Vacuous/愚かな
どうするのが一番正しかったのか。俺には、判らない。
矢島と別れたのはたぶん正解だろう。これ以上、彼女を巻き込むわけにはいかない。だからと言って、自由の身を謳歌出来るわけではない。
俺は見えない枷によって、身動きを封じられている。枷を外す鍵を握るのは、姉か、矢島か。
冬休み明けの教室は、目前に迫った高校受験の影響か、どことなく落ち着きがない。教科書をやたらに並べている者もいれば、参考書を片手に音楽を聴いている者もいる。
誰もが皆、自分のことしか考えていない。
普段からそうだったのだろう。しかし、誰の目にも明らかなほど如実に表われている光景に、俺はいささかの爽快感を覚えていた。
俺だけでなく、周囲の人間は皆、物事を自分中心に考えている。当り前の現実が広がる光景は、俺の枷を少しだけ、緩くした。
「島本、おはよ」
能天気な友人の声に、俺は笑顔を貼り付け挨拶を返す。
「ああ、長嶺。やっと三学期だな」
「高校受験かあ。実感湧かねえわ」
俺もだよ、と、表面ばかりの言葉を発し、自分の席に向かう。教室内を見回すが、矢島の姿は見当たらない。
無意識の行動。落ち着きの悪い感情。矢島を探していたことに、俺は胸騒ぎを覚えた。
利用してやるとしか思っていなかったはずの存在が、俺の心に穴をあけている。これは鍵穴か、墓穴か。ミイラ取りがミイラになった。そういうことなのだろうか。
俺は矢島に惚れてはいない。利用していた、だけだった。利用して、利用価値がなくなったから捨てて。
いや、価値がなくなったのとは違う。巻き込みたくない、傷付けたくないという感情が芽生えたからだ。これは、守りたいという本能のようなものかもしれない。
「ねえ島本、真央と別れたって、本当なの?」
聞き覚えのある鬱陶しい声にはっとする。俺は今、何を考えていた?
「……ああ」
仁王立ちする村井を見つめ、言いようのない不安に駆られる。今の俺は、きちんと仮面を付けられているだろうか。
「何で? どうして大切にしてくれないの?」
ささくれ立った言葉が俺を責める。責められて当然だ。俺は、最低の男なのだから。
「うるせえな。そんなの村井には関係ねえし」
だから、これ以上俺を責めるな。放って置いてくれ。
「関係、あるよ。……だって、私は」
「親友だから、か?」
「……そう。だから私も関係あるの」
自分でも理解はしている。どうしたいのかが判らなくても、矢島を巻き込みたくないと思ったのは事実。利用したくないと思ったのは、事実。
しかし誰かに吐き出したいと思ったのも、事実だった。
「なあ、村井。おまえさ、口、堅い?」
俺は自分が判らない。何故、話そうと思ったのか。
「たぶん」
しかも、何故、村井なんかに。
「じゃあ教えてやる。矢島には内緒な」
矢島の親友というポジションが、俺にとって好都合だからとでもいうのだろうか。吐露した感情によって俺は悪くないと、それとなく矢島に伝えるために。
女々しく、愚かしい。そんなもの、俺らしくない。くだらない。有り得ない。しかし。
期待しているのかもしれない。この俺が。他人に。
「屋上開いてっかな」
今はまだ、ホームルームが始まるまでの時間的な余裕がある。この場で話したくはない。誰かに聞かれて困る話だというのもあるが、何より。
「屋上? ここじゃ駄目なの?」
姉の名は、聞かせたくなかった。存在を知っている、村井以外には。
「駄目。内緒話だし」
適当に立ち上がり、廊下へと歩み出す。贖罪の弁を述べるという自身の行動を信じられないまま、屋上に続く階段を昇った。
俺の仮面はきっと、ぼろぼろに崩れ始めている。貼り付けることが困難なほどに。
「矢島、今日休み?」
扉に手を掛け、振り返らずに訊く。
「来ると思うよ。真央、ああ見えて結構真面目なとこあるし」
村井の答えを聞いてほっとした俺は、自分が思っている以上に矢島のことを気にしていたのかもしれない。惚れているのとは違うはずだ。しかし、利用する気になれない程度には、きっと。
重い扉を押し開けると、そのまま真っ直ぐフェンスに向かった。寄り掛かり、空を見上げる。村井のことは目にしない。
屋上は広く、空は高かった。俺がいくら手を伸ばしたところで、届くはずもないほどに。
圧し潰されそうな空。一面の青を眺めたまま、口を開く。
「……俺さ、あれ以上隠し事すんのが嫌になったんだ。矢島に対して」
村井に本心を話したところでどうにかなるわけがない。ただ、らしくないとは思う。
「隠し事?」
誰かを思って行動したことなんてなかった俺が、唯一、矢島のためを思って行動した。
「そ。奈緒のこととかさ、色々」
それ以上に、今の俺はらしくない。
「奈緒さん?」
