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Xylograph/木版画

 覗き見た彼女の世界は難解で、僕には理解が及ばない。

 それでも、蝋で創られた脆弱なものであっても、僕は翼を手に入れたのだ。前より少しだけ彼女に近付ける、危うく魅力的な羽を。

 受験は特に問題もなく終了した。加藤先生が、全員志望校に合格、と言っていたので、彼女は西高に受かったのだろう。

 進む先が違うことは最初から判ってはいたはずなのに、僕の心はなぜか軋む。みしみしと音を立て、痛む。近付けたと思っていても結局は遠いままなのだと、嫌でも思い知らされる。どうしても、近くには寄れないのだ、と。

「なあ、寺田。今日の帰り、どっか寄って遊んでいかね?」

 北高に進む長嶺は、どこか余裕ありげな表情を見せていた。

「僕は良いけどさ、島本は?」

 推薦先の大学が多いからと私立の白高に進学を決めた島本は、最近少し雰囲気が変わった気がする。

「俺はパス。やることあるし」

 柔らかくなったというか、刺々しさがなくなったというか。もちろん、元々良い奴ではあったので、さほど変わったわけではないのだけれど。

「何だよ、また矢島? 島本、最近そればっかじゃねえか」

「うっせえ! 卒業したら学校も違うし、今しかねんだよ」

 何というか、楽しそうに見える。受験が終わって肩の荷が降りたから、かもしれない。

「はいはいラブラブですこと」

 長嶺がからかうように声を上げた。

「ああもう、うっせえ長嶺! おい寺田、ラブの綴りは?」

 とばっちりは、いつもと同じく僕に降りかかる。結局は、何も変わっていないのだ。

「えっと、エルオーブイイー」

「正解。ほんじゃ、また明日」

 卒業が目前に迫っているとはいえ、僕たちはまだ、中学生なのだから。

「ちょ、マジで帰るのかよ。島本のいけず!」

 あと少しだけ、中学生でいられるのだから。

「マジだよ。あ、マジは英語で何? 寺田?」

 今はまだ、彼女と同じ時を過ごせているのだから。

「あー、エムエージーアイ?」

「それじゃマギだろ。てか、そうじゃねえし」

 窓際に佇む彼女を横目で確認し、今を繰り返したいと願った。このまま、中学生のままでいられれば。もう少しだけ、彼女の世界に触れていられる。

 僕が手にした蝋の翼は、卒業と同時に消滅するだろう。羽を失った僕は、真っ逆さまに堕ちるのだ。蝋の羽では太陽に近付くことは適わない。判っている。彼女は太陽で、僕はそれに恋い焦がれるただの人間なのだ。

