116. 地獄の深海
意識を持ったのは来た覚えのない領域だった。
俺の奥底から繋がっていたのは間違いないが、母が天幕を構えていた地獄よりも更に遥か下方だ。腐敗と堕落が色濃く、俺の目には眩しい。眩しい程度で済んでいるのは俺の腐敗と堕落への親和が進行したからであって、今漂っている深みまで降りて来られる存在は稀だろう。俺も来る気はなかったのだが、誰かに招かれたか?
肉体はない。煮え滾りながら凍えて砕けるものを海水と呼べるのなら海の底だ。本来あるべき大きさの五分の二ほどしかない魂を自覚し、俺は訝しむ。俺の魂は残り二分の一ではないのか? 思索し、イクタス・バーナバの双頭の印で分割されたのは完全な魂ではなかったのだと理解する。分割される前はだいたい五分の四だったのだろう。
「なあ、婆ちゃんや。何しに孫を呼んだ?」
こんな領域から俺を呼ぶ存在など一柱しか知らない。俺と母は腐敗の邪神と呼んでいる神だ。俺が生まれた世界の土着神から聞いた話では、増殖の権能を司り交合や出産を守護する大母だそうな。異界から召喚されて父を産み落としてすぐに立ち去ったとだけ聞いていたのだが、イクタス・バーナバは詳しく知っている様子だった。
呼び掛けに応えはない。俺は大母の神域に程近い地獄の深海で祖母の意図を感じようとした。俺に授けられた腐敗と堕落と増殖と創造の異能を呼び起こし、権能に対して足りていない理解を得ようと試みる。
得られたのは増殖の大権能についての理解だった。増殖は魂を宿した命を産み出す。小権能は増殖、誕生、再生、繁殖、分裂、交合、懐妊、出産、安産、多産、繁栄……今の俺に認識できるのはそんなものか。そりゃ『子を成せ』と契約を強要された時に俺が産む気になるわな。明らかに女神が持つ権能だ。男性寄りの人格で振舞っている俺には『よく解らぬもの』として血の中に埋没していたのも無理はない。大母と言う単語が開け方の解らなかった引き出しを開けさせてくれた。
「おーい、婆ちゃん。教えたい事はこれだけかあ?」
呼び掛けてみても祖母は応えないし、まだ俺の意識は覚めない。神降ろしは予想よりも重い消耗を強いられたかね。俺が考えていたよりも小さな魂で海を漂い、濃い腐敗と堕落が魂を浸すのを心地よく受ける。引き篭もるのが正直な所大好きなミラーソードとしてはずっとこうして漂っていたいが、そうも行くまい。堕落の波に含まれた微かな邪神の導きに耳を傾ける。
「……これ、皆の魂の残りか」
母の魂は残り僅か十分の一。父の魂は五分の一足らず。エファは二分の一よりも少なく、ほぼ五分の二の俺よりは少しだけ多い。欠けのない魂を持っているのはダラルロートとアステールしかいない。もし生誕時の十分の一未満しかなくなった魂は砕け散って破滅する危険がある。魂が尽きたなら確実に破滅し、次の生はない。そう祖母が教えてくれた。
「婆ちゃん、どうしてこんな事を教えてくれる? 魂の残りを知っていなければならない事がこれから起こるのか?」
誰が危ないかと言えば間違いなく十分の一しかない母だ。砕け散る寸前ではないか。俺の愛する大切な母。ただの一欠片さえも誰にもくれてはやれない。魂裂きを警戒し、嫌がるのは当然だ。母は危険性を自覚している。それでも腐敗の邪神がこうして招いてくれた事にはおそらく何か意味がある。
俺は祖母の好意の意味が解らぬなりに腐敗の邪神の聖句を唱えた。
「捧げよ」
俺の小さくなった魂が腐敗と堕落に溶けようとする。
「然らば与えられん」
短い聖句だ。俺の魂が腐敗と堕落に洗われ、増殖と創造の胎動を感じた事は覚えている。