122. 公爵との約束
親子で愛を確かめ合った俺をアステールとエファが揃って見た。何だよ、照れ臭いな。
「ミラー、エファも愛してくれる?」
「苦しめはしないと言って契約しただろうに。望むのならば―――」
魚の目が俺を見る強さを感じ、肉体が高い笑声を上げた。サイ大師の術に支えられても神降ろしにはなっちまうな。
「イクちゃん、今は控えてくれると嬉しいな」
「昏き堕落よ、暗黒の腕よ、双頭より我が子ミラーソードの魂を我らに返し給え。地獄の血脈よ、我に助力を。我が手に戻れ、ミラーソード」
鏡の剣から両親の声が響く。母の祈りは暗黒魔法か? 死霊術は魂に触れられるとダラルロートに聞いていたが、支配魔法のようにも聞こえた。地獄の熱を感じ、母の手に強く引かれる感覚に身を任せた。そのまま全てを掌握される感覚は久し振りに味わった。凍えた凍土と地獄の熱を同時に感じると母の精神に抱かれていると安堵できる。
「……俺だよ、俺。アディケオの御前でこうならんようにはしないとならん。手間掛けさせてすまん、母よ」
「我が子を護る事が私の存在意義だ」
淡々とした声だけれど、俺を掴む意志の強さが母の想いを教えてくれる。支配魔法に支えられながら許された自由意志で口を開く。俺が動かそうとした肉体を母が同じように操っている、とでも言えばいいのかね。重なり合う意志を感じられる。
「エファも何か飲むか? それとも果物を創ってやろうか。今、口付けると母がそうするのと大差ないんだよ」
「エファはみんなを愛したいのだ、ミラー」
「ならば受け入れよ、堕落を注いでやろう」
立ち上がり、俺の前で愛を乞うエファに応えたのは俺と母の両方の意志だった。俺よりは背丈の低い肉体に口付けてやるのは自然にやれていいな。大母に注がれた恩寵を以ってしてさえ狂神その人の接吻にはまだ届かないのを感じもしたが、俺に注げるだけの堕落はくれてやった。
正しき善だった夏殺しには堕落では苦痛しか与えられなかったが、鏡護りは狂った善だ。己が善しとするものの為にならば道理と規則を軽視する。独善的と言えばいいのかね。若い肉体からは成長しきった個体とはまた違う味がする。少年らしからぬ陶酔と甘えの表情に俺は満足感を覚えたし、異能からの囁きも堕落の蔓延に満足げだ。
「強過ぎる愛の異能は腐敗を拒むであろうが、堕落を受け入れた鏡護りは愛しく思うぞ」
「うん、ミラー」
混ざり合った意志のまま言葉を発する。ああ、やっぱ気持ちいいな。俺、母に支配されるの好きだわ。しかし、少々やり過ぎたらしい。鏡の剣から剣呑な声がした。
「ねえ、お母さん。僕さ、ちょっと嫉妬を感じるんだけど」
「神子よ、私は共に在るではないか。支配はほんの一時凌ぎだ」
母の支配がふっと溶けるように消え、俺は少々寂しい思いをした。母の愛情の配分先として父には勝てんようだ。鏡の中では父と母が互いを構うのに忙しくし始めたようで、声が届かなくなった。……俺、初恋の女性みたいなスライムを見つけて今度こそは俺が一番愛しいと言って貰うんだ。
何か忘れている気がして畳敷きの室内を見渡す。ああ、アステールだ。堕落に酔ったエファがじゃれるのを片手で扱いながら座布団を移動させ、アステールの前に座り直す。あれだけ悪かった顔色がもう正常そうに見えるのはどんな意志の強さだよ。
「アステールは寂しかったりしねえの? 属性転向毒が欲しいなら母に頼んで俺が狂った悪になりさえすりゃ、よく効くのを創ってやれると思うぞ」
「……儂に毒は必要ない。アガシアに合わせる顔がなくなるのでな」
「そう、それだ」
ダラルロートは反対だと明言したが、アディケオとの会談はアステールとの約束を果たす機会でもあるのだ。
