魔法使いの少年と
「魔法使いになんてなりたくないんだ…」
夕陽が沈む街を眺めて少年は呟いた。膝を抱え、腕に鼻を埋めるその背中に声がかかる。
「あなた、魔法使いなの?」
ここは街からは少し遠い丘。昼間は子供達が楽しく駆けるこの場所も夕陽が沈む頃合いには、もう誰もいない。問いかけた少女はコテッと首を傾げ、再び問う。
「あなた、魔法使いなの?」
ゆったりとした響きの音は彼女の外見を大人びさせる。
首の動きに合わせ、つややかな長い黒髪がさらりと流れた。
少年は少女を一瞥すると再び呟いた。
「魔法使いになんてなりたくないんだ。」
少女は少年から少し離れた場所によいしょっと腰を下ろし、けだるげに足を投げ出した。
太陽は沈みかかり、東からは深い藍色が迫って来る。
「僕が怖くないの?街では魔法使いを怖がってるってばあちゃんが…」少年は独り言のように呟いた。
「やっぱり魔法使いなのね。」少女はパッと声を弾ませる。
「御伽噺の魔法使い。人との争いに負けて、どこかに隠れたっていう…」
「僕らは負けてない。争いも好きじゃない。そんなの人間が勝手に…」
少年は言葉を止め溜息をつくと、のそのそと立ち上がった。
「帰るの?」橙色を残して去った太陽に浸り、少女は尋ねる。
「ばあちゃんが待ってるから。」
「私も連れて行ってくれる?」
上目遣いに首を傾げた少女はいいよ。という少年の言葉に顔を綻ばせる。
「だけど場所は秘密。僕の手を離さないで。」
少年はどこからともなく黒い布を取り出すと少女の目を布で覆い始めた。少女は恐れる様子もなく手を引かれて立ち上がり、闇の中、少し大きくあたたかな少年の手だけを頼りに歩く。
「ねぇあなた、名前は?」
少女は素足に感じるえもいわれぬ感触に眉をひそめた。
風が通り抜けるような心地よさの中に、砂利を踏むような奇妙な感覚。
「まだないよ。僕たちは成人した時に貰うんだ。」
と、少年は足を止めた。
「ここ。」そういって少女の目の覆いを解いていく。
「あら、まだそんなに歩いてないけど…」
訝しげに少女はその赤い瞳を開く。
「うわぁ…すごく広い洞窟っ‼これはなにかしら…洞窟の壁が光ってるわ…」
少女はくるりくるりと回りながら楽しそうに笑う。
「僕らの血に反応して光るんだ。不思議だろ?」
「これもあれも全部魔法なのかしら…すごいわっ‼」
少年が佇んで見守る中、あれやこれやと歩き回った少女は満足したように感嘆の溜息をもらし、少年に向き直った。
「素敵な時間をありがとう。出来ればまた会いたいわ。」
少年は少し俯くとにっこりと笑う少女に近寄り右手を彼女の頬に添えた。
「ごめん…」「いいの。気にしないで。」
一瞬。
寂しそうな少女の顔を視界に映し、少年はパチン。と、指を鳴らした。
「良かったのか?気に入ってたみたいだが。」
少女の消えた洞窟の片隅、その暗闇からのっそりと男が姿を現した。
「うん…ほんとはそのまま連れてこようとも思ったけど…まだ名が…」
野性の熊のようなその男は逞しくも小さな少年を見下ろすと眉を寄せた。
「名を貰うのは明日じゃないか。」
「ヴェイン…僕はそれが終わったらちゃんと迎えに行くつもりで…」
男はふぅむと頷く。
「分かってるよ。ミラに話すだろ?」
「ばあちゃんには…今から話しに行くんだ。」
少年は柔らかく光る碧に照らされながら洞窟の先へと歩く。
「ねぇヴェイン…ミラはなんていうかなぁ…」
「とりあえず勝手に外に出たことは怒られるな…俺はもう一緒に説教はごめんだぜ…」
照れたような、困ったような顔をする少年の後を歩きながら、ヴェインは馴染みの台詞をぼやいた。
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少年の祖母であり族長でもあるミラの延々と続く説教に耐える少年を置き去りに、そっと部屋を抜け出たヴェインははたと顎に手をやると
「流石に置き去りはひでぇーか。」
と、漏れ聞こえる声を背に程よくひんやりとした岩の上に座った。
部屋の中から聞こえる老女の説教は、しばらくすればいつものように一族の歴史へと移っていく。
洞窟の岩を繰り抜いて作られた部屋には、暖かな空気と柔らかな緑光に満ちていた。
少年は頭に叩き込み、骨に刻み、身に染み込ませたその歴史を説教よりはましと熱心に耳を傾けた。
「不思議な力を恐れた人間が殺しに来た。んで、負けたから洞窟に逃げてきたんだよね。」
「涅槃の力だ。応戦していないのだから負けたわけではないぞ。争いなどはしない方がよいのだ。わたしらだって空は恋しい。が、洞窟といえど居心地は良いもんだ。夏は涼しく冬は暖かい。」
藁で編んだ座布団の上でミラは穏やかに目を細める。
その眼差しが閉じきり再び開いた時には、彼女の瞳は鋭い緑光を帯び、少年に向けられる。
