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Sacrifice/生贄

 時の流れは残酷だ。僕の中学生活の残りが日に日に減っていることだけが実感として湧いてくるばかりで、状況は一向に変わりそうにない。

 彼女との関係は相変わらずで、それでも一学期よりも近付けているのだからという感覚と、もっと近付きたいという欲求が、せめぎ合い、僕の中で勢力争いをしている。けれど僕は欲求にこそ忠実で、結局は現状には満足していないのだった。

 身の程知らずも甚だしい。近付くことは適わないと、僕は知っているはずなのに。

 窓から吹き込む風は既に秋ではなく、冬の匂いを孕んでいる。乾燥し冷たく刺すような風が、僕の頬を撫でていく。

 もうすぐ窓は閉じられるだろう。彼女の髪が風に揺れるのを見るのも、そろそろ最後かもしれない。春になる頃には、僕たちは、ここにはいないのだから。

 体育祭も終了し、本格的な受験生としての生活が始まっていた。立ち止まることの許されない日々。前を見据え未来に向かい、歩み続けるだけの日々。彼女を見続けることの適わない日々。

 刻一刻と迫る期限。彼女の記憶に残りたい僕。挨拶だけでは満足しない、欲にまみれた僕の感情。

 いつからか、僕は欲張りになっていた。

「……お、おはよう」

 醜くどろどろとした感情ばかりに囚われて、身動きが取れないほどに。

「おはよう寺田くん」

 恋の淵から救い出して欲しい。僕に手を差し伸べて欲しい。叶わぬ願いと判っていても、僕は切望してしまう。

 こうして挨拶を交わすだけでは満足しないと、僕の中の欲望が囁く。恋というのは欲望であり、僕を蝕む病だ。どんなに理解しているつもりでも、感情が僕を突き動かす。無理な望みを抱かせ続ける。

 彼女に、近付きたいと。

「何、読んでるの?」

 手放したいのに、それすら許してはくれそうにない。赦されない感情を、抱くことを強要してくる。

「これ? リルケ」

 彼女の瞳に映りたい。彼女の記憶に刻まれたい。僕がこうして同じ教室にいたことを、彼女に覚えていて欲しい。欲求は大胆で、身の程を知らない。

「……りるけ?」

 彼女の口から紡がれる音色に酔いしれ、瞳に映る自分の姿に歓喜する。

「そう、リルケ」

 些細な出来事に一喜一憂するのはまさに恋で、けれど僕のこの想いが彼女に届くことはない。おそらくは、永遠に。

「知らない? リルケ」

「……し、知ら、ない」

 彼女の見ている世界は、彼女の住んでいる世界は。僕のそれとはあまりにも違っていて、隣に立つことなんて出来ないと、僕に念を押してくる。たとえ僕に取り柄があったとしても、彼女の世界に見合うようなものにはなり得ない。

