Treasure/宝物
あたしにとって今一番大事なものは何かと聞かれたら、どうしてもやっぱり島本正喜と答えてしまうと思う。どうしても。現状がどうであれ。
嫌な予感はしていた。ずっと、それとなく感じてはいた。
だからあたしは気付かないふりを続けて、いつでも島本に見せるのは笑顔にしようと決めていた。笑顔しか見せていなかった。
けれど。そんな些細な小細工で、引き止められるはずがなかったんだ。思えば、最初から。
「本当、ごめん」
既に日が落ち暗くなった窓の外では、冬の風が吹き荒んでいる。まるであたしの心のように。落ち着かず、感情を撫で回していく。
島本の口からこぼれ出す謝罪の言葉を、これ以上聞いていたくはない。
「謝らないでよ」
別れの言葉なんて、聞きたくはない。沈痛な面持ちで優しく語りかけるような島本を見ていると、我儘は言えないと気付かされてしまうから。
本当は。ここであたしが我儘を言えば、了承しなければ。そうすれば良いのかもしれない。別れたくない。本音の言葉を口にすれば、良いのかもしれない。
それなのに。あたしの口を突いて出るのは、島本を慰めるような、表面的で冷たい甘言で。
「あたしは大丈夫。だから」
心にもない、赦しの言葉で。
「そんな風に謝らないでよ」
両想いのふりをしていた島本。気付かないふりをしていたあたし。一緒にいても心からの笑顔をみせない二人。だからこれは、起こるべくして起こった事態。
「でも俺が悪いんだからさ」
我儘を言って泣きついて別れたくないとせがめば良いんだろうか。そうすれば、島本はあたしの傍に居続けてくれるんだろうか。
何かを押し殺したようなぎこちない笑みを浮かべる島本を独占する。あたしにとって、それは幸せなんだろうか。
「だから、大丈夫だってば」
教室内に誰もいなくて良かった。島本以外の人にこんな顔を見せたくはない。本当は泣いているのに涙を堪え続ける。嘘の表情、偽りの笑顔。イミテーションの赦し。
島本を拘束し続けても、気持ちが変わることはないのだから。
「しょうがないよね、こういうのってさ」
言いながらあたしを納得させる。しょうがない。仕方のないことだ、と。
「本当に矢島に悪いことしたと思ってる」
でも、嘘は吐けない。きっと島本の言葉はそう続く。
お互いに嘘を吐かず偽らず付き合えていたら良かったのに。今ならそう思う。島本の最初の言葉で気付くチャンスがあったのに、あたしはそれに気付かぬふりをして。
島本は優しくて冷たくて。あたしの心をえぐり続ける。
「別に良いよ」
本当は問いたい。何故、付き合おうなんて言い出したのか。どうして今更、別れようと言い出したのか。
「でも」
島本の言葉は断片的過ぎて、あたしには全部を理解することは出来そうにない。それでも、島本があたしを思って別れを切り出したということだけは判った。判って、しまった。
何かを隠すための偽りの恋人関係なら、解消する必要はないのだから。
「島本、最後にひとつだけ」
遠くを見続けるその瞳に、あたしの姿を映して。
「名前、呼んで」
偽りを脱ぎ捨てたその声で、あたしの名を。窓の外の枯れ色の冬景色を染めるように、一瞬の春をあたしに。
「矢島……」
何で恋なんてするんだろう。何で誰かを好きになるんだろう。何で、あたしのことを好きになってくれなかったんだろう。
島本は。島本正喜は。
「真央、ごめん」
あたしのことを、どう思っているんだろう。どう思っていたんだろう。
「本当に、ごめん。俺なんか早く忘れて」
それはきっと、不可能だ。
「もっと真央のこと大事にするような奴と、付き合えよ」
あたしにとって、全部の始めては島本だ。こんなに好きになったのも、キスも、それ以上も。だから忘れることなんて出来ない。
吹き荒ぶ風が窓を叩く。早く帰れとあたしを急かす。
「……判った」
