Echo/反響
アタシの中をこだまする、アイツの声。全く気になんてしていなかったのに、今は気になって仕方がない。
眼鏡で根暗で男らしさが全くなくて、良いところなんてひとつもなくて。気になる理由なんてないはずなのに。
何で、こんな風に目で追っているんだろう。
「川瀬」
名前を呼ばれて、はっとした。アイツから視線を移し、アタシは声の主を見上げた。
「何?」
立ち上がれば余裕でアタシの方が背が高いはずだけど、今は座っているので小野を見上げる格好になっている。窓から差し込むぼんやりとした夕暮れの明かりが、小野の輪郭を曖昧にしていた。
学級委員長がアタシに用があるとは思えないのに、どういう風の吹き回し?
うわ、アタシ。風の吹き回しなんて、難しげな言い回しを無意識に使ってみたりして。
アイツの、影響かもしれない。
「二者面談の日さ、代わって貰えない?」
季節は梅雨。中学三年生のアタシたちにとって、進路の話題がリアリティを帯びてくる時期。
「小野っちょ、いつ?」
特に行きたい高校はない。強いて言うなら南女高の制服が可愛いから行きたいかな、程度で。
「あんたまで私のこと小野っちょって呼ぶわけ?」
面談なんて面倒臭い。
「良いじゃん似合ってるし」
アタシの行き先は、アタシが決める。
「ああ、もう。長嶺の馬鹿め」
だからアイツのことなんて、気にしない。
本当は校則違反にあたる薄茶の髪を指先でくるくると弄びながら、小野に尋ねてみた。
「やっぱ小野っちょは西高狙い?」
スマホを取り出して、興味のない素振りを見せつつ。
「まさか。私なんかにゃ行けないよ」
意外。真面目な小野は、てっきり西高狙いだと思っていた。アイツみたいにガリ勉なのに。
だけど。アイツみたいにあまり役にはたっていないのかもしれない。全てのことをかなぐり捨てて勉学に励んでいても、結局は、アイツは久保弥生には勝てていない。
「ふーん?」
アイツには長所なんてない。勉強は中途半端、運動音痴。おまけにガリ勉、根暗、冴えない系眼鏡男子で。
アタシが惹かれる要素なんて、ない。たったひとつの長所を除いて。
「あ、そうそう。私、明日なんだけどさ。川瀬、大丈夫?」
たったひとつの長所だって、本当なら気付きたくなかった。
「明日なら大丈夫。アタシ空いてるし」
球技大会なんて、サボれば良かった。
「本当? じゃあ後でカトちゃんに伝えとくわ」
体育館になんて、行かなきゃ良かった。
「よろしく」
島本の応援なんて、チカ一人で行かせれば良かった。クラスが違うから、なんて言葉、無視しておけば良かった。
用件を済ませ自分の席に戻っていく小野の背中から、アイツの後頭部に視線を移動する。
全然格好良くはない。根暗で生真面目で、会話だってきっとつまらない。
あの日、思わず撮ってしまったアイツの写真。もたもたと鈍臭い動きで、バスケのコートを走っている姿。スマホの壁紙にしようかと思ったけど、止めた。
アタシは、あんなに冴えない男には惚れない。あんな奴とアタシとは、どう考えても釣り合いがとれない。
もう殆ど治っちゃった左手の怪我を、指先でそっと撫でてみる。
初めて交わしたアイツとの会話。たった一言で、アタシの心を鷲掴みにした。
――大丈夫か?
アイツの投げたボールは、明後日の方へと向かっていった。チカのお供で試合を見ていた、アタシの方へと飛んできた。
――……え、だ、大丈夫。
アタシの擦りむいた左手を見て、アイツが心配そうに口を開く。唯一にして絶対的な、アイツの長所を武器にして。
――なら良かった。
低く優しく響く声。耳の奥に今も残っている。顔も性格も条件的にも、惚れるなんて有り得ないのに。
あの声をもう一度聞きたいと、アタシは望んでしまっている。名前を呼んで欲しいと、川瀬百合子と言って欲しいと、アタシは願ってしまっている。
声を掛ければ良いのかもしれない。大した会話は交わせなくても、あの声をもう一度聞くことだけなら、出来るのかもしれない。だけど。
「ユリ!」
隣のクラスの親友が、廊下からアタシを呼んだ。そういえば、もうそんな時間か。
「チカ、ちょっと待って今支度するから」
だけどやっぱり。アタシには役不足で。
「ちょ、もう。約束してたじゃん」
あんな奴、アタシとは身分が違う。
「悪い悪い、ちょっとボーっとしちゃってさ」
アタシが所属しているのは、明るく楽しいトップクラスの女子集団。
「しっかりしてよ」
アイツが所属しているのは、根暗で友人の少ない底辺男子の会。
見えない壁が、アタシを阻む。アイツに声を掛けたなら。アイツに惚れてしまったら。アタシは今いる集団に、いられなくなってしまうから。
「ゴメンって」
そんなの、嫌だ。
「じゃあ今日、マック奢りね」
アタシには、この場所が合っている。わざわざアイツのいる位置にまで、降りていく必要なんてない。
「えー? 今日ってマイたちも来るんでしょ?」
それなのに。
「あたしの分だけで良いからさ、ね?」
それなのに。アイツの声が耳から離れない。惚れてなんていないのに、アイツの声がアタシを惑わす。
「もー。チカ調子イイんだから」
声が聞きたい。優しく囁いて欲しい。
「シェイクよろしくー」
上の空で会話をしながら、アイツの後ろ姿を眺めた。
小さな背中、真っ黒でぼさぼさの髪。華奢な肩に、細い首。男らしさの欠片もない。
それなのに、アイツの声は。
「……うるさいな」
アイツの声は、どうしようもなく、魅力的。
アタシの視線に気付いたのか、アイツは振り返り、アタシたちへの文句を口にした。アタシの好きな声で、アタシのことを責める。
「悪かったねうるさくて。もう帰るし」
アタシとアイツは、住む世界が違う。アタシと津田は、絶対的に住む世界が違う。
判っているのに。知っているのに。
「あーあ、最悪。ガリ勉がうつっちゃうよ」
嘘。最高。こんな形でしか会話が交わせないとしても、アタシはアイツの声が聞けるだけで。
「早く行こ」
アイツの声だけで。
「何あいつ、超ムカつく」
どんな言葉だったとしても。
「だよね?」
何故か、心が弾む。
判っているのと理解しているのは違う。アタシはたぶん、理解していない。
同じクラスということ以外、共通点はひとつもない。住む世界が違う。所属する世界も違う。
「ああもう。早く帰ろ?」
惹かれるわけにはいかない。だけど、アイツの声が忘れられない。姿形も性格も、本当に全然好みじゃないのに。
「超イラつくし」
声だけが、アタシを捕らえて離さない。
あんな奴に惚れるなんて、アタシのプライドが許さない。アタシの中をこだまする、アイツの声が聞こえても。
好きになんてなってやらない。
気になるのは、アイツの声だけ。声以外には、興味がない。
「マイたちもう来てるかな?」
興味がない、はずだ。
そう思いながら、アタシは教室を振り返った。アイツの小さな背中を確認し、興味がないと言い聞かせる。
無駄なことかもしれないけれど、アタシは、自分に、言い聞かせた。