 堕ちることは怖くない。僕が怖いのは、失うことだ。今を。

「……ねえ正喜、帰ろう?」

 そういえば、いつからか矢島は島本のことを、正喜、と呼んでいる。

「ああ。てか、真央。やっぱ島本って呼んでくんね? 下の名前は恥ずかしいわ」

 島本は島本で、矢島のことを、真央、と呼ぶ。

「良いじゃん。あたしのことは真央って呼ぶクセに」

「だって真央は真央だろ?」

 僕には、彼女の名を口にすることですら、憚られるというのに。

「まったく俺らに見せ付けてんじゃねえぞコラ島本」

 近くに寄るということは、そういうことなのかもしれない。だからきっと。

「そうだ、そうだ、そうだ」

 僕には適わない。彼女は、遥か彼方に存在しているのだから。

「うるっせえ!」

 僕には叶わない。彼女の纏う空気に触れることですら、赦されないのだから。

「ねえねえ純ちゃん聞いてよ。正喜がさ、下の名前で呼ぶなって」

 机の中で眠る蝋の羽は、僕にはとても難しく。

「……島本、真央のこと大事にしてくれるって、約束したよね?」

「どいつもこいつも。へいへい、文句言わなきゃあ良いんだろ?」

 幾度となく目を通し、幾度となく口に出し。それでも、扱いが判らないままで。

「あ。じゃあさじゃあさ、学校でいちゃつくなっつうのも約束な」

「駄目。長嶺の意見は却下する」

 リルケ。彼女のお気に入り。

「何で俺だけ除け者なんだよ?」

 それを知れたことだけで、満足出来れば良かったものを。

「ああ、そだ。村井」

 僕は、とても欲深い。

「何?」

「ありがとな、色々」

 ちら、と、彼女の方を見た。相変わらず窓際の席で、陽光に照らされ佇んでいて。

「うん、まあ。私、真央の親友だしね」

「……そう、だよな」

 蝋の羽は、溶けていく。

「何の話?」

 全て溶け消えてしまったら、彼女への思いも消えるのだろうか。或いは思いをくすぶらせ、じわじわと燃え続けるのだろうか。

「何でもない。それより真央、帰るぞ」

 判らない。僕はこの先、どうなるのだろう。

「はーい! じゃ、純ちゃんまた明日」

 がたん、と音を立て椅子を動かし、島本が僕たちに手を振った。矢島と一緒に帰るらしい。僕は何となく手を振り返し、そのまま、机の中に手を入れた。

「なあ、村井」

 触れる蝋の翼。彼女の本。

「何? 長嶺」

 どんなに願っても、どんなに望んでも。僕には使いこなせない。

「何か島本の弱みでも握ってんのか?」

「握ってるわけないでしょ? 何で?」

 繰り返したい。立ち止まりたい。このまま、この場に留まりたい。せめて僕が、もう少し空を飛べるまで。

「いや、俺、あいつが礼言ってんの初めて聞いたし」

 僅かでも良い。彼女に、近付けたと実感出来るまで。

「ああ、うん。倦怠期を乗り越えたってだけじゃない? 私さ、二人の仲直りの手伝いしたようなとこあるし」

 桜の季節より近付けているはずの僕は、それでもひどく強欲で。彼女の纏う空気の一部に、なりたいとすら願っている。

「ふーん。さっすがプリンス、やるじゃん」

「だから、プリンスって何なのよ? 長嶺」

 叶うはずのない願い。焦げる太陽、溶かされる翼。

「プリンスじゃん。結局こないだのバレンタインだってさ、うちのクラスで一番チョコ貰ってたの村井だし。俺にも分けて欲しいよマジで」

 机の中で手を握り締め、触れる翼に願いを込めた。

「もう。長嶺うるさいし、私も帰ろっかな」

 もう少し、彼女の世界に触れていられますように、と。

「おう、じゃ。てかさ、俺うるさくねえし」

 机から手を抜き出し、無言で村井に手を振った。握ったままの手。ゆっくりと解き、教室の空気と馴染ませる。彼女のいるこの空間と、馴染ませる。

 窓際に目を移し、一瞬、彼女を見詰めた。艶やかな髪が陽光を反射し、眩しく優しく輝いている。

 見惚れそうになり、僕は、目を逸らした。

「で、さ。寺田、どこ行く?」

 見詰めることすら許されない。何故かそう、感じてしまう。

「僕は別にどこでも。てか長嶺決めてなかったのかよ?」

 胸が高鳴る。苦しくなる。平静を保てそうにない。

「決めてなかった。寺田はどっか行きたいとこねえの?」

 見詰めたい。遠くから。見詰められない。遠くでも。けれど。

「……図書館」

