表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/26

Air/空気

 僕は今日も、彼女のことを目で追っている。

 きっかけだとか理由だとか、そういうものは判らない。ただ僕は、彼女を見ることが好きなのだ。

 彼女は誰かと話すこともなく、静かに本を読んでいる。いつもそう。本を読む彼女を眺める。ただそれだけで、僕の心は満たされていく。

 席が適度に離れていて良かった。窓際の一番前の席に座る彼女を眺めていても、僕が彼女を見ているとは誰も思わないだろう。

 窓の向こうには桜の木。満開に咲く花を背景に、彼女は静かに座っている。まるで彼女も桜の木の一部のようで。

「なあ、寺田」

 触れたら消えてしまいそうな気さえした。

「何?」

 前の席に座る長嶺になおざりに答え、彼女を見続ける。長く艶やかな彼女の髪が、春の日を浴びてきらめいていた。

 触れてみたい。けれど、触れてはいけない。

「いや、ぼーっとしてたからさ」

「そう?」

 彼女に近付いてはいけない。彼女の纏う空気を穢してはいけない。

「あ、桜?」

 長嶺が僕の視線を辿る。

「満開だな」

 長嶺の目に、彼女は映らない。透き通り、桜の木と同化し。彼女は透明で、澄んだ空気のような存在で。

 名前を知っていても、存在を知っていても。彼女をしっかりと目で捉えることは、きっと、誰にも出来ない。

「来年はもう見れねえんだよな」

 僕たちは、中学三年生で。来年はもう、この校舎にはいない。

「珍しいな、長嶺がそんなこと言うなんて。何だよそれ」

 当たり前の顔をして、時は静かに流れていく。

「いやマジで。やっと三年なんだよなあとか思ってさ」

 彼女を見続けられるのは、卒業までの僅かな時間。その間に、彼女に僕の存在を認識して貰えるだろうか。

 仲良くなりたいなんて思わない。会話を交わしたいなんて願っていない。

 彼女の視界に入ることが適えば、僕は、満足だ。

「でもまだ四月だし」

 チャンスは、きっとある。席替えで近くにでもなれば、僕を認識してくれるかもしれない。

 願わくば、彼女を見詰め易いよう、窓際で。

「でももう三年だって」

 僕の願いを否定するかのように、長嶺が夢のない一言を吐いた。

「まだ、だっての」

「もう、だっつうの」

 この論争に終わりはない。時の流れは残酷で、主観によって早くも遅くも変化する。

 僕はもっとずっと、この場に立ち止まっていたい。長嶺はきっと、早く大人になりたいと願っている。

「……朝っぱらからうるせえなあ」

 僕と長嶺の頭を小突き、いつの間にか後ろに立っていた島本が呆れ顔を見せた。僕と長嶺と島本は、小学校からの腐れ縁。体の良い表現をするならば、幼なじみというやつだ。

 長嶺が引っ越して来たのが小学校四年生の時だから、かれこれ結構長い間、友人をやっていることになる。

「島本、中学生活の残りは長いよな?」

 同意を求め、長嶺が尋ねる。

「まあ、もうすぐやっと大人になれるんだっつう気はするわな」

 島本も大人になりたいらしい。立ち止まっていたいのは、僕だけなのかもしれない。

 このまま進みたくない。留まりたい。彼女を眺められなくなるのが嫌だから。他に、理由なんてない。

「高校かあ」

 僕たちの中では島本が一番賢くて、僕が一番成績が悪い。初めての受験に戦々恐々としているのは僕だけで、二人には余裕がありそうに見える。

 まあ、まだまだ先だから実感が沸かないというのは、大いにあるのだろうけれど。

「……落ちたらどうしよ」

 僕のお得意、ネガティブ発言。自虐ネタのようなもので、もちろん全く本心ではなく。

「したらば大笑いしてやるよ」

 言葉だけだとひどく友達甲斐のない発言に聞こえるのは、島本の戯れ言。口の悪さと悪化しつつある視力のせいで、何というか、取っ付き難く見える島本は、それでも結構良い奴で。

「で、まあ。時給千円で勉強教えてやるかな」

 家が近所だからか、物心がつくより前からの友人でもあり。

「高えよ。てか、落ちる前に教えろっての」

 気の置けない仲だったりもする。

「これでも友人割引してやってんだけどなあ」

 悪びれる様子もなく賢さをひけらかす辺り、性格がひねくれているような気がしなくもないけれど。

「じゃあ本来はいくらなんだよ?」

 それでも、彼女の方が成績は上だ。

「少なくとも時間あたり三千円は戴きたいかな」

 趣味が悪いことに、テストのたびに成績上位者が廊下に張り出されるうちの学校では。

「高過ぎだって」

 彼女の名前を知らない人はいない。久保弥生。無口で無愛想で、近寄り難い優等生。

「うるせえよ。俺に勉強教えて貰えるだけでも有り難いと思いやがれ」

 僕にとって大切な、鑑賞用のクラスメイト。

「……でもさ、うちのクラスだったら島本よか久保のが勉強教えるの上手そうじゃね?」

 ふいに彼女の名前が出されたので、僕は思わず息を呑む。誰も僕の感情は知らない。どんなに仲が良かったとしても、秘密にしておきたいことはある。

 恋愛未満の僕の気持ちは、そういう類のものだ。

「久保は教えてくんねっしょ。あいつが誰かと話してんのって俺見たことねえし」

 もしも彼女と会話が出来たならば、僕はきっと。

「確かに」

 どうしようもないほどの満足感で、命を失うような気がする。彼女の穢れなき空気を浴び、満開の桜に満たされた天国へと旅立つように。

 僕にとって彼女の存在は、何と表現すれば良いのか。近寄りたいけれど、近寄りたくない。言葉を交わしたいけれど、言葉を交わしたくない。

「……久保ってさ、空気みたいだよな」

 長嶺が例える。僕の思っている感覚とは違うのだろうけれど、空気というのは判る気がする。

 透き通り、当たり前のように存在していて。彼女がいない教室はきっと、息苦しくて落ち着かない。

「そうだな」

 桜の木と彼女を見詰めながら、僕は答える。この感情が恋になる日は来るのだろうか。

 ふいに、始業五分前のチャイムが聞こえてきた。

「やっべ。カトちゃん来ちゃう」

 カトちゃんは、加藤先生は、このクラスの担任だ。若くて独身で、そこそこ美人で。そして何より。

「なあ寺田、俺、髪型おかしくね?」

 長嶺が身だしなみを整え始める辺り、判り易過ぎる。僕と違って、長嶺は隠し切れていない。

「おかしかねえよ」

 大人になりたい理由。留まりたい理由。僕たちは、それぞれ理由を抱えている。

 大人でもあり、子供でもあり。部活や勉強に打ち込んでみたり、恋をしたり、ふざけ合ったり。

 毎日が新しくて。昨日と同じ日は二度と来ないのだと、最近ようやく気付き始めた。

「今日アレだっけ? 委員会決め」

 内申を良くするには、何かしらの委員会に入った方が良いのかもしれない。内申ではなく先生の心象を良くしたいらしい長嶺は、学級委員にでもなろうかと呟いている。

 部活も特にやっていなかった僕は、本当ならば何かしらを引き受けた方が良いのだろう。でも何と言うか、一言で表すのなら、面倒で。

「長嶺頑張れよ」

 もしも彼女が何かしらの委員会に立候補するのならば、その時だけは、考えてみたいような気がする。

 動機が、不純だけれど。

「は? 何がだよ」

 一切ばれていないと思っている長嶺が、顔を赤くして反論した。僕にも島本にもとっくにばれているのに、長嶺は頑なに否定する。

 カトちゃんは良い先生だと思う。けれど、僕にとってはそれだけだ。他の先生と同じで、特別な感情を抱くような相手ではない。

「学級委員長、推薦してやるよ」

 先生の前では優等生ぶっている島本が、長嶺の背中を力一杯ばしばし叩いた。授業中には絶対に見せない姿だと思う。

「俺が委員長なら寺田は図書委員な」

 長嶺の一言でとばっちりを食らいそうになり、僕はすぐさま反論した。

「何で?」

「勉強しろっつう教えじゃ」

「必要ねえし」

 図書館に行くだけで賢くなれるのならば、毎日通っても良いだろう。けれどそんなことは有り得ない。

「あ、俺も賛成な。一緒に西高行こうぜ」

 西高はこの辺りでは一番賢い公立の進学校で、当然僕なんかに行けるはずがなくて。

「行けるか!」

 やっぱり島本は、性格が悪いかもしれない。

「同じ高校行きたいなら、島本がレベル落とせよ」

 うちのクラスから西高に行けそうなのは、島本と。

「嫌だね。うちは姉弟みな西高って決まってんの」

 彼女くらいだ。

「理由になってねえよ」

 もちろん行けるのならば、彼女と同じ高校が良い。

「いやいや。爺ちゃんの遺言だし」

 そうすれば、この先も彼女を眺め続けることが出来るのだから。

「島本の爺ちゃん、ぴんぴんだろうが」

 同