101. 鏡写しのミラーソード
―――連日の苦痛と苦悩に我慢ならなくなり、俺は全ての作戦行動を中断して時間を割く事にした。
「俺は暗黒騎士だぞ!! 悪属性なしに勤まると思ってんのかエピスタタの野郎!」
ティリンス地方での奪回作戦なんぞ正直どうでも良い、やりたくねえと言う態度を隠さない程度には俺は荒れていた。エピスタタの手でアガソニアン神族など混ぜ込まれたせいで俺はレベルこそ25からレベル28に跳ね上がり、分体を二体同時に活動させても俺自身のレベルを24に保てる程度には強化された。
だが、頭の中のクソッタレな雑音と不協和音をどうにかせねばアディケオの下命に背く事になろう。エピスタタには逆らいたいしどんな小さな隙を見つけてでも速やかに殺してやりたくて仕方ねえが、アディケオへ捧げている信仰を揺るがせる理由にはならん。俺は分体を二人引き連れ、大君の館の中を移動していた。
「だが悪への回帰を望むのは殊勝な心掛けだ。私も手を貸してやろう、我が子よ」
「母の言葉が今日は素で頼もしいよ、俺は」
名を喪った聖騎士―――俺の母だ。名がない為に臣下には暗黒騎士殿と呼ばれる事が多い。母が暗黒騎士ミラーソードと名乗る事があるのは許容しており、母が俺を演じている間は俺は副官の魔術師ミラーソードを演じる。二人のミラーソードは髪の色がほんの少し違う以外は鏡写しだ。荒れている金銀混淆の方が俺で、物静かさを装っている金一色の方が母だ。解り易い違いはそれしかない。
「公称は以前から中立にして中庸なるミラーソード様だったではないですか」
「魔術師としては中立にして中庸の方が接触できる属性が増えるから、と言う理由で詐称していたに過ぎん! 中立にして悪から転向させられてからこっち、俺の頭の中がどれだけひでえ事になったかダラルロートは知らん訳じゃあるまい!」
「ミラーソード様の神経のささくれは引き抜いて差し上げたく存じます」
機嫌の悪さを隠す気がなくなった俺は大君ダラルロートに心情をぶちまけた。俺が支配するリンミニアの統治者で、長い黒髪を丁寧に梳いて整えたミーセオの血を感じさせる男だ。今日の俺はダラルロートであっても縋るぞ、属性転向さえ対処すればこんな不快感とはおさらばできると信じている。
「効く事は効くはずだ、そうだな?」
大君の館の奥に俺がダラルロートに命じて用意させたものは、かつて俺が作った悪属性への属性転向毒だ。悪属性ではない者にとっては毒だが、促す声に応えれば直ちに悪属性へと転向させ幾らかの恩恵を与える。肉体は壮健になり、精神は高揚し大胆に振舞うようになる。毒の方が濃い勢いで水溶液を作り、杯に注がせた。
「どうぞ、お試し下さいませ」
中庸の身に苦痛があるのは解っていた。俺は一息に毒杯を呷り、染みるように響く転向を促す声に応える。受け入れさえすれば苦痛は直ちに終了する。……しねえな。きついままだ。
「……ダラルロートよ。俺は極力古い在庫から持って来るよう命じたが……。転向しようとしているにも関わらず効かんようだ」
「鑑定の結果も中立にして中庸のままですねえ。より濃い原液で飲用されますか」
ダラルロートが用意した次の杯を呷り、苦痛に耐えながら転向を試みたが上手く行かない。中庸なんてクソな属性からは悪に戻りたいのだが、何かが邪魔をしている。
「俺自身の毒耐性のせいかもしれん。ダラルロートに母よ、やれ」
「では涼み袋の一節でも」
「ぁああああ!!」
「抵抗と耐性が剥げている間に飲み干せ、我が子よ」
単語だけでお化けの話をされたと理解した俺が理性もへったくれもなく叫び出したのを母の手が力強く捕らえ、抉じ開けた口から転向毒を注ぎ入れてくれた。母に振るわれる暴威がこんなにも心地よかった事はない。
俺は個人としては強大な武力と魔力の引き換えとして狂神の祝福を授けられており、背負わされた弱点は超重篤な幽霊恐怖症だ。世間では幽霊とは呼ばれないような手合いに対してもすら反応する弱点は俺の単独行動を困難なものにしている。だが、全ての抵抗と耐性を剥ぎ取られる恐怖症の影響下であれば俺は転向できると踏んでいた。生まれて初めて幽霊恐怖症が俺にとって有益な働きを―――
「……これでも効かねえだと……?」
しねえ!! どうなってるんだ。俺は悪属性に戻りたいんだぞ!?