核心を隠すような、しかし掠めるような言い回し。取捨選択の寸前で、隠さなければならないと気付く。しかし。
「……くだらねえように聞こえるかもしんねえけど。矢島のこと、名前で呼びたくなかったんだ、俺」
考えるより前に、言葉が口を突くようで。
「似てるだろ? 奈緒と真央って」
取り繕うより前に、言葉が溢れるようで。
俺の本心は、恋情は。隠せていたのだろうか。それすらも、判らなかった。
「……うん」
村井は言葉少なに、俺の独白を聞いている。何を考えているのかは判らない。
何も判らないまま、俺は言葉だけを重ねていく。贖罪のような、懺悔のような。俺らしさに欠ける言葉を。
「それにさ、俺、矢島に嘘吐いてたし。サイテーの嘘」
俺は、誰かに許しを乞いたいのだろうか。詫びて、俺は悪くないと信じたいのだろうか。
無駄な、足掻きだ。知っている。知っているが。
「だからさ、どうしたら良かったかなんて俺にも判んねえんだよ。ただ、嘘は吐きたくなくなったんだ」
教室に矢島の姿がなかったせいだろうか。空が高いせいだろうか。
俺が、無意味な言葉を吐き出しているのは。
「……惚れてるのかもしれないよ、俺は。矢島に」
認めたくない感情を、認めようとしているのは。
俺の仮面は崩れ落ち、今はもう、ありのままの俺に成り下がっている。惚れているのも手に入れたいのも、全ての欲望は姉に向かっているはずだった。
しかし、少なくとも、今は。
「じゃあ、何で……」
素直に物事を考えるなら、その答えが一番しっくりくる。
「村井にゃ判んねえだろうけどさ、大切にするには別れるしか方法がねえんだよ」
真央に奈緒を重ねることは終わらせたかった。矢島真央は島本奈緒の代替品にはなり得ない。
ひどく単純なこと。きっと、俺は矢島をひとりの女として見ていたのだ。俺の中に存在する、姉以外の女として。
「……なあ、村井」
自分の惨めさ、情けなさ、未練がましさが、ひどく滑稽で仕方がない。
「矢島、進学先どこ?」
言葉にして初めて気付く、その鈍感さが愚かしい。
「南女子」
俺は、自分が思っていた以上に矮小な存在で。矢島は、俺が思っていた以上に巨大な存在で。自ら切り出した結末に抗いたいと願うほどに、俺は脆弱な意志しか持ち合わせていなかったのだ。
「ああ、良かった。俺、白高にしようか迷ってたからさ」
崩れ落ちた無意味な仮面の下から現れたのは、素直な感情。
「近いな、と、思って」
矢島に惚れているという、当り前の感情。
「ねえ、島本」
「何?」
今の俺ならきっと、空に手が届く。島本奈緒を、姉として見られる。
「私、島本のこと嫌いよ」
「だろうね」
俺も村井が嫌いだった。しかし、今は少しだけ感謝している。俺の話を黙って聞いてくれたこと。おそらく不要な他言はしないであろうこと。
「だから教えてあげる。真央、今でもあんたのこと好きよ」
親友思いが強過ぎるところも、悪くはない。まるで俺の姉と村井の姉のように。
「……だとしても、俺にはどうすることも出来やしねえよ」
自ら手放した恋でも、失恋というのだろうか。どうしようもない感情を恋という枷にたとえるなら、今の俺は枷に囚われている。
いつの間にか、看守は姉から矢島に変わっていたが。
「意気地なし!」
きっと俺は変わっていない。変われるはずがない。
「どうとでも罵れ」
変われるはずが、ないのだ。これ以上愚かな人間になど、変われるはずが。
「あんた最低よ。私がどんな思いで真央を」
変われるはずが、ないと思っていた。
「真央を……」
他人の感情なんてもの、気にかけたことがなかった。俺は俺だし、他人は他人だ。見えないものに縋るほど、俺は落ちぶれてはいない。
だから、普段ならきっと聞き落としていた。
「……村井?」
簡単な、真実を。
「な、何? 私何か言った? それより、ほら、早く教室戻ろ? 加藤先生来ちゃうから」
取り繕うようまくし立てる村井を見て、確信を得た。俺だけが枷を嵌められているわけではないのだと。
誰だって、恋をしているのだと。
叶わない場合だってある。はじめから諦めなければならない場合もある。俺にとっての姉への想いもそう。村井にとっての。
「ああ、判った」
矢島への想いも、そう。
「村井、俺、勇気出してみるよ」
無意味な拘りは捨てた方が良い。せっかく素直な感情を手に入れたのだから。二番目かもしれない。一番にはならないかもしれない。
それでも俺は、矢島が好きだと自覚する。
「……だから、村井も頑張れよ」
やるせない喪失感を埋めるため、俺は身勝手な行動をとる。矢島は怒るかもしれない。呆れるかもしれない。もう嫌いだと罵られるかもしれない。
しかし、それでも構わない。
今の俺が一番欲しているのは、きっと。矢島に伝えることなのだから。