だからあたしは嘘を吐く。大事な宝を守るため、大きな嘘をひとつ吐く。
「あたし、島本のこと、早く忘れるから」
忘れない。短い間だったけれど、偽りでしかなかったけれど。それでも、あたしにとって島本と付き合っていた期間は幸せで。
帰ったら、終わってしまう。
「それじゃ、また」
明日にはもう、ただのクラスメイトでしかなくて。
「真央!」
それでも、あたしは。
「……また、明日」
どうしても島本が好きだから。どうしても、偽りの笑顔は見たくないから。彼の心からの笑顔を見られる日が、いつかまた来るはずだから。
島本に背を向けた瞬間、あたしの視界が涙で滲んだ。泣いている姿は見せたくない。また、心配をさせてしまう。自責の念に囚われた、彼の姿は見たくない。
――矢島、俺……お前と、付き合いたいかもしんない。
最初に島本が言った言葉。かもしれない、の深い意味を、あたしは考えないようにしていた。考えたら駄目だと思っていた。念願が叶ったんだから、と受け流すよう努力していた。
結果は、既に見えていたのに。
誰にも表情を見せたくなくて、俯いたまま、廊下を進んだ。教室は、振り返れない。島本の顔を見てしまったら、あたしはまた、同じ過ちを繰り返してしまうから。
堪えたはずの涙が、あたしの頬を伝い、落ちる。廊下に落ちた雫は広がり、歪な姿をさらけ出す。まるで、あたしたちの結末。
島本の本心が判らないまま、終わりだけを迎えて。
「ヤシマオ!」
声とともに、ぱたぱたと足音が聞こえた。島本のものではない声。この声は。
「……あ、操」
奥場を噛み、笑顔を作る。あたしの喜怒哀楽は全て、笑顔に集約されるらしい。馬鹿みたいだ。あたしがこんなだから、純ちゃんも島本のこと。
「どうしたの? 何かあった?」
嘘を吐いてまで。諦めて、くれたのかもしれないのに。
「操、あのね」
委員会終わりらしい操は、鞄も持たず立っていた。教室に着くより前に、あたしに気が付いたんだと思う。
「あたし……」
島本に、ふられちゃったよ。
喉元まで出かかった言葉を、ゆっくりと確実に飲み込む。操のはるか後方に、長嶺の姿が見えたから。
「……なんでも、ないよ」
島本の親友。あたしの知らない島本を、きっと知っている存在。
「本当に? 泣いてなかった?」
島本が別れを切り出した理由を、知っているかもしれない存在。
「泣いてない、泣いてないよ。たぶん、目にゴミが入ったんだと思う」
あたしには島本が見えない。あたしには島本が判らない。判らないけれど、別れを切り出されたのは事実。
「本当? まあ、私に言い辛いんだったら、言わなくって良いけどさ」
本当は、操の胸を借りたい。泣いて喚いて叫びたい。全部吐き出せばきっと、あたしは笑えるようになる。
「……あ、そうそうそう! ねえねえ、ヤシマオ。ちょっと聞いてよ」
あからさま過ぎるくらいはっきりと、操が話題を変えてくれた。何も言っていなくても、女の子同士だから判り合えてしまうのかもしれない。
女の子同士だから。男の子とは違うから。
「前に言ってたあんたの読み、ハズレだわ」
島本とは、違うから。
「長嶺、カトちゃんのこと好きらしいのよ」
口元に指をあて、ひっそりと。操があたしに笑顔を促す。
「あんたの言う通りだったら迷惑だったし、良かったけどねえ。変なこと言うもんじゃないわよ全く」
「え? そうなの?」
だからあたしは笑って見せる。喜怒哀楽の、楽を信じて。
「そうよね、長嶺?」
「え? 何? 俺?」
ぱたぱたと廊下を駆ける音。長嶺が、困った顔であたしたちを見る。訳が判らないんだと思う。けれど、教えてなんてあげない。
「なあ、俺、何かした?」
「あたしと操の秘密だよ」
赤い目をこすり、答えた。手放した宝物は大き過ぎるけれど、あたしはまだ、笑えている。あたしはきっと、大丈夫。
あたしたちは、それでも。恋をしているんだから。