「手強いですねえ」
「善神の神族の血とは実におぞましいものだな」
ダラルロートは中立にして悪、母は狂った悪。共に悪属性の二人ですら俺の人体実験の結果に引き気味だ。一体どうなっている?
俺は今の自分に創造できる悪属性への属性転向毒を産み出してダラルロートに鑑定させた。俺では占術の結果に対して要らぬ主観が混じってしまい、判断が鈍る恐れがある。ダラルロートに任せた方が確実だ。
「どうだ?」
「……依然として悪属性への転向効果は持っていますが、属性力が弱いように思われますねえ。作成者であるミラーソード様自身が悪を帯びていない為だと思われます」
「俺が悪属性への属性転向毒を生成できなくなった訳ではないが、属性の力が衰えてやがるんだな。エピスタタめ!」
散々詰っているエピスタタと言うのはつい先日、俺を殺してくれた男だ。俺は殺害の下手人であるエピスタタの手による蘇生と引き換えで下らない不愉快な契約を押し付けられた。殺す、必ず殺してやる! 他のどの案件よりも優先して忌々しい夏殺しを殺してやるぞ!! エピスタタさえ殺させてくれるならば、どのような狂神だろうが悪神だろうが片っ端から全て崇めてやる覚悟だ。
「二人のどちらでもいい。エピスタタの野郎を殺す機会があれば殺せ。いつでも構わん。アディケオの御前だろうが、イクタス・バーナバとの戦闘中だろうとも俺は一向に構わん! 一度と言わず最低でも十桁は死ねるだけの打撃でも魔術でも喰らわせろ!!」
激情に任せて叫べばダラルロートは愉しげに、母も母なりに愉しげに笑った。
「もちろんです、我が主よ」
「我が子の厳命とあらば否はない。その怒りと憎悪を決して忘れるな」
「当然だ! 植え付けられた善性の囁く雑音になど屈してたまるか!」
俺を含めたこの三人でなければこんな話はできんのでな。今回の俺の精神的な失調に関して父は今ひとつ頼りない。俺の父は帯剣の鏡の剣に宿る魔術師なのだが、属性が狂った中庸の父は俺も中庸の方が都合がいいと考えている節がある。
『魔術師なら中立にして中庸が最善だとは思うよ?』
『父よ、俺は不快で堪らんぞ! 苛立ち紛れに目に付く端から命を喰らい殺してやりたくなる!』
『そのうち慣れるんじゃないかなあ』
父の暢気で適当な口調にさえ苛立ちを感じる有様だ。早急に対処せねば俺は本当に気が狂う可能性がある。
「ダラルロートよ、打ち合わせ通りに改悛も試そうではないか」
「そうですねえ。属性転向毒が効かなかったのですから致し方ありません」
俺の思索をよそに母とダラルロートが言葉を交わし、俺を見た。二人とも、悪属性ではない愚か者を見下ろす酷薄そのものの視線だった。
母が言う改悛とは退魔術に分類される祈祷の一つで、対象を属性転向させる術式だ。神聖魔法なり暗黒魔法として、ある特定の属性へ転向する術式を授ける宗教も多い。
「来い、我が子よ。改悛の祈りを捧げるゆえ我らが神に慈悲を請うがいい」
俺は母に抱き寄せられ息もできぬほど締め上げられ、骨の痛みとどこからとは断定し難い出血を感じた。抵抗する意志は最初からないのだが、母は生贄を痛め付けねば気が済まぬと見える。
「―――その日の晩はとても暑かったので、騎士は涼み袋を二袋開けてみました」
「うわあぁぁぁぁ!!」
ダラルロートが読み上げ始めたのは俺の恐怖症を喚起する与太話集だ。
同時進行で俺を締め上げる母が祈りを捧げ始めた。俺達の血統の源泉、異界より訪れし腐敗の邪神に捧げる祈りだ。頭の芯の部分では二人が何をしているかよく解っているのだが、俺の肉体は怯え切り、精神は恐慌の真っ只中にある。
「偉大なる腐敗の権能よ、腐らせ堕とす至上なる堕落の権能よ」
「一袋目からはミーセオの薄絹を纏った女人のような半透明の雪霊が姿を現しました」
「ぐっ……うぅ……」
「我が身と神子と我が子を産み落としたりし偉大なる我らが父にして母よ」
「二袋目を騎士が開ければ、可愛らしい透き通った氷のような雪兎の精が姿を現しました」
「……はぁ、はぁ……」
「迷える我が子を正しく腐敗と堕落の奈落の奥底へと誘い給え」
「雪女と雪兎は声を揃えて言いました。『やあ、解放して頂けるのですね』」
「くっ……」
