アディケオがミラーソードを無体に扱えばアガシアの愛するスタウロス公も無事では済まぬぞ。
ミラーソードを呪えばスタウロス公にも害が及ぶ事を忘れるな。イクタス・バーナバの取り成しではアディケオは聞く耳を持つまいがね」
イクタス・バーナバはアガシアに対しては憐憫に満ちた声を出した。叫ぶばかりだったアガシアの声が震えて小さくなる。
「……じいや……。お願い、じいやのお声を聞かせて」
仕える神に呼び掛けられたアステールは耐えた。唇を引き結び、仮面の下に感情を押し殺していたが抱き上げられている俺には感じられた。駆け寄り、叫びたいのだろうに。ダラルロートが俺の鼻先の蛙に言った。
「泉越しの面会であればお許しになっても問題は少ないと存じます。
管理者が発言を許さぬ限りアステールは口を開きますまい」
「ダラルロートがアガシアの使徒に肩入れするとはの」
「まさか。私はアガシアめの悲嘆を愉しみたいまでですよ」
蛙に疑われてもダラルロートは愉しげに笑って見せたし、イクタス・バーナバの神の目にもアガシアの悲嘆を愉しむダラルロートの心に偽りを感じさせない。より多くの悲嘆を引き摺り出したいとちらつく欲望も見て取れた。
「その心をよく隠した者よ。面会を許すゆえ泉を覗くがいい」
蛙の声には嫌々出した許可と言う体裁と共に何か別のものが見えた。……期待か? ―――アディケオには引き出せぬアガシアの声を聞きたいのだよ。性根までも焼け爛れた醜い蛙め! だが、折角の面会だ。邪魔はすまい。
「イクタス・バーナバは長くはない面会時間の邪魔は望まない」
肉体を掌握しているイクタス・バーナバが無造作に俺の鼻先の蛙を掴み取れば、ぬるりとした液体の感触がした。蛙は俺の手の中にはいない。げろげろと啼く声がしたのは岩の上だった。アステールに降ろすよう促し、俺の肉体が自分の足で立つのは何やら妙な感覚だった。
仮面を外し、アステールは泉へと歩み寄った。跪いて覗き込むとようやくアガシアに向ける言葉を発した。俺達の肉眼にはアステールの表情は見えないし泉の中も見えないが、蛙と魚の目には見て取れている。アステールに歓喜の色はない。優しさと労わりだけを感じさせるようと懸命に振り絞った声がした。
「アガシア」
「じいや」
互いに呼び合い、短くない沈黙の後に聞いたのは善神の甘い声。ダラルロートが懐から扇を取り出し、閉じたまま持ったのが視界の端に見えた。蛙は両目を閉じて聞いている。
「じいや、会いたかった」
「声は届いていた」
「アガシアにもじいやの祈りが聞こえていた。じいやの祈りにアガシアは応えてあげられなかった」
「アディケオの神域から応えられない事は知っている」
「それでも応えてあげたかった、じいやにだけは」
エファの少年の声よりも更に柔らかいが、どこか似ていると思えた。アガソニアンの祖の声は美しく、アステールとアガシア自身への哀れみに満ちて響く。
「もはや救う事はできずとも、せめて信仰だけは捧げ続けよう」
「じいや」
アステールの耐えるような声は気の毒に思わなくもないがアガシアの自己憐憫に満ちた声音は不快だな、と思えばアガシアの金切り声がした。
「……ミラーソードさえ、ミラーソードさえいなければ! アガシアの子らは死ななかった、じいやを失う事もなかった!」
「嫌われたものだ」
俺の名を叫び、呪う声には一欠片の美しさもなかった。鼻で笑い飛ばせば、ダラルロートが音もなく手首を返して扇を持ち替えたのが見えた。魚の目が瞬き、俺の口を使う。
「返せ、ミラーソード! アガシアのじいやを返せ! アガソスを返せ!」
「アガシアよ、そのように呪えばミラーソードへの呪いをスタウロス公が受ける事になる。イクタス・バーナバの警告は二度目だ」
俺とてアステールと約束したアガシアとの面会の邪魔をする気はないんだがね。イクタス・バーナバの言葉が今度は届いたものか。アガシアの声が啜り泣きに変わる。泣いていてもアステールに向ける声には甘さと美しさがある。
「じいや、じいや」
「ミラーソードは好意を持っている相手にはそれほど苛烈な振る舞いはしない。交渉も通じなくはない。向けられた害意を増幅して返す鏡のようなものだ。呪われればミラーソード自身の憎悪を込めて跳ね返す。……だから、アガシア」
「呪詛返しよね」
父の小さな声。力で捻じ伏せる事が多いものだから実戦で使う機会には乏しいが、俺達の魔術にはそういう技もある。呪われれば俺の魔力を上乗せして返してやれる。ひょっとすると俺が鏡に例えられるのは無意識に呪詛返しをやっているのかもしれん。
「せめて、呪詛でアガシア自身を傷付けて苦しまないでおくれ」
「じいや」
「儂自身はミラーソードに対して価値を証明できる。そう軽くは扱われない」
……狂乱を抑え難く、アステールが宿っていた分体を暗黒騎士としての全力で殴り殺したのはつい先日なんだがな。俺はそっと視線を逸らした。
「アステール、アガシアの騎士。……アガシアのじいや」
「儂が儂である限り仕え続けよう、アガシア」
「アガシアがアガシアとして在る限りは声を届ける。愛している、じいやだけを」
「愛している、アガシア」
アガシアの声が聞こえたのはそこまでだった。ダラルロートを見れば認識欺瞞が強く、扇も既に懐へ戻していた。魚の目を通してさえ感情は読み取れない。愛されたいと言う渇愛の情はどれほどの偽りを重ねれば隠し通せるのだろうな。いついなくなったのか、岩の上にいたはずの蛙がいない。
「神子よ、愛している」
「もう、お母さんてば。僕も愛してるよ」
鏡の声から両親の声がした時、悪寒がするほど強い神威が泉から立ち昇った。泉が沸き立ち、蒸気が噴き上がる。異常を察したアステールが下がる。
「相変わらず醜き事よの、アディケオ」
俺の肉体でイクタス・バーナバが言い放ちながら前に出る。強過ぎる神威に耐えられない者達を庇うように。泉は赤く濁り、蒸気は俺を満たしているものの匂い―――腐敗の悪しき属性力を地獄の底めいて帯びている。