「忘れてはいなかろう、アステールがどうして俺に力を貸すと言って来たか。アガシアに会わせて欲しいと言って来たのは貴様だ。
アディケオとの会談の席はアステールがアガシアに近付く機会ではある。アディケオの寝所に幽閉されたアガシアが今どんな顔をしているかなど、俺は知らんがな」
「……卿は儂がアガシアに会う事を禁じないのか?」
禁じる、と言ってもなあ。俺はエファからのねだりに応えてやりながら言う。座卓の上に盆に満載の果物を創り出し、エファの好きそうなのを念動力の手で扱う刃物で剥いて小皿に載せてやる。果物も盆も小皿も刃物も全て俺が創った。
「会わせる事になるとは思うぞ。想像してみろ、アディケオを拒んでいる女が『じいやが来た』だの『じいやがいる』に『じいやに会わせて』と叫んで泣き喚いた時にアディケオがどうするかを」
「あは、アガシアなら言うね。アディケオに縋るのだ、じいやに会わせて欲しいって」
いい性格になったもんだと思うぞ、エファは。憎くて仕方なかったはずの赤毛が今は可愛らしいと思えるからな。
「アディケオ次第でじいやはアガシアに会えるよ。でも、じいやはダラルロートを納得させておいた方がいい。ダラルロートなら上手くアディケオを誘導してくれるから」
「鏡護りの全知は強力だぞ、アステール? じいやが大好きなエファの助言くらいは聞いてもいいのではないか」
アガシアが幽閉された後、隠れる君の御所に俺が出向くのは今回申し入れた会談が初めてだ。アディケオの不正と水の権能によって護られたこの上なく安全な隠れ家なのだが、アガシアのせいで俺が近付けない状況になってしまい長らく足を向けていない。
アステールは俺とエファの言動に傷付いてはいように、本気で自罰にしか関心がないのかね。俺達を咎めるような言葉は一言も発さず、ただ耐える様子で聞いていた。
「……ティリンス侯が言っていた」
夏殺しの名を出され、俺とエファは一瞬だけ互いの瞳の中に憎悪を見た。エファはすぐに蕩けたように笑い、俺はアステールに視線を向け直した。
「『スタウロス公もミラーソードの憎悪を煽ればいい』と。
好意を持っている間のミラーソードは大人しい幼児だが、敵意を持てば悪と狂気の権能が力を貸しミラーソードが望むように物事を動かすのだと。願いを叶えたいならばミラーソードが持つアガシアへの憎悪を煽れと……そうするのが互いにとっての早道だと言っていた」
……夏殺しの野郎は間違いなく鉄筋入りのクソッタレだ。なんだよそれ。俺は憎しみに任せて行動してねえと無能だとでも言いたいのか。
「あはは、間違っていない。エピスタタがエファをミラーに憎ませた理由なのだ」
「儂はティリンス侯を止めるべきだった!!」
「じいやは何も悪くない」
けらけらと笑う蕩けたエファの瞳に悲しみの色はない。俺に絡み付いたまま、切り分けてやった果物を食み始める。アステールが打ち付けた拳は上質の畳を抉りかねない打撃の重さを響かせた。
「……まあ、いいんじゃねえの。色々と否定できねえし。
望みが叶いそうな状況だが、抑えは効きそうかいアステール。ダラルロートさえ口説けたなら御所には最初から連れて行ってやる。説得に失敗したなら公爵の部屋で待機だ。どうせ呼ばれるだろうがね」
「やる」
アステールの答えは短かったが、決意の強さは感じさせた。
エファが咥えた桃の切れ端を覗かせて俺に顔を寄せて来たのを迎え入れ、そのまま接吻してやる。桃が甘いのかエファが甘いのかはっきりしないなりに、飲み込んだ液体からは堕落の味がする。この魂は俺のものだと教えてくれた。