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Quiet/静かな

 最近の僕は少しだけ、空気に近付けているような気がする。

 修学旅行以来、僕は彼女と、僅かだけれど会話を交わせるようになっていた。微かだけれど、空気に触れられるようになっていた。

 窓際に佇む彼女を眺めながら、僕はぼんやりと授業を受けている。内容は頭に入らない。見えるのは、彼女の姿のみ。

 遠くから聞こえる朗読よりも、今朝の彼女の声の方が僕にとっては鮮明で。ただ一言の、おはよう、のみで、僕は彼女に包まれる。僕は包まれている。

 緊張と罪悪と期待が折り混ざった感情が、僕の身体を支配していく。罪と恋と欲が、僕の心を突き動かす。

 僕は、僕に忠実なしもべ。

 逆らう術を知っていても、抗う方法が判っていても。僕は僕の欲望に従う。従う心地好さに、気が付いてしまったから。

「寺田。教科書の続き、音読して」

 社会科の角田先生に唐突に指名され、僕は慌てた。どこを読んでいたのかなんて知らない。聞いていない。覚えていない。

「あ、え、と。何ページですか?」

 教室中が笑いに包まれたが、僕は焦りでそれどころではなかった。ただでさえ僕はあまり頭がよろしくないのだから、せめて授業くらいは真面目に受けなければいけないはずなのに。

 すでに癖になりつつある方角に目を向けると、彼女が僕を振り返り、くすくすとおかしそうに笑っていた。

 彼女の笑顔を見たのは、初めて、かもしれない。

「二百三十ページ」

 どこからともなく聞こえてくる長嶺のものらしき言葉に促され、僕は慌てて教科書を開いた。

「え、えっと……」

 ひどく恥かしい状況だけれど、彼女の笑顔を見られたので良しとしよう。僕の行動原理はとても単純で、悪魔の囁きにのみ忠誠を誓っていて。

 彼女に近付く。それが僕の目標の全てだ。もちろん、今更勉強で追いつけるとは思っていないので、それ以外の部分で。

 たとえば、空気。触れることが叶っても、僕のそれは彼女からは遠くて。

 たとえば、眼差し。彼女のまっすぐな瞳には、僕の姿は映らなくて。

「……が、結ばれた。そして……」

 僕は教科書を音読しながらも、彼女のことばかりを考えていた。成績の悪さを補わなければいけないはずの授業だけれど、そんなことは些細な出来事にしか思えなくて。

 恋に堕ちた瞬間から、僕は彼女以外のことは考えられなくなっている。囚われたのは、僕の心。僕の全て。

 終業を告げるチャイムの音が響き渡り、僕は教科書から解放された。

「……寺田、おまえさあ、ぼけっとし過ぎじゃね?」

 僕の机の脇に立ち、優等生が僕を罵る。いや、罵りではなく愛の鞭だろうか。島本は何だかんだと理由をつけながらも、結局は結構良い奴なのだ。

「そうかな?」

 先日押し付けられた応援旗のせいだと誤魔化し、彼女のことは口にしない。おそらく気付かれているとは思うけれど、島本も長嶺もクラスの他の連中も、彼女のことが好きなのかどうか、僕に直接訊いて来ることはなかった。

