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Fall/おちる

 恋とは、するものなのか、落ちるものなのか。

 最近の僕は、暇を見付けてはそんな疑問について考えていた。時には、図書室の片隅に置かれた辞書を引いてみたりして。

 もちろん、答えなんて載っていない。特定の相手に惹かれること、だけでは、僕の頭では答えに辿り着けそうにない。

「先輩、今日、暇っすね」

 半ば無理矢理入れられた図書委員会をそれでも真面目にこなしている僕は、カウンターの隣に座る名も知らぬ後輩に相槌を打った。

「誰も来ないよ、きっと」

 中間テストも終わり、外は久々の晴天。梅雨時の貴重な晴れ間をわざわざ図書室で過ごそうなんて、奇特な生徒がいるはずもなく。

 とはいえ、普段から利用者数は数えるほどで、何故二人もカウンターに座らせているのか、疑問に思わなくもないのだけれど。

 それでも。本当は、ほんの少しだけ。僕は期待していた。

「先輩、真面目っすか?」

 彼女が来るのではないかと、期待していた。

「全然」

 いつも本を読んでいる彼女ならば、図書室にも通っているのではないか。ブックカバーの下の本には、図書室に並ぶ本と同じバーコードが付いているのではないか。

 彼女のことを何も知らない僕は、そんなくだらない希望を抱いていたのだ。

「じゃ、安心っすね」

 後輩は呟き、ズボンからスマートフォンを取り出す。カウンターの高さは胸まであり、膝上でスマートフォンをいじっていても、室内からは確認出来ないだろう。

 僕も倣って携帯を取り出そうかと思ったが、二人して下を向いて黙っているのもおかしな気がして、止めた。誰が見ているわけでもないけれど。

 代わりに僕は、窓を見る。空を覆う大きな白い雲を見ていると、まるでもう夏がやって来たようで。今がまだ梅雨だということを、忘れてしまいそうになる。

 ふと、学校に来る途中に見かけた、紫陽花の薄紫色を思い出した。つられて、彼女のことを思い出す。

 透明な雨粒の残る紫陽花は、透明な空気を纏う彼女と、少しだけ似ている気がした。

 窓の外に広がる夏色の空が、自分のことを力強く主張している。同じ空でも、彼女とは違う。彼女は春色の空に似ていて。淡く優しく儚くて。こんなに激しい自己主張はしていなくて。

