121. 鏡護りの全知
交代の意向を受け、俺は両肩を晒して露にしている灰色の烙印に神力を通す。烙印の力を借り、ダラルロートの部屋―――桟敷のある河に入り込んでいるらしいエファを呼び出す。
「ダラルロート、エファに代わってやってくれ」
分体の交代を命じれば整えた長い黒髪をした中年男だったものが黒ずんで縮み、赤毛の少年を創り直す。大君ダラルロートは俺の中に戻り、代わりに表出したのは鏡護りエファだ。
「じいやのバカ!!」
開口一番、エファは座布団に着座していたアステールに抱き付くなり詰った。アステールはダラルロートの前では引き締めていた表情を維持せず、幼子を前にした老人の顔を作ろうとした。
「……ダラルロートが言った事に関しては確かにじいやが悪いのだ。儂にはそなたらから謗りを受ける理由がある。正しい道に戻してやれなかったダラルロートからも、守ってはやれなかったエファからも」
「バカ! そうじゃない、じいやは違うのに!!」
エファは二十にもなっていない少年のように見えるのだが、実際にはそうじゃない。1歳の俺よりもなお幼い魂だ。だが最後の夏殺しから受け継いだ愛とティリンス地方に対する全知の異能を宿し、俺の守護者だと言う鏡護りの力を持ってもいる。
鏡護りは己の宿敵を第一位から第三位まで三つ定めるのだが、エファが宿敵として宣告しているのはミラーソードの敵、リンミニアの敵、そしてじいやの敵だ。エファはアステールをじいやと呼び、一番懐いている。おそらくミラーソードの敵にしてリンミニアの敵であり、更にじいやの敵でもある存在はエファを前にしては何もできずに射殺される。アディケオとミラーソードを宿敵として宣告していた夏殺しが、アステールと俺を瞬殺したように。
「責めないでと言ったのに。どうしてじいやは自分を責めるの」
「堕落しても根っからのおじいちゃんっ子なのよね、エファは」
父がやや呆れ声で言い、俺にも念動力で茶を淹れて差し出して来たのを有り難く頂く。父がアガソス流に淹れてくれる茶は茶で美味い。アガソスの茶芸は本来はアステールが有していた技術だが、父と俺はアステールから引き出して借りている。ダラルロートは長い事幾つかの技術を隠して隔離していたが、封を緩めたのか幾つか借りて来れるようになった。今ならミーセオの茶道をダラルロートから借りる事もできる。一体どうやって隠していたのだろうな? 魂には俺の知らぬ謎が多い。
「責めてはいないのだがな」
「でも、じいやはいつも じいや自身は救おうとしない」
「全知持ち相手に隠し事は無謀だと思うぞ、アステール」
一言だけ言い、アステールに縋り付くエファを老いた手が撫でてやっている様子を眺める。亡国アガソスの公爵にして善神アガシアの第一使徒だったアステールは長く生きただけあって意志が恐ろしく強く、隠し事をされれば到底俺の手に負えるものではない。
「じいやも救われるべき魂なのに」
「そんな事は……」
アステールが反論し切れずに絶句する相手などエファしかいまいよ。魂、と言う単語に解らん事だらけだと口の中でぼやく。アディケオが秘儀にしていると言う魂洗いはどんな業なんだろうな? 水の権能の小権能の一つで、俺の母の魂を救い得る手段だとダラルロートが言っていた。
「エピスタタとエファの事も、アガソスの王女をアガシアの花のいる部屋に幽閉した事も、じいやはずっとじいやを責めている。じいやのせいではないのに」
アステールの顔色は最早蒼白だった。罪の意識がよほど強いのだろう。
何百回と殺せる強さの毒やら酸でアガシアの花に守られた王女を殺そうとした暗黒騎士ミラーソード本人としては、何とも口を挟み辛くはある。最後の契約者だった王女を排除せねばアガシアの契印を奪えなかったのでな。
「その男は自罰が過ぎて己自身を愛せなくなっているのだ、鏡護りよ」
「エファも知っている。じいやがじいやを許してくれないのだと」
鏡の剣から淡々とした声で母が言い、魚の目の注視を向けられながらエファもそう言った。アステールの意志は強固だが、強過ぎて自分自身を許せないと言う事かな。俺には理解し難い心情だ。
「アステールほど有能な副官はいないのだがな。