 彼女は透明で聡明で、僕は平凡なのだから。

「小説?」

 既に本に目を落としている彼女に、僕はなおも食い下がる。迷惑な事この上ない。判っているのに。知っているのに。

 僕はそれでも、欲求に忠実だった。

「詩」

 彼女の記憶に残るのは至極難しく、目視されていたとしても、本当に見ていたのかは判らない。彼女の世界は透明で、僕のことを透かし見ているような気がして。

 冬空を思わせる澄んだ世界で彼女はただ独り佇み、僕のような人間には触れることの適わない天上から、全てを見下ろしているのかもしれない。

 風に舞う木の葉のように、一瞬で良いから空に近付きたい。その後地面から這い上がることが、不可能になったとしても。

「詩?」

 僕の問い掛けに、彼女は答えない。

 もう既に彼女は自分の世界に旅立ってしまい、傍にいるのに近くにいないのだ。触れてもきっと、触れられない。見ることも知ることも適わぬ世界に、彼女はただ存在している。

 彼女の世界を僕も知りたい。

 恋という名の欲望は時に残酷で、不可能な夢を僕に抱かせる。彼女の世界、リルケの詩。それを理解するよう責め立てる。

 けれど、恋のしもべと化した僕に、逆らう術は存在していない。

 太陽に恋い焦がれ命を落としたイカロスと同じく、僕もまた、彼女に恋い焦がれ命を落とすのだろうか。手の届かない、優しい温もりを求めて。身の程も知らず、求め過ぎて。

 太陽に憧れるのは、地べたを這う僕の宿命。透明な彼女に憧れるのは、不純な僕の当り前の感情。

 中学生活の残りは僅か。彼女と会話する機会も、あと僅か。

「……図書室に、あるかな?」

 彼女の瞳に映る機会も、彼女の心に残る機会も。全てが、あと僅かしかない。

 太陽に近付き焼け焦げれば、彼女の印象に残れるだろうか。僕の欲は果てしなく広がり、今はもう、自分でも制御が効かないほどになっていて。

「リルケ」

 彼女と同じ世界を覗き見たら、彼女に近付けるだろうか。太陽に近付けるだろうか。

 恋の淵から見上げる太陽。堕ちた僕に優しく降り注ぐ、彼女の微笑み。手を伸ばしても、届かない。

「リルケ」

 まるで呪文のように口にする、彼女の世界の手掛かり。太陽に近付く唯一の方法。蝋の羽根のように危うく、魅力的な。

「寺田くん」

 僕の名を、彼女が囁く。

「な、何?」

 辛うじて繋がっていた世界で、彼女は僕の名を口にした。

「ライナー・マリア・リルケ」

 蝋の羽を象る、彼女の言葉。

「これ、読む?」

 空を飛ぶ術を手に入れたい僕への、誘惑。

「い、良いの?」

 近付き過ぎたら命を落とす。憧れ過ぎたら命を落とす。分不相応な望みを抱き、天に近付き過ぎたらきっと。

「私、もう何度も読んでるから」

 きっと、堕ちる。

 けれど僕はもう既に恋に堕ちていて、今更堕ちることなど恐れていない。それに何より、欲望という名の僕の主が、拒否することを望んでいないのだ。

「……はい」

 優しく照らし、僕を溶かす。彼女の存在に気付いた瞬間から、僕の罪は始まった。罪を重ね、上塗りし。それでも僕は自分にだけは忠実で。

 適わないと知っているのに。それでも僕は、近付こうとする。彼女に。彼女の、空気に。

「あ、ありがとう」

 手渡された本を胸元で抱え、漂う彼女の空気を感じる。触れられているのだろうか。僕は、空気に。

 けれど不思議と呼吸は苦しくなく、むしろ、心地好かった。たとえるならば、空を飛んでいるよう。浮遊感が、僕を蝕む。これはきっと、蝋の羽。僕を誘う太陽からの。

 ならば僕は。

 踏み締めるようゆっくりと、自分の席に向かって歩く。羽ばたく。落ちないよう、堕ちながら。

 振り返り彼女を見ると、既に他の世界に旅立っていた。静かに佇む彼女の髪が、風に撫でられさらりと揺れる。窓から吹き込む冷たい風は、僕の頬をさすって消えた。

 流れる風は、彼女にも僕にも触れていく。等しく、冷たく。

「おはよう、寺田。なあ、久保となに話してたん?」

 撫でるように、刺すように。愛でるように、突き放すように。彼女に、僕に。

「……え? な、何が?」

 僕の席と程近い長嶺が、軽く探りを入れてきた。一部か始終かは判らないが、彼女との会話を見られていたのだろう。

 別に隠す必要はないけれど、僕は曖昧に誤魔化す。僕だけの秘密にしておきたい。ささやかな、彼女とのやりとりは。

「てか、何でもねえし。それよりさ、今日寒くね?」

 誰にも知らせない、誰にも知られない。僕だけの秘密。彼女の本。

 長嶺に気付かれないよう、そっと鞄の中に移した。僕の手にした蝋の羽。使いこなせるかは判らない。けれどとても大切な。

「確かに。何かもう冬っぽさ全開だよな、朝は特に」

 僕は本と引き換えに、大事なものを彼女へと差し出した。それは彼女には必要のない、僕だけの大切な。

「だよな息とか白いし。そろそろマフラーすっかな」

 僕の大切な、感情。恋と呼ぶには恐れ多く、憧れと呼ぶには膨らみ過ぎた、僕の望みの全て。

 蝋で作った鳥の羽を背負い、僕は羽ばたく。天高く舞い上がり、彼女に近付き、やがて堕ちても構わない。

 ほんの一瞬でも彼女に近付けるのなら、それでも僕は、構わない。

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