117. 硝子の剣
目が覚めた場所はリンミの大君の館のどっかだな、とは解った。時刻は真夜中を過ぎたくらいかね。
寝かされていたのだろう寝台で半身を起こし、両肩から実体化して翼状になった灰色の烙印が俺を包むように護っていた。翼の内側には華美な鞘に収まった鏡の剣。
「ミラー、意識が戻ったね」
「我が子よ、どうした? 我らが神の神力が烙印に走ったのは感じられたが、長く意識が戻らなかった」
ああ、父と母の声がする。
まずは明らかに残りの少な過ぎる両親に話せって事だな? ありがとうよ、祖母よ。これだけ親切なら間違いようがねえ。流石の俺でも寝直さないぜ。
「婆ちゃんが俺を呼び出してたのさ。母よ、魂裂きの事で無神経な話をして済まなかった」
「突然どうした」
激怒と愛情の他には多少の困惑を見せる程度に情緒の乏しい母。今も口調は淡々としていて感情は読み取り辛い。だが母なりの愛情だ。
祖母が教えてくれたのは明白な母の危険さだった。魂が破滅する寸前しか残っていないなんて俺は知らなかった。父がそれらしい事を口走った事はあっても、俺は問い詰めさえしていなかった。
「婆ちゃんが警告して来たんだよ。神託って奴だ。母の魂の残りは十分の一しかない。欠片一つでも失ったら砕け散って破滅する恐れがある、ってな」
「知っている。破滅せずに捧げられる限界まで魂を捧げて加護を願ったのは私自身だ」
母の声は落ち着いていて、いつもの母のように聞こえる。そんな母を俺はアステールと共にサイ大師が求めるままに貸し出していた。強く美しいが、とても危うい母を。俺は強い母しか知らなかった。
「俺らに今知らせて来たって点が重要なんだと思うぜ、偉大な先達よ。絶対なんか魂絡みで厄介な事が起こる。そう理解していいな、父よ」
「あー……そうね。かーちゃんも曾孫の父になった孫は可愛いと見える。間違いなく何か起こるわ」
父が軽い調子ではあるが思案する様子で返事をした。占術でも使い始めたか。
「父の魂も相当な危険域だ。五分の一に満たない量しかねえとはどう言う事だ?」
「そんな事まで教えたのか、かーちゃんは!」
父は軽い調子で怒って見せたが、より深刻な怒り声が響いた。母だ。
「神子よ。そなたは私の魂の残り少なさを契約に値しないと詰ってくれたが、私とさほど変わらぬ程度しか留めていないようではないか」
「だってお母さんは僕の魂の総量なんて知らなかったじゃない。君よりは多いよ、嘘は言っていない」
俺は息を吐く。軽くでいい、水と食事が要る。変成術で望みのものを創造し、粗く絞った複数の果実の絞り汁を注いだ硝子の杯を手にする。ひとまずはこれでもいい。美味い。……でも俺、混合果汁なんて創造できたっけかな。今できたのだから、できるのだろうが。祖母の囁きだろうか。お婆ちゃんの知恵袋とか言う奴。
「二人とも危険域だ。一つの魂が誕生時に100だとして、残り10も20足らずも大差はねえよ。俺も40ちょいしかないそうだ」
「そこまで教えたのかよ、かーちゃんめ。碌な事しないな」
「神子よ、私はそなたと話し合う事が随分と多くありそうだぞ」
鏡の中の世界では小声でもっと言い争っているのではないかと思える父と母。そうだ、鏡の中には小さな世界がある。俺の精神世界にも俺が命を喰らった者の住まう世界がある。……俺は何となく創っていたが、創造の異能の産物だ。創造の大権能の……小権能としても創造か? レベル30になってもまだ理解が及ばんのか。大母の四つの異能。腐敗、堕落、増殖、創造。顔を知らぬ祖母は扱いを覚えろと言って来たのだ。だが、何の為に?
「なあ、父に母よ。腐敗の邪神は異界では大母と呼ばれているそうだな。
増殖の権能を司り、小権能として増殖、誕生、再生、繁殖、分裂、交合、懐妊、出産、安産、多産、繁栄を持つ大母と」
「そうよ、間違っていない」
父が肯定してくれた。凄まじいまでの強力な権能だと言うのに、あっさりと。小権能の数がまず異常だし、小権能と言いながら大権能でもおかしくない代物がぞろぞろと揃っている。俺、雌よりも雄でいたいんだがな。
「婆ちゃんはアレか、異界の主神かなんかなのか? 幾らなんでも強くねえ?」
「そこまでは行かないよ。でも強力だ。かーちゃん当人はスライムではあるけれど、捧げ物を喰らって命を産みたい放題に産み散らして歩く大いなる雌さ」
「その言い方だとすげえ化け物に聞こえる」
父と俺の頭の螺子が緩めの会話の中、母が口を開いた。
「偉大な神だ。地獄に堕ちていた私に魂と引き換えに多大な腐敗と堕落を吹き込み、我が子の肉体を我が物にできるほどの力を貸し与えて下さった。……何の疑問もない小権能の多さだ」
「そうか。そんな婆ちゃんからの警告だぞ、俺らどうすりゃいいのだ?」
力ある邪神が俺に警告を寄越し、しかも目覚めの直後に家族を揃えて来た。流石に出来過ぎだ。またノモスケファーラの手先にでも襲われるのか? 烙印の翼に漲る異能の強さに今更ながらに気付き、俺は翼を動かしてみる。なんだよこれ、昨日までに扱えた力とはまた格が違うんじゃないのか。一体何をさせる気なんだ祖母よ。
「……エファの力を借りるべきかもね。鏡護りは君の守護者だ、ミラー。ティリンスにいれば全知で護り、ティリンスの外でも多重指定した宿敵を討つ力で敵を滅ぼすだろう」
「鏡護りは有益だが接近戦に不安がある。私かアステールを同時に出せ、ミラー」
「差し当たってはそうすっかな。でもよ」
鞘から鏡の剣を抜き取る。鏡の中の世界を覗き込めば父の住まいと母の住まいが建っている。五分の二しか残っていない俺の更に半分だの四分の一と言う危うい残量の魂しか持たない両親の住まい。紆余曲折と数え切れない俺の卒倒を経てようやく暮らし始めたばかりなのに。
「俺、母と父を失うような事だけは全力で逃げ隠れてでも避けるからな。
なんだよ、十分の一しかない魂って。そこまでして蘇ったのか、母よ」
「あくまでも大事なのはお母さんなのね……」
父の呆れ声は聞こえていたが、俺は無視した。いいんだよ、俺に必要なのは俺の血族であって他人ではない。俺の中にいる者は身内に含めてもいいが、でも一番大事なのは母だ。たったの十分の一ではただ一度の過ちすらも許されない。強大だが、一欠片でも失われた瞬間に砕け散りかねない硝子の剣めいた魂。
「母さん」
「魂に《非破壊》が刻めるなら良かったのだがな。我が子が造ってくれた戦槌のように」
母の声は感情に乏しいけれど、俺には愛を感じられる。