10. 湖の街リンミ
街への訪問は聖句の御札を絶対に手放さないよう身に着けた上で極短時間で済ませ、長居はしない。長距離転移で街へ出向くのは太陽が天頂近くにある白昼からきっかり一刻。そして出掛けた時と同じく長距離転移で帰還する。俺と鏡が転移先として選んだのは青々とした湖水を湛える湖畔と大河に接続する街を見下ろせる山麓部だ。街までは術で少々飛ぶ。
街の名はリンミと言う。運輸と商業が活発な取引に適した街は商業都市としての立地が良い。流入する民の多さから治安は然程よろしくない。おそらく汚職が横行しているのだ。地域の中では際立った経済の要衝。隣接するどの国家であれ欲しがる理由しかない為、高い城壁で堅牢に身を守り士気の高い軍が常駐している。
……俺が都市部では白昼にしか行動しない理由など決まり切っていよう? あの胡乱で許し難く恐ろし過ぎる禁断の存在が活性化するのは夜間であるとされているからだ。実際には陽光を理由として退いてくれる手緩い手合いは多くないとは知っているが、そんな不都合な話を俺は聞きたくない。
俺はいわゆる退魔術を最上級まで扱える。聖句の御札は特別製の術具だ。俺が自ら絹布を創って聖別し、徹底的に聖別した銀糸の最も善い部分を厳然たる眼で選び抜き、祓いたまえ清めたまえと祈りを刻み込んだ聖銀の針でもって、一昼夜を費やして奉じる邪神の聖句『捧げよ、然らば与えられん』を刺繍した。
御札を身に着けている限りにおいて奴等……口にする事さえ憚られるあの恐ろしい手合い……の眼から俺を覆い隠した上で近付けさせない聖なる加護を籠めている。完璧ではないとは鏡にも警告されているが、退魔術の産物として御札を縫い上げるのが俺に許された精一杯の努力だった。
名を知られざる異界より訪れし腐敗の邪神にして我等の父。俺の恐れの対象を全て腐らせて滅ぼしてくれるよう、俺は常に心のどこかで邪神に祈っている。この祈りに関してだけは世界の誰よりも真摯に願い奉っていると言う確信がある。
聖句の御札よりは重要度が下がるものの、対占術防御の護符も身に着けている。俺を鑑定されれば魔性や妖怪の類だと露見するので占術防御は必須だ。本来は中立悪なのだが、属性鑑定に対しては中立中庸を欺瞞情報として与える。正狂善悪の四属性への気質の傾倒は扱える魔術の範囲に影響を及ぼす為、魔術師の属性としては中立中庸が好ましいとされる。
もしも占術を扱える者が俺を下等で雑な占術で鑑定しようとすれば次のように見える。
***************************************************
氏名 : ミラー
年齢 : 26
属性 : 中立中庸
種族 : バシレイアン
レベル : 15
クラス : 魔術師13, 暗黒騎士2
状態 : 健康
***************************************************
隠していない情報として与えるのはこれだけだ。年齢を外見に見合う程度に合わせ、属性と種族を欺瞞し、レベルを下げている。世間的には重度に魔法寄りの魔法戦士と看做されるだろう。ただ、鏡とは随分と口論をした。
「ねえ。馬鹿なの、ミラー?」
「鏡よ。不満があるならば苦言の対象を明確にせよ」
「ク・ラ・ス!! その暗黒騎士に決まってるだろ! 君はお馬鹿だろう!」
「俺は暗黒騎士だ。尋常な魔術師であれば戦槌ではなく杖か焦点具、或いは魔道書を持ち歩くであろう」
「しかもアレを担いで歩く気なんだ!? ミラーってば本当にお馬鹿!!」
「俺は危険な都市部で信頼する武具を手放す気は一切ない」
「あぁん!? そう言う事言うの? 言っちゃうの? ミラーは反抗期なの? しかも、26歳!」
「上げ過ぎか? その程度の外見ではないのか」
「……うーん。蛮族の肉体的な全盛期はそのくらいなのか……?」
「そうむくれるな。鏡には騎士の帯剣としての風格があると思うぞ」
「煽てて誤魔化そうったってそうはいかないよ、ミラー!」
……ほぼ、俺が詰られていた気はするが。
鏡は盛んに偽装したクラスと年齢について何やら不満をぶちまけていたが、俺は押し通した。鏡はと言えば今も何やら不満げだ。
「ねえミラー、対占術の欺瞞情報って今日もアレなの?」
「変えぬぞ」
「あぁ、そう……。流石の鏡も諦めの境地に到達しそうだよ、ミラー」
俺自身にもよく解らぬ感情なのだがな。隠せと言われると曝したくなる。そこは守らねばならない一線だと本能が断固たる口調で言うのだ、仕方なかろうよ。馬鹿呼ばわりされても譲る気はない。
「設定的には放蕩息子の趣味人が手慰みに術具作っちゃった、でいいよね。
鏡は馬鹿そうなぼんぼんがでっかい戦槌しょって暗黒騎士だと言い張るの、もう諦めたからね」
「鏡よ、街の様子が妙だ」
「鏡はミラーの頭蓋骨の中身が筋肉に変わりかけていないか心配……って、うん?」
常ならば上空まで来た時点で適当な目標へ転移して降り立つのだが、鼻腔を擽る匂いは湖から香る水のものだけではない。変成術で視力を大幅に強化して見下ろせば異常は明らかだ。何故、城壁に兵が少ない? 候補地を偵察して回った折、街を守っていたのが士気も練度も低くはない軍だったからこそ、俺はリンミに目を付けたのだ。軍備を怠る街に財などあるまい。街中を見れば顕著に人通りが減り、活気も翳っている。何らかの異常事態が発生している事は明々白々だ。
湖からは淀みを感じる。湖水の色が記憶と違う。
「よしミラー、帰ろう。鏡としては見なかった事にしたい」
「馬鹿を言うな、鏡よ。降りるぞ」
「うわーん、うちの子が馬鹿だあ!」
喚く鏡を無視し、俺はリンミの街中へ侵入した。