123. 湖上の声
「師は解っておられませんよねえ? 御所では殺し合いと喰い合いが御法度です。
アガシアの聖霊が飛び交う中、スコトスをあしらう程度の事ができないようでは論外なのですよ?」
「……アディケオの第二使徒と儂は相性がよくなかろうが、やらねばならぬ」
魂についての講釈はまだ終わっていなかったのだが、案の定と言うべきかエファから再度交代したダラルロートはアステールと激しい言い争いを始めてしまい講釈どころではなかった。母と父は鏡の剣の中で夫婦生活に熱心と見え、息子の俺は放置である。
見事に話し相手が魚の目の狂神しかいなくなってしまった俺は、仕方ないので大君の館からリンミ湖の上空へ飛翔と転移で飛んで来た。子分どもに餌でもやろうと思ってな。
漁の守護者でもあると言うイクタス・バーナバがダラルロートを介してリンミ湖に与えてくれた祝福の影響だろうか、冬の湖を泳ぐ俺の子分どもが平時よりも盛んに遊弋している。暢気者のジュエル スライムどもは湖へと水葬している遺灰を含んだ湖水を吸い、俺が定期的に振り撒く魔力を糧にしている。
欲深いミーセオニーズにはジュエル スライムが抱え込んだ宝玉めいた核を狙う密猟者がいる事はいるが、どんなに弱いジュエル スライムでもそこいらの無法者や冒険者の類に殴り勝つ程度には強いそうだ。暴走状態だったとは言え、仮にも俺が産み落としたスライムが一般市民に毛が生えた程度の連中より弱い訳なかろう? 同族意識も強く、傷付けられると同族を呼び寄せて反撃する。攻撃さえされなければ穏やかに暮らしているし、砂糖や糖蜜の塊を与えると小さな石片を吐き出す性質もリンミの市民には知られている。
濃い魔素を餌に、俺は湖水の中から大き目のジュエル スライムを一匹手繰り寄せた。鑑定すればレベルは12と知れる。俺の腹心で言うと司教ヤン・グァンがレベル12だ。魔女シャンディは先日やっとレベル10になった。大君代行ワバルロートでレベル14。俺自身はレベル30だ。
サイ大師が言う所の『長く下々と近しく接していれば遠からず狂気に陥り回復できない者が続出する』とは俺の腹心全てが対象と考えるべきだそうな。俺とても臣下を全てエファのように狂わせたい訳ではない。距離を置かざるを得ないだろう。
「撫でてやりたいが、俺が触れては同化してしまうのでな」
ジュエル スライムに言語を話す能力はない。親しげに擦り寄って来る半ば澄んだ生命体を理力術の不可視の爪先で傷付けぬよう掴み、湖水へと戻してやる。レベル15はある夏喰らいどもでさえ、俺が触れればあっさり同化してしまうのだ。レベル12ではすぐに萎んでしまうだろう。
俺は透けたものが苦手だと思われているが、スライムは例外だ。俺に恩寵と抱き合わせで幽霊恐怖症を植え付けた腐敗の邪神、大母たる祖母も同族を相手に俺を卒倒させようとは思わないらしい。
こうして独りで過ごす時は、餌でもやりながら子分どもの平穏な暮らしぶりを眺めるのもいい。俺が産んだ命にしては恐ろしく暢気なのだが、ジュエル スライムどものように水場で穏やかに暮らしたかったのかもしれないと思う事はある。
同じ俺の子分でも、ティリンス地方でミーセオ帝国と狂土エムブレポの国境を護りに徘徊させている夏喰らいの一族は仕事熱心だ。貪欲に夏の権能の産物である密林を喰らっては繁殖している。あれはあれで俺の側面なのだろう。
俺を鏡として写す者が誰もいないと落ち着くと言うのは皮肉な話だ。確かに引き篭もるのが本質的に好きなのは感じているが、母と父の声ならばいつでも聞きたいのだがな。鏡の剣は鞘に収めて腰に佩いているし、何かあれば反応してもくれるだろう。そう思っていた。