 斜めに差し込む強い日差しは、近寄ろうとするものを拒む。そこだけは、彼女に少し似ているけれど。

 僕は結局、彼女に近付けてはいなかった。恋だと気付いたあの日から、僕は一歩も進めていないのだ。声を掛けようにも、彼女の纏う空気に触れてしまうと、僕は。

「寺田、暇?」

 唐突に、聞き慣れた声と共に図書室の扉が開かれた。振り返らなくても判る。相手が、誰なのかは。

「何だよ長嶺」

 僕の隣に座る後輩は一瞬びくりとしたけれど、僕が親しげに話しかけたので再びスマートフォンに視線を落とした。

「委員会終わったからさ、来てみた」

 窓を見詰めたまま、僕は口を開く。

「何だよそれ」

 少しだけ、僕は長嶺が羨ましい。この間一度だけ、長嶺が彼女と話しているところを見掛けた。何ということのない、事務的な内容だろうとは思う。

 それでも、彼女に近寄ると呼吸が出来なくなる僕よりは、長嶺の方が彼女に近付けるのも事実で。

「良いじゃんか。それよりさ、修学旅行なんだけど」

 彼女を包む尖った透明感は、きっと僕だけが感じている。

「修学旅行?」

 硝子のように硬質で、輝いていて、透明感があって。

「そ。私服可にしてやりました!」

「マジ?」

 穢れを知らない。

 恋というのは欲望に似ている。僕は、彼女に僕を知って欲しいと望んでいる。欲望は彼女には相応しくない。だから、僕は近付けない。

 彼女の空気に触れるより前に、僕はきっと、自らを律しているのだ。無意識に。

「マジマジ。九月の東北ったら、意外と結構暑いし寒いわけよ。だから制服じゃ風邪引くぞっつって押し通してみた」

 彼女に対する欲を持たない長嶺が、羨ましい。

「長嶺すげえな」

 凄い、は、多重の意味を含んでいる。

「おう。俺はすげえよ」

 ひとつは、純粋に。ひとつは、不純で。

「ま、小野っちょの後押しもあったんだけどな」

 ひとつは、今の会話。ひとつは、嫉妬に近い羨望。

「小野っちょが?」

 彼女のことを欲求の対象にしようだなんて、考えていない。

「おうさ。何でも田舎が東北なんだとよ」

 彼女に触れてどうこうしたいなんて、考えていない。普段の行為とは比べものにならないほどの激しい罪悪感に襲われることを、知っているから。

 一度だけ、僕は罪を犯した。

「それって関係なくね?」

 彼女の夢を見た。ただそれだけのはずだった。

「確かに。関係ねえかも」

 僕に纏わりつく違和感さえなければ、それでも問題はなかった。けれど、僕が彼女に欲情したという確かな証が残されていて。

 それ以来、彼女について考えることすらが、罪のような気がしていた。

「だよな」

 忘れたい記憶。彼女の深い瞳の色。

「ま。何にせよ俺様に感謝しろよ、寺田」

 僕の罪。長嶺に対する嫉妬心。醜い心。

 天女の羽衣を拾った男の、昔話を思い出す。

 彼は天女のあまりの美しさに心惹かれ、罪を犯す。僕は彼女の美しい空気に心惹かれ、罪を犯した。

 彼女は、天女だ。だから僕には触れられない。僕のような汚い男は、彼女に触れてはいけないのだ。

「長嶺はいつかやる男だと思ってたよ」

 願わくば。

「副委員長舐めんなよ」

 忘れさせて下さい。僕の罪を。

「舐めてねえし」

 考えないようにしていても思い出してしまう、彼女の瞳の色を。

「いいや、舐めてるね」

 僕の、恋心を。

 天女に惹かれたあの男は、最後にどうなったのだろう。思い出すことが出来ないけれど、きっと、幸せになんてなれなかったはずだ。

 恋は、するものでも、落ちるものでもない。

 きっと、堕ちるものだ。

 堕ちた先にあるのは、ただの闇で。

「はいはい。長嶺大先生はスゴいスゴい」

 這い上がることも、抜け出すことも適わない。

「崇め奉り給え」

 暗闇の中に射し込むのは、天女の羽衣の放つ光。彼女の放つ光。触れたいと願い手を伸ばしても、決して触れることの叶わない。

「ヤだよ馬鹿野郎」

 救って欲しいと願い声を上げても、決して相手には届かない。

 色濃い夕暮れが図書室に射し込んでいた。目映い光はすうっと伸び、カウンターに手をかける。

「……もう夏だな」

 長嶺が呟く。

「まだ夏だよ」

 僕は反論する。ふと見ると、カウンター脇に立つ長嶺に、陽光が溶け込んでいた。まるで。

「早いな、時間って」

 まるで、彼女の纏う空気のように。

「早いか?」

 僕を責める。堕ちた僕を責める。彼女を穢す僕を責め立てる。

 いつか、近付ける日は来るのだろうか。赦される日は来るのだろうか。恋に堕ちた僕を、救い出して欲しい。救えるのは、彼女だけ。

「早えよ。もう夏だし」

 穢れを知らぬ、天女だけ。

「その前に期末が……」

 大袈裟に頭を抱え込み、嘆いてみせる。僕を救う、彼女の手を夢見て。

「一回くらい島本に頼んでみたら? カテキョ」

「ヤだよ。あいつぜってえ金取るし」

 願うのも、罪だろうか。堕ちた僕には何も残されていないのだろうか。

 彼女の名さえ思考出来ない。僕の罪はきっと、果てしなく、重い。

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