「諸悪と狂気の源泉より顕現し、御身の尊い神力を我が子に注ぎ入れ給え」
「『お礼に一つ、この暑いお部屋を涼しくして差し上げましょう』精霊達は薄く透けるように輝く霊体を雪の結晶と共に舞わせて一晩舞踊り、精霊らを解放した騎士に報いました」
父が語った涼み袋はこんな綺麗な話じゃなかったはずだ、と芯の部分にいる俺は思ったが表層意識はもっと悲惨な思考をしていると思う。何しろダラルロートに幽霊恐怖症を刺激されながら、母からは貪るように接吻されて邪で暗黒に満ちた狂属性と悪属性の神力を注ぎ込まれているのだから。ああ、ようやく頭がすっきりした気がするぜ。
「属性はどうなった、ダラルロート」
「ほう、少しは正気を取り戻したように見えるぞ我が子よ」
「狂った悪に傾きましたねえ。成功と考えてよろしいのではないでしょうか」
「よし!!」
俺は拳を握って快哉を叫んだ。
「中立にして悪へ戻して欲しかったが、狂った悪になったのはこの際もう構わぬ。
母と完全に同属性ならば良いではないか! ……ははは、素晴らしい開放感だ! やはり暗黒騎士としての俺は悪に回帰したかったのだな!」
「そなたの救済を望む祈りが我らが神に届いたのであろう」
俺と母が喜び合う前で、しかしダラルロートが顔色を変えた。
「我が主よ」
「うん? どうした、ダラルロート」
「……私では抵抗できません。私の意志に拠らず御前を辞す事を御許し下さい」
辛そうに目を臥せて詫びるダラルロートに嫌な予感が背筋を走る。母は俺を庇うようにダラルロートとの間に立ち塞がろうとしてくれたが、そいつがダラルロートに委ねていた分体を掌握して俺に触れて来たのは僅かに速かった。
「俺に触るな、アガシアの餓鬼が!!」
「ダメだよ、ミラー。どうして戻ろうとするの。優しいミラーに戻って?」
赤毛の少年が注ぎ込んだのは母が注いでくれたよりも酷く強い神力だ。総毛立たんばかりの愛の権能の不快感が俺を襲い、俺が難儀して転向したばかりの属性を狂った悪から中立にして中庸などと言うおぞましい属性へ復元させようとする。
「させぬ」
母が波及する被害を無視して戦槌を振るい、赤毛の悪魔を打ち払おうとしてはくれたが……ああ、母でさえも俺を救えないのだ。忌々しい、本当に殺してやりたい。
「ミラー、ミラー。エファって呼んで?」
「……?」
ミラーソードとしての人格の奥底に潜む俺としてはがっかりだよ!! 今日もまた失敗か! 属性転向を試みると必ずアガシアの血統を引く餓鬼が邪魔をしやがる。母の姿をしていた分体も強制的に姿を変えさせられてしまった。
「じいやとミラー。エファにもお話を読んで?」
「じいやは暇だから良いが、ミラーソードは多忙かもしれぬ」
……アステールよ、まずは貴様を腐敗と堕落の奥底に沈めねばならんのかね? 金髪の暗黒騎士の形をしていた分体は今やくすんだ白銀の甲冑を着た老騎士に姿を変えてしまっている。エファと呼ぶよう強制して来る赤毛はアステールをじいやと呼ぶ。ダラルロートが読み上げていた冊子を拾い上げ、読めとねだっている。
「ミラー、ミラー。名前で呼んで?」
「エファ、俺は何かしていたはずだ。その本ならアステールに俺がいない所で読んで貰え」
「……ちぇ」
―――どうも最近、俺は情緒が安定しない。記憶が時々吹っ飛ぶと言うか、俺が二人か三人いるような錯覚を覚える事がある。一緒にいたのはアステールとエファではなかったはずなのだが……。善神アガシアの眷属のような二人は仲が良く、一緒にいる機会を多く見るのは特に不自然な事ではない。
室内はエファが拾い上げた薄い冊子が一冊落ちていた以外は特に何もなかったように思うし、俺自身にも体調の異常はない。疑うと直近に癒しを受けたような感触がある、か?
「父よ、俺の予定は知っているか?」
「ミラー。ダラルロートと外壁の拡張工事の打ち合わせをしたでしょ」
「……覚えがないぞ。適当言ってないだろうな」
「ミラー、口許は拭え」
何なんだ、俺はついさっきまで酷く怒っていたような……? 母の声に指摘されて気付かされた、唇に残された接吻の感触だけが俺にとっての現実感だった。俺は中立にして中庸なる暗黒騎士ミラーソード。……そのはずだ。