 それは、とても有難い。

「僕は勉強以外は得意だからね。見返してやるぜ」

 僕なんかが彼女に好意を寄せているというだけで、彼女にはきっと、迷惑を掛けてしまうから。

「誰を?」

 明らかに彼女の方を見ながら、島本が問う。やっぱり絶対に、僕の気持ちはばれている。口元のにやついた様子からも、それは明らかだった。

「みんな」

 けれどそれに気付いていないふりをして、僕は答える。島本はそんな僕の様子に気が付いたようで、視線を彼女から僕へと移した。軽い溜め息ともとれる呼吸と共に、呟く。

「……まあ、確かに」

 親友にすら恋心を打ち明けていない僕に対する、苛立ちかもしれない。少し苦い顔をした島本は、今度ははっきりと溜息を吐いた。

「長嶺のあの絵はないよなあ。やる気殺がれるわ」

 僕の考え過ぎだろうか。島本の溜息の原因は僕ではなく、長嶺の描いた応援旗に対するものだったらしい。或いは、僕に気を使ってそう捉えられるように仕向けたのだろうか。

 賢い島本の考えることは、僕にはよく判らない。

「俺がどうかした?」

 自分の名前を耳にし、長嶺が不機嫌そうに漏らす。自分の席から立ち上がり、僕たちの方へと歩いてきた。

 出迎えるように、島本の先制攻撃が決まる。

「お前のセンスのなさにはほとほと呆れるよって話」

 しかし、それを長嶺が受け流す。

「センス? 何が?」

 僕は島本の尻馬に乗り、芸術センスのない親友に文句を言った。

「応援旗。せっかく僕は一番楽な係だったってのに。押し付けやがって」

 混ざり気のない、純然たる文句だ。体育祭の前日以外は何もすることのない、一番楽な係に決まっていたのは事実なのだから。

「良いじゃん、俺が代わりにライン引き係引き受けてやっからさ。な?」

「当たり前だっての」

 いや、長嶺のことだから。こうして確認をしておかないと、ライン係まで僕の担当になってしまう可能性があった。そういう意味では、確認が出来て良かったのかもしれない。

 とはいえ、応援旗係を快く引き受けたわけではないのだけれど。

「あーあ、島本は良いよな。リレー選抜って楽そうで」

 そんな僕の心中の些細な葛藤には気が付いていないらしく、長嶺は悠長に話をすり替えた。

「んなことねえよ。放課後に残ってバトン受け渡しの練習とか、面倒でしょーがねえわ」

 島本はそう言うが、応援旗を押し付けられるよりはマシのような気がする。

 煌めく流星は絶対だ、と元応援旗係に言われても、どこがどう煌めく流星だったのかさえ、僕には全く判らない。おまけにもう一人の係であるはずの小野が、デザインが出来たら教えて、などと言って全く手伝う気配を見せてくれないのだ。

 僕は何故、こんなにまで面倒な係を、押し付けられているのだろう。

「あーあ。体育祭すげ面倒だなあ」

 ぼやきたいのは僕の方だ。もしも万が一、僕が頑張ることで彼女が喜んでくれるのならば、頑張り甲斐があるような気がしなくもないけれど。

「でも授業が潰れるのは良くね?」

 とはいえ、そんなはずもなくて。

「まあね。ああ、いや、でもなあ」

 僕は様々な思いの混じった溜息を吐いた。

 授業がなくなるのは嫌ではない。しかし、体育祭が終わってしまったら、本格的に卒業へ向けて歩みだすことになってしまう。

「中学最後の思い出作りって奴? 楽しまなきゃ損っしょ」

 今という時間は、二度と戻っては来ないのだ。だからこそ、僕は。

「卒業したくねえんだって、僕は」

 今を大切にしたいし、彼女の存在を心に刻んでおきたい。僅かな会話だけでは満足しないと、僕の中の欲望が囁く。

「あ、そっか。寺田は高校受験に失敗の予定なんだっけ?」

「そんな予定あるワケねえし。てかそういうんじゃなくて」

 彼女と。久保弥生と違う学校になってしまうから。

 けれど、そんなことを口に出来るはずもなく。僕は黙って不貞腐れた。

「本気で勉強するんだったらさ、俺が多少は教えてやんよ」

 目を細め秋空を睨みながら、島本が提案する。

「報酬とんだろ、どうせ。びた一文払わねえかんな、僕は」

「いや、無償でやってやる。俺様は余裕だからな。暇潰し」

 嫌味でなくこういうことを言える島本が、少しだけ腹立たしい。

「暇潰しで勉強見るって、島本、おまえ、どんだけだよ」

 彼女と同じ高校に進むであろう島本が、少しだけ羨ましい。

 彼女の偏差値に遠く及ばない僕なんかでは、彼女と釣り合いがとれるはずがない。判っていたつもりなのに、何故か、それが悔しい。

 ふと、もうすでに癖でしかないのだろうけれど、彼女の方に視線を向けた。彼女は今日もまた、本を読んでいる。

 僕が図書室にいる日だけでなく、他の日も。彼女は図書室には現れない。前に一度、図書室の本の貸し出し履歴を確認してみたけれど、彼女の名前は見付からなかった。何を読んでいるのか知りたかった僕は、やはり彼女に近付くことは赦されていないのだと。

 当り前の事実を、痛感した。

「いやさ俺、暇だし」

 窓から吹き込む秋風に撫でられ、彼女の髪が揺れている。

「いいよ別に。僕は僕でそれなりに頑張ってんだからさ」

 彼女は陽だまりのように穏やかで、静かで。

「意地張るなっての」

 空気に近付けたと思っているのは僕だけで。きっと、少しも近付けてなどいないのだ。

「張ってねえっての」

 けれど、それでも構わない。僕の中の欲望は、もっと近くに行くように急かすが、僕にはこれ以上は適わない。叶わない。きっと。

 だから僕は、彼女の穏やかで静かな空気を乱してはいけない。どんなに僕の欲望が僕を急かしても、従うことの心地好さに気付いてしまっても。

 僕にはこれ以上、進むことは、かなわない。

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