堕落してしまえば楽になれように、私の誘いを受けようとはしない。我が子の中に囚われながらも高潔さを保った魂だ」
「お母さんが善属性のアステールを褒めるなんて正直、意外よね」
母なりにアステールを案じてはいるらしい。ダラルロートが言っていたようにアステールの魂には高い価値があるのだな、とは認識する。
「罰欲しさにイクタス・バーナバに魂を売る気ならば、止すがいい」
感情を感じさせない平坦な声だが、母はアステールに言う。思い直せと。
「疑うならば鏡護りの全知に問うがいい。三つの魂に分割された貴様が何をさせられているかを」
「……暗黒騎士殿は何を知っている?」
「鏡護りから全知を借り、断片的に覗き見た未来を」
母は俺の知らぬ間に何をしているのだ。エファは俺の中にいる全ての人格に触れたいと言っていたが、母とも接触していたのか? 全知は俺との相性が悪過ぎるものの、生かせれば強力無比だ。ティリンスに関わる事なら過去も現在も、未来さえも識る。未来は変わる事があるそうだがね。
「アステールが魂を裂いた先の未来に私は存在していないらしい、と言う事情もある」
「……詳しく聞いても?」
なんだと!? 俺の方が堪り兼ね、反射的に立ち上がった。
「お母さんてば、いつの間に」
「母よ、そりゃどう言う意味だ!?」
「言葉のままだ。アステールが二度の魂裂きを受け入れた場合、私と神子は破壊されるか何かして存在できぬようだぞ。この説得は私自身の為だ、アステール。貴様への善意からではない」
アステールは瞑目し、気遣わしげに見上げるエファの背を撫でながら何やら考え込んでいる。母と父が失われるかもしれないと言われて俺が採るべき行動なんぞ一つだ。
「アディケオとの会談の前にずらかるべきなのか? アディケオに無理矢理にアステールを召し上げられたらどうもならんぞ」
「落ち着きなさい。お母さんの魂を治す為にはアディケオへの忠節は必要よ」
「しかしな、父よ……」
母が失われるかもしれないと考えるだけでも辛いのに、母と父の両方がいない未来の話など俺は聞きたくないし実現させる気もない。なんだ、一体何だ!? 祖母が俺に教えてくれようとした事の意味とは一体何だ? 欠けのない魂を持つダラルロートとアステール、欠けのある俺達親子とエファ。
「アステールの魂は非常に価値が高い。裂かずに温存させるべきだ、と説けば無理に裂く方向には行くまい」
「そうだぞアステール、182年ものの完全な魂なら大事にすべきだ。違うか! さもなきゃ殺してでも止めるぞ俺は」
母の尻馬に乗って俺も言う。母が全知を試していたなんて知りもしなかったが、とんでもねえぞ全知。ティリンスに関わりさえするなら本気で全知なのかよ。
「ミラーソードよ」
「なんだ、アステール」
仮面を外したアステールの眼光をまともに受ける機会はそれほど多くなかった。俺を射抜いたのは威厳ある老公爵の視線だった。
「魂裂きでない何らかの提案が行われた時、儂が受けても問題はないのか」
「じいや」
エファが耐え難い様子で震え、アステールにより強く抱き付くのをイクタス・バーナバの魚の目が見つめている。
「提案によるとしか言えんが、魂裂きほど断固反対かつ絶対無理って訳じゃねえかもな」
俺の答えに威厳がすっとかき消され、泣き出しそうなエファに向ける顔になった。雰囲気から何から別人だ。
「そうか。……エファ、そんな顔をしないでおくれ。じいやはせめてエファを嘆かせたくはない」
「エファはじいやにはじいやを愛してあげて欲しい。許してあげて欲しい。……今すぐでなくてもいいから」
アステールがエファに向けた愛情はエファの渇愛を幾らか満たしたようだが、エファが欲しがっている愛は少々厄介なもののようだ。アステール自身の自愛。
「愛してるよ、母に父よ」
「ああ、我が子よ。そなたを愛している」
「最近のうちの子は愛の大安売りよね……。でも、お父さんも愛してるよ」
無意識に口を突いて出た言葉に母と父は応えてくれた。俺は何としても母を癒す秘儀をアディケオに習わねばならない。エファを宥めるアステールを見下ろし、俺は大母とアディケオへの祈りを胸の内で捧げた。