「ミラーソード」
湖水の上で魚の目が求めたので肉体を与えてやる。慈悲を感じさせる女めいた声が、俺が自ら名付けた俺自身の名を呼んだ。
「孤独を感じているのか」
「孤独と言うか……何なんだろうな。俺、図体がでかくなり過ぎたのかね。
手下どもを発狂させかねないと理解しろとアディケオの第一使徒に言われた」
「少々距離を離してはいたが、聞いていた」
喋っているのは俺の肉体だが、イクタス・バーナバと俺自身の声が入り交ざる。神降ろしを抑え込んでいた反動からか、酷く自然に受け入れてしまっていた。
「エムブレポであれば民の多くは狂属性だ。
ミラーソードが鬱々とする事なく民と交われる。帝国よりは気安く過ごせるのではないかな」
「そうかもしれんが、俺は魂洗いの秘儀を習わねばならんのだ」
「アディケオもミラーソードに一年を通じて帝国で過ごせとまでは厳命すまい。
デオマイアも狂属性だ。エムブレポでならば両親と愛娘と共に、気の向くように闊歩する自由もあろう」
イクタス・バーナバの誘いは俺にとって魅力的だ。狂属性の命にとっては俺の帯びる恩寵は心地よく感じられるだろう、とはサイ大師も言っていた事だ。娘のデオマイアには俺の持つ恩寵が危害を加えないと言うのもいい。
「アディケオは魂洗いの秘儀を欠けた魂を数多く抱えるイクタス・バーナバに渡したがるまいが、拒めばミラーソードはアディケオを敵視する。
焼け爛れた半身が煉獄と繋がるアディケオも地獄の公子との友好の必要性は理解しているだろう」
イクタス・バーナバによる肉体の掌握は穏やかで自然だ。母のような地獄の熱はない。祝福された湖水を渡る冬風に撫でられる肉体が神力に満たされ、イクタス・バーナバに対して開かれた経路をより強く根深いものにしようとするのを感じる。
「地獄の公子ってのは俺の婆ちゃんのせいか?」
「大母は強大だ。ミラーソードの魂を貰い受けたイクタス・バーナバに絶え間ない注視を向けて来ている。ミラーソードに憎まれればイクタス・バーナバは神格を失う事になる」
怯えだ、と気付いた。イクタス・バーナバは祖母を知っているような口振りだったが、土着神を睨めば恐れさせるほどの存在なのかよ俺の祖母は。父は主神ではないと言ったが、相当に上位の神なんじゃないのか?
「ミラーソード。デオマイアの為にもアディケオから魂洗いを赦されて欲しい。
イクタス・バーナバの子らは欠けた魂で生まれる。デオマイアもミラーソードと同様に欠けている」
「……デオマイアも俺と同じくらいしかないって事か」
肯定の意思を感じ、俺はアディケオとの会談に臨むのが少々怖くはなった。
魂洗いの秘儀を教える見返りに一体何を要求されるやら。ダラルロートの魂を返せと言われるだろうか? アステールの魂を寄越せと言って来るか? それとも契印と引き換えにアディケオの宦官となる事を免じられていた俺自身による奉仕だろうか。全て要求されてもおかしくないのではないかと思わされるものはある。
「ミラーソード、イクタス・バーナバは妻としてミラーソードに愛されたいのだ」
「魚とスライムってのは結婚できるもんなのか……?」
愛の告白に返す言葉としては間抜けに過ぎたが、それでも俺はぼやかずにおれなかった。俺は初恋の女性のようなスライムと番になりたかったのであって、尾がなく頭が二つある銀ぴかの魚の神を恋愛対象として考えた事はなかった。
「できるとも。永遠の夏の都で待っているよ、ミラーソード」
俺の返事を待たず、イクタス・バーナバは俺から離れて行った。魚が跳ねでもしたのだろうか、ぽちゃんと小さく鳴った湖水は初恋の女性との別れを思い起こさせた。