「それで…何故彼の少女を連れてこんかった。」
しゃがれた声は穏やかながらも責めるような響きを含んでいた。
ふっと変わった彼女の空気に、少年は崩していた居住まいを正した。
「ミラ、僕は未だ名前がない。未熟な子供だ。彼女はきちんと名を貰ってから迎えようと思ったんだ…」
少年は漆黒の瞳で真っ直ぐに祖母を見つめ、自分の考えを話す。
その誠実さを噛み締めるようにミラは瞳を閉じ、ふぅ…と息を吐いた。
「そなたは聡明だ。しかし外の人間は甘くはない。心構えは褒めてやる。が、少女を帰したその判断は愚かであったな。成人の儀を早める。そなたは準備に行ってまいれ。」少年がこくりと頷いたのを確認すると、ミラは老いた自らの肺に鞭を打ち大きく息を吸い込んだ。
「ヴェインッ‼そこにいるだろう。中にお入り‼」
少年が言いつけを果たすため、ミラの背後の小さめの洞窟に消えていくと同時にヴェインが前の入り口から慌てて転がり込んで来た。ミラはその姿を見るや否や早口に捲し立てる。
「かの少女は人の手によって命を奪われる予定のようだ。今すぐあやつに名を与え皆で助けに行かねばならぬ。」
ヴェインは目を瞬き、落ち着きを取り戻す。
「分かった。すぐに準備をしよう。ミラ、彼女は我等が一族に迎えるべき女性だ。絶対に連れてくる。他の子供たちを頼んだぞ。」
そういうと、ヴェインは再びあわただしく部屋を出ていく。
「ヴェイン…誰の命も奪うな。そして奪われるなよ。」
もはや見えない彼の背中にミラはそっと呟いた。
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洞窟の奥深く。真上に位置する山脈の古樹にろ過され、澄み渡った水が溜まる場所。広大な地下湖となったこの場所は《澪の雫》と呼ばれ、昔から一族の成人の儀が行われる。不規則に淡く輝く碧の球体がふわふわと宙に浮かび、濡れた岩肌や鏡のような水面をほのかに照らす。
儀式の為に着替えた少年はその白い着物をするりと脱ぎ、一糸纏わぬ姿で迷いなく冷たい水へ身を沈めてゆく。ミラ、ヴェインを含めた数人の大人が湖の淵から見守る中、粛々と禊を終えた少年は軽く体をぬぐうと、彼の為に新しく紡がれた若草色の着物を受け取った。
ミラは少年が着替えたことを確認すると、彼に歩み寄り、肩に手を添え跪かせた。少年は頭を垂れた。
「お前はこれより刺青の一族として一族を守り、一族の為に生きよ。」
時折聞こえる水音とともに言葉が広い洞窟に反響する。
「そなたは一族の誰よりも空に焦がれ、空を見てきた。一族が再び澄んだ空の下、幸せに過ごせる日々を願おう。それまでは皆、そなたの瞳に空を見るのだ。」
ミラは少年の肩から手を離す。
成人の名は族長が一人で決める。変更も異論も許されないため、立ち会う者皆が緊張する瞬間だ。
「そなたの名はヒスイだ。」
まっすぐ顔をあげた少年の黒い瞳に、確かに一瞬、抑えられた碧い輝きを見ながら、ミラは囁くように言葉を紡いだ。
そして、傍に寄ってきたヴェインからミラはシンプルな木箱を受けとる。
見た目の古さと裏腹に滑らかに蓋を開けると、中に入っている真っ白な砂へと指を走らせる。
「夜の星空を綴じた背、翼は空色、胸は夕焼けの茜色。カワセミという川の傍に棲む美しい鳥の別名だ。その別名は、碧色の美しい宝石から来ているそうだが…その宝石とやらはお目にかかったことがないでな。」
《翡翠》
手を止めたミラの木箱の中には音に合わせた文字が刻まれている。
翡翠は立ち上がって木箱をのぞき込み
「星空、空色、茜色、どれも綺麗な色だ。ありがとう。」と礼を述べた。
「わたしの監視をくぐり抜けて空を見に行くそなたには手を焼かされたぞ。」
まったく…これだから若造は、となおも呟き続けるミラ。
翡翠はそんな祖母の様子に一瞬微笑むと、ふっと空気を張りつめさせ立ち合いの大人たちに向き直る。
「今すぐあの子を迎えに行く。ヴェイン、人員の編成は任せる。」と裾を正し、《澪の雫》を後にする。立ち会いを務めた者らは、他の者へ彼の成人の知らせや出立の準備等、役割を果たす為、翡翠の後から慌てて出ていった。
その様子を見送り、ミラは一人ため息をつく。
一族の者がみなもつ涅槃の力は強い者ほど身体に緑光を纏い、洞窟内の苔を目映く輝かせる。翡翠の力は目覚しく、母の腹にいてさえ眩しいほどの光を帯びていた。
ふと、自身の厳しい指導の下、力の制御の為に泣きながらも必死についてきた幼子を思い出した。
「あやつもすっかり大人になりよって…帰ってきたら隠居でもするか…」
ふっと穏やかに笑った彼女の言葉は闇に溶け、静かに揺蕩う水面だけがその音を吸い込んだ。
拙いですが、小説投稿第一弾。
楽しく読んで頂けたら幸いです。