 僕は知っている。一瞬が、永遠に変わることを。たとえ彼女と共に過ごせる時間が、僅かしか残されていないとしても。

「はあ? 寺田、おまえ、いつから読書家になったん?」

 手元には、蝋の翼。彼女に近付く、唯一の。

「あ、いや、ほらさ、図書委員に押し付けられたからさ」

 だからこそ、堕ちることが判っていても、羽ばたきたいと願ってしまうのだ。

「もう終わってんだろ委員会」

 判っている。無駄だということは。判っている。これ以上近くに寄ることは不可能だと。

「だからさ、えっと、それで本に目覚めたっていうかさ」

 判っている。けれど、求めてしまう。適うことを。叶うことを。

「……ま。寺田、最近、たまに本読んでたりすっからな」

「え?」

 長嶺の意外な言葉に、僕は思わず声を上げていた。

「悪いことじゃねんだけど。寺田にゃ似合わんってだけ」

「うるせえよ長嶺。僕はどうせちっとも勉強出来ねえよ」

 確かに僕は本を読んでいる。彼女に借りた本。暇を見付けては手にとって、時間があればページを開き。

 けれど、蝋の翼では羽ばたけない。眺めるだけの、小さな希望。

「……まあ、でも。悪くねえと思うよ、本当にさ。うん」

 僕の内面でせめぎ合う矛盾。相反する感情。今のまま留まり続けたいのは、共通の願いだけれど。

「何だよそれ」

 それは適うはずもなく。日々は過ぎ、卒業が迫る。彼女と共に過ごす空間は、じき失われてしまうのだ。

 最初から、判っていた。僕が望みを抱かなければ、何も思わず過ごせたはずの。

 繰り返す日常。同じような毎日。

「何だよって、そのまんまなんだけど?」

 似ているようで、違う日々。

「……長嶺、意味判んねえな」

 もしかしたら、徐々に変化しているのかもしれない。何かが。

「寺田が馬鹿過ぎんじゃね?」

 机の中身を鞄に移し、帰り支度を進めた。何をするのかは決まっていないが、こうして長嶺と遊ぶことも、あと僅かしか出来なくて。

 時の流れは、等しく残酷だと思う。

「馬鹿って言う方が馬鹿だし」

 ふと思い、彼女の方をちらと見た。微か眺めるだけのつもりが、捕えられたように動けなくなる。目が、合ってしまったのだ。彼女と。

 幻想のように揺らめく空気、ふんわりと立ち上がる。何故僕の方を見ていたのかなど、些細な疑問は忘れ去られて。

 ゆっくりと、彼女が僕に近付いてくる。暑くて寒くて、息苦しくて心地好い。気付くと、手を伸ばせば触れられる位置に、彼女が立っていた。

 けれどきっと、触れられても、触れられやしない。

「……ねえ、寺田くん」

 そこにいるのは、幻のようなものなのだから。

「また、持ってくる?」

 視線が交わる。

「あ、う、うん。お願い。えっと、い、意外と面白いね」

 言葉を交わす。

「それなら、良かった」

 これ以上、僕は何を望むというのだろう。

 通り過ぎるように去っていく彼女の姿を見詰め、呆然とする。桜の季節には考えられなかった事態。それだけで、満足出来れば良かったものを。

「久保に本、借りてんの?」

「……悪いかよ」

「いや、悪かねえんだけど」

 高望み。願いが叶えば、新たな願いが沸いて出る。卒業は、したくない。この場所からも、この想いからも。

「たださ」

 窓の外に目を向けたまま、長嶺がぽつりと呟いた。

「久保って、あんな風に笑う奴だったかな、って」

 口元に笑みを浮かべ、目を細める。まるで、眩しいものを見るかのように。

「な? 寺田?」

 けれどもその表情は一瞬で、長嶺はすぐにいつもの適当な雰囲気に戻った。僕の顔に手を伸ばし、両頬を引っ張る。

「え? 何が?」

 同じような毎日を繰り返し、徐々に違うものに変えていく。卒業という、大きな区切りまでの毎日は。

「てか長嶺、やめろよな痛えし」

 版画みたいなものかもしれない。似たようで、違っていて。繰り返し刷り、徐々に完成させていく。卒業式はきっと、中学生を完成させる儀式。確定し、曖昧さを取り払い。

 彼女と僕の決定的な隔たりを、確定させるかのような。

「寺田お前さ、本当、馬鹿だな」

 あと少し。ほんの僅か。窓の外が暖かくなったら。春風が吹き抜けるようになったら。

 僕たちは、中学校を卒業する。

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