Ignore/無視する
僕は最近、痛いほどの視線を感じている。
原因は判っている。川瀬だ。ひと月ほど前に行われた球技大会の翌日から、川瀬は僕を睨み続けている。
恨まれる覚えは、なくもないが。
「無理ではないと思うけど。津田くん、夏休みが勝負になるわよ」
そこまで根に持つことはないだろう。
二者面談の延長戦で、僕は何度目になるかも判らないほど同じ言葉を告げられていた。殆ど聞き流しているので、内容は頭に入って来ない。
志望校は西高。それは譲らない。
確かに今の僕の成績では少し足りないかもしれない。それでも、夏休み中に伸ばせば問題はないはずだ。
「頑張ります」
僕に志望校のランクを落とさせようと、先生は必死だ。三年生の担任は受け持ったクラスの生徒が受験に失敗したら、ペナルティでもあるのだろうか。
「頑張ってね。この間の期末、調子悪かったみたいだし」
何故、教師という人種は、僕の嫌がることを言うのか。
「……はい」
僕のせいではない。授業に集中出来ていないからだ。原因は、川瀬。あいつが僕を睨むから、気になって集中力が散漫になる。塾で勉強をしているときですら、後頭部が痛む気がしてしまう。
確かに、僕が悪かったのかもしれない。怪我をさせたのは僕の不注意だ。しかし、そのことに関してはきちんと謝った。
あれ以上の謝罪をしろとでも言うのか。ふざけるな。調子に乗るな。馬鹿女のくせに。
「二学期の成績次第では、南高校を志願した方が良いかもしれないから」
どいつもこいつもうるさい。僕の邪魔をしないで欲しい。
「判っています」
何故、僕を放って置いてくれないのか。
「……それでは」
何故、僕ばかりがこんなに何度も面談をしなければならないのか。
「頑張ってね、津田くん」
何故、あの馬鹿女に睨まれ続けなければいけないのか。
英語準備室とは名ばかりの加藤の部屋から解放され、僕は深呼吸をする。夏の空気は温く湿っていて不快だが、閉鎖的な空間のそれよりは余程ましだった。
遠くから聞こえてくる部活動のくだらないざわめきが、不快感を増幅させる。
早く家に帰ろう。クーラーの効いた自室で勉強をしよう。独りでいるときは、後頭部の視線を感じずに済むはずだ。
余計な汗をかかないようにゆっくりと教室に向かう。しかしどうしても、うっすらと汗が滲んでくる。
鬱陶しい。季節が、環境が、全てが。
中途半端な時間の教室には、僕以外の姿はない。開け放されていた窓からは、生暖かい風が僕だけのために吹き込んで来た。
机の脇にかけてある鞄を手にし、後方の席を振り返る。鞄が残っていた。川瀬は、まだ校内のどこかに残っているらしい。
見つかったらまた睨まれる。迷惑なことこの上ない。いい加減にしろ。
いつもの恨みを晴らすかのように、僕は川瀬の机を睨み付けた。あの女がいなければ、この間の僕の成績は、あれ程落ちなかったはずだ。
少なくとも、島本には勝てていただろう。
飄々として頑張っている様子を微塵も感じさせないくせに、いつも僕の上にいやがる。目の上の瘤。僕は島本だけは許せない。
理由なんて必要ない。僕はただ、あいつが嫌いなだけだ。
「クソ!」
誰もいないのを良いことに、島本の机を蹴飛ばす。がしゃん、という小気味良い音が教室内に響き渡った。
ざまあみろ。
途端に襲われた強烈な虚しさ。それを吹き飛ばすために、僕は急いで教室を飛び出した。こんなことをして何になるというのか。本当は、僕が一番判っているはずだ。
僕の世界は狭い。存在を許されているのは僕だけで。だから、うるさい輩は排除する。島本も、加藤も、川瀬も。
足早に下駄箱に向かい、靴を履き替えた。中学なんて退屈な箱庭にはいたくない。一刻も早く帰りたい。
「津田」
掛けられた声の主が誰だかは判ったが、僕は無視して歩き出す。関わっても仕方がない。
「これ落とし物」
加藤に気に入られようと必死な副委員長如きが、僕に何の用があるのか。
「何?」
「知らない。今さっき津田の鞄から落ちたから」
手渡されたのは僕の物ではない。おそらくは、長嶺の勘違いだ。
「僕のじゃない」
無理矢理、押し付けるように小さなキャラクターのイヤホンジャックアクセサリを握らされる。どう考えても女子向けのそれは、確実に僕の持ち物のはずはなく。
「じゃ」
少し考えれば判るだろうに。事を成し遂げたようなさっぱりした顔で、島本の腰巾着は教室の方に去って行った。
こんな時間まで、いったい何の用事があったというのか。どうせ担任に気に入られて内申を良くしようとか、そういう魂胆だろうとは思うが。
馬鹿の小細工は見苦しい。
手渡されたアクセサリを、僕はゴミ箱へ投げ捨てようとした。しかし、手が止まる。
気のせいでなければ、見覚えがあった。黄緑色の兎のようなこのキャラクタは、確か。
否、間違いない。これ程趣味の悪い飾りを喜んで付ける人間は、僕の知る限りただ一人。
川瀬。
何故僕の鞄から落ちたのかは判らないが、これは川瀬の物に違いない。
あの馬鹿女の持ち物だと判った途端、ただのゴミから格下げされる。このアクセサリは、ゴミ以下だ。手にしているのもおぞましい。
僕はすぐさま投げ捨てようと思ったが良い案を思い立ち、再び手を止める。
これを川瀬に渡し、僕を睨むのを止めるように言おう。ひょっとしたらそこまでは計算尽くで、僕を陥れるつもりなのかもしれないが。盗んだとでも言い掛かりをつけて。
否、あの馬鹿女にそこまでの知恵があるとは思えない。大丈夫だろう。
落とし物を拾ったことで、怪我をさせた負い目は帳消しになる。これ以上睨まれ続けることもなくなる。
僕は切り札を鞄にしまい込み、屋外へと歩き出した。
これであの女の視線から解放される。痛みを無視しなければいけないという強迫観念から逃れられる。
川瀬から、解き放たれる。
校門までの道をゆっくりと歩きながら、僕は久々に、心地好い風を感じていた。




