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 国境の長いトンネルを抜けても、そこには青空が広がっていた。

 修学旅行で東北に向かう新幹線の車中、僕はいつもの如く、長嶺たちと連んでいる。

「よっし。寺田ババ残り」

 ボックス席でトランプをしながら、僕たちは目的地に着くのを今か今かと待ち望んでいた。だからどうしても興奮は高まり、いつも以上に騒がしくなり。

「腕出せ腕。罰ゲームはしっぺだったよな」

「聞いてねえよ、つか決めてなかったろ?」

 声はいつもより大きくて。

「んなもん常識だってえの。ほれ、腕出せ」

「ヤだよ島本のしっぺ、ひでえ腫れんだぞ」

 学びを修める旅行、からは程遠い。

「負けるから悪いんだよ。諦めて腕出せ腕」

「ヤだっつうのマジで」

 まるで小学生の遠足だ。けれど、中学生活最大のイベントなのだから、そうなることも致し方がないとは思う。

「寺田、素直になれよ」

 テンションの高さは、普段の比ではなく。狭い新幹線の車内は、どうしようもなく浮かれた空気に包まれている。

 彼女の、周囲以外は。

「僕は素直だってえの」

 窓際の席に座り独り静かに本を読む彼女は、柔らかそうな白いワンピースを着ている。

「はいはい、自己紹介お疲れさん」

 清楚で美しく、彼女にとてもよく似合っている。

「だから名前のスナオじゃねえし」

 修学旅行が私服で良かったと、僕は心から思った。

「いいから早く腕出せって」

 見るだけなら、赦して欲しい。憧れるだけなら、認めて欲しい。決して近付きはしないと、誓うから。

「ちょ、話すっ飛ばすなよ」

 長嶺が僕の腕を掴み、長袖Tシャツを捲ろうとする。僕はとっさに腕を引いたが、島本に抑えられてしまった。

 端的にいうならば、絶体絶命。

「止めろってバ……痛え!」

 無駄な抵抗も虚しく、僕の腕には真っ赤な痕が付いていた。気のせいでなければ、目には涙が滲んでいる。

「マジ痛えし! 骨が骨折した!」

 大袈裟なリアクションを取って誤魔化そうと試みるが、滲んだ涙は誤魔化せない。ひりひりと痛む腕をさすり、僕は不機嫌な顔で座席に深く腰掛けた。

「寺田、骨を折るから骨折だろ?」

 島本が優等生らしいツッコミを入れる。そういえば、最近の島本はあまり優等生ぶった素振りを見せていない。

 元々休み時間は本性をさらけ出していたので、僕としてはあまり違和感がないのだけれど。

「うっさい!」

 島本が変わったのは、矢島と付き合い始めてからだろう。

 情にほだされたのか、島本は気付いたら矢島と付き合っていた。何度となく告白されていたのは知っていたし、何度となく振っていたのも知っていた。だから今更付き合うことにした、というのが、僕にはよく判らない。モテない男の僻みと言われれば、それまでだけれど。

「第二回戦やるぞ、寺田」

 長嶺が嬉々として提案したが。

「あっそ。僕、観戦する」

 僕は乗らない。僕にババ抜きは向いていない。長嶺はああ見えて引きの強さが天下一品だし、島本はポーカーフェイスが得意な上、心理戦にも長けている。

 勝ちようがない。どう考えても、僕の一人負けにしかなり得ない。

「二人じゃババ抜きになんねえし」

「矢島とでもやりゃ良いじゃんか」

 はじめから、やらなければ良かったのかもしれない。

「てか女にゃ罰ゲーム出来ねえし」

 島本の戯言を聞き流し、ほんのり腫れた腕をさすりながら、あからさまな嘘を吐いてみる。

「あら嫌ですわ。僕は女ですのに」

 しかしもちろん、通じるはずもなく。

「嘘吐けボケ。いいから始めんぞ」

 つくづく思う。僕の友人は、僕とは違って優秀だと。

 もしも僕が島本くらい勉強が出来たならば、彼女に声を掛けられただろうか。もしも僕が、彼女に対して引けを取らない男だったならば。

「島本、あたしたちも参加する!」

 いつの間にか通路に立っていた矢島が、唐突に声を上げた。後ろには、村井もいる。

「じゃあ、僕は見学で」

 二人増えるならば、僕が抜けても大丈夫だろう。

「駄目。寺田も参加で」

 しかし長嶺は、僕を参加させたくて仕方がないらしい。

「ヤだっつうのマジで」

「良いじゃん人数多い方が楽しいし。ね?」

 長嶺の提案に乗り、島本の彼女が僕の腕を引く。判ってはいるつもりだけれど、女子に触れられるのは、少しだけ。

「判ったやるよ。参加すりゃ良いんだろ?」

 少しだけ、別の意味で興奮する。矢島は別に、僕の好みでも何でもないのに。

 四人掛けのボックス席では五人も座れないので、必然的にというか僕のキャラクターのなせる業というか、椅子がないのは僕らしい。気付けば座席が埋まっていた。仕方なく、通路にしゃがみ込む。

 矢島のスカートがやけに短くて、若干目のやり場に困る。村井はジーンズなので、問題ないけれど。

「……罰、あり?」

 なるべく矢島を見ないようにしながら、僕は誰にともなく尋ねてみた。

「何? 罰って?」

 不思議そうに聞き返す村井に、僕は腫れた腕を見せる。

「コレ」

 痛々しい赤い腕を見て、村井が険しい顔をした。当たり前だ。くっきりと浮かぶ指の形は、どう考えても酷い有り様で。

「うわ、凄いね。長嶺?」

 驚かない方がどうかしている。

「島本」

 トランプを配る島本を軽く睨みながら、村井に答える。気のせいでなければ、ほんの少しだけ、村井の顔が曇ったように感じた。

「大丈夫。連帯責任で矢島たちの分は島本が引き受けるから」

 配られたカードを確認し、長嶺が呟く。

「なあ? 島本」

 残り枚数が既に少なくなっているあたり、長嶺は本当に引きが強い。

「へ? 俺が?」

「そりゃそうだろ、カノジョなんだからさ」

「……まあ、そうだけど」

 かなり不満げな声で、島本は了承した。僕がもしも島本の立場で、彼女のことを護れるというのであれば。

 僕は喜んで両腕を差し出すだろう。不満なんて微塵も感じることなく、彼女の細くしなやかな腕を護り通すのだ。

 少し気になり、ちらと彼女を見た。

「誰から?」

 窓の外を流れる景色を確認するように、彼女は顔を外に向けている。ここからだとはっきりとは見えないけれど、おそらくは。

「さっき負けたから寺田からで良いんじゃね」

 気のせいでなければ、少し、顔色が悪い。

「僕から?」

「そうそう。ほら、ちゃっちゃと引けってば」

 そういえば、さっきまで読んでいたはずの本も閉じられている。

 僕は言われた通りに長嶺の手札から一枚引き、自分の持ち札と比較した。なんとなく想像は付いていたけれど、やはり一組も出来ていない。僕は本当に運がない。

「はい村井」

 カードを引き易いように差し出し、横目で彼女を確認した。やはり、顔色が悪い。青ざめ、表情も強張っている。

 ひょっとしたら、彼女は。

「やった! ありがと寺田」

 本格的に調子が悪いのかもしれない。

「はい、次、真央の番だよ」

 もしもそうだとしたならば、僕はどうすべきなのだろう。

「純ちゃんババ持ってる?」

 彼女に近付かなければ、確認も介抱も出来やしない。けれど、このまま放って置く気にはなれない。

「秘密。教えてあげないよ」

 だからといって、僕が彼女に触れるわけにはいかない。それでも。

「……僕がババ持ってるよ」

 落ちている天女の羽衣を、風にさらわれないよう手にするのは罪ではない。理由があって彼女に触れるのは、罪ではない。

 きっと、赦される。

「寺田? 何言ってんの?」

 彼女が、久保弥生が赦さなくても、僕が許す。

「……な、僕の負けだから」

 手にしたカードを皆に見せ、立ち上がる。ゆっくりと、決意を固めるように一呼吸。そのまま、歩き出し。

 向かうのは、彼女の元。誰も彼女の顔色に気付いていない今、手を差し伸べられるのは僕だけなのだ。僕だけが、彼女に触れることを赦されている。

「寺田?」

 長嶺の声は気にせずに、僕はまっすぐ彼女のもとへと向かった。

 気持ちが公になろうが構わない。元々、僕と彼女では釣り合いがとれるはずもないのだから。

 しかし、意気込んではみたものの、彼女に近付くにつれ、僕の動きは鈍くなっていく。周囲の空気が変わっていく。呼吸が、出来なくなっていく。

「……あ、と。く、久保、さん?」

 一人で端の席に座る彼女に、からからに乾いた喉で声を掛けた。僕は今、彼女の空気に触れている。

「何?」

 彼女の呼吸音が聞こえる。

「だ、大丈夫? 顔色、悪いけど」

 皆の視線は不思議と気にならない。けれど、心臓の鼓動が激しくて。

「大丈夫」

 僕のことを、彼女が見ている。彼女の視界に僕が入っている。

「でも、あの、えっと、顔色……」

 それだけで、僕はもう。もう、何も出来なくなってしまう。

「少し、寝不足なだけだから」

 青白く染まった彼女の頬が、かすかに動く。言葉を発するには顎を動かす。そんな当たり前のことに、僕は密かに感心やしていた。

 彼女も、普通の女子なのかもしれない。

 彼女の空気が僕を包んでいるからだろう。僕は冷静なふりをしてみたけれど、内心は動揺が激しく、考えが全く纏まらない。

「横になる?」

 僕は何を望んでいるのか。彼女に近付かないと誓ったはずなのに、今は彼女の目の前に立っている。目の前で立ち尽くしている。

 何も出来やしないのに。僕のような存在では、彼女の役には立てやしないのに。

「……平、気」

 弱々しく呟く彼女の声が、僕を貫く。全然平気そうには見えないのに、彼女は平気と答えている。

 僕が、そう答えさせている。

「久保、大丈夫か?」

 突然ババ抜きから逃げ出した僕を追ってか、長嶺が後ろから声をかけてきた。僕の背中越しに、彼女の様子を見たのだろう。心配そうな口調だった。

 長嶺は僕と違って彼女に欲を感じていないから、僕と違って普通に声を掛けられる。そんな場合ではないと判っているのに、嫉妬と羨望が僕の中を渦巻く。

 僕は醜く矮小な存在だ。

「長嶺、僕の鞄から水持って来て」

 彼女に声を掛けるのは叶わなくても、長嶺になら掛けられる。妬みのせいか多少きつくなった口調で、僕如きが指示を出す。

 長嶺は黙って従い、僕の鞄を持って来てくれた。受け取った鞄の中からペットボトルを取り出すと、念のために放り込んでいたタオルに、ミネラルウォーターを染み込ませる。

 あまり綺麗とはいえないかもしれないけれど、氷嚢の代わりに使うことは可能だろう。

 とっさにこんな行動をとるなんて、僕らしくない。僕らしくないけれど、間違ってはいないはずだ。

 濡れたタオルを彼女に手渡し、座席で横になるよう促した。彼女はそれに、渋々従う。彼女が、久保弥生が座席で横になる。

 艶やかな黒髪が零れるようにさらりと床に垂れ、潤んだ瞳で僕を。

「お節介ね……」

 僕を、見上げている。水を含んだタオルを額に乗せ、苦しそうに呼吸をしながら。彼女が、彼女の瞳が、僕のことを捕らえた。

 彼女の視線が僕を射抜く。心臓を貫かれた僕は、既にもう僕ではなくて。

 たとえるならば、メデューサに魅入られた青年。彼女の瞳を認識した途端、僕は石になったのだ。呼吸も、心臓の鼓動も必要ない。彼女の姿を脳裏に永遠に焼き付けるだけの、ただ塊になり上がる。

 口元を微かに歪め、彼女がゆっくりと言葉を発した。

「……寺田くん」

 僕は、彼女の役に立てたのだろうか。

「ありがと……」

 彼女が僕を、僕の存在を。間違いなく、確実に。

「……少しだけ」

 認識している。天上人に見初められた僕は、きっと。

 きっと、有り得ないほどに舞い上がり、高く高く果てしなく遠くの空まで、意識を飛び去らせてしまうのだ。彼女の空気の一部になって、溶けて、消えてしまったとしても。

 僕は本望だと、胸を張って主張する。胸を張って、主張したい。僕にとってこの旅行は、間違いなく。

「楽に、なった」

 間違いなく、契機になる。彼女に近付く、きっかけになる。

 彼女と同じ空気を纏い、僕の存在を記憶に刻んで貰う。少しだけ、願う。赦しを乞う。彼女に触れることを。堕ちた僕を救い上げる手を。

 触れることは適わないと思っていた。彼女の空気に、肌に。

 願いは叶うと、より深くなる。僕はきっと、ひどく欲深い。けれどこの黒い感情をも、彼女の纏う空気が浄化してくれる。どこまでも透明な彼女が。

「良かった……」

 ただの願望かもしれない。それでも僕はそんな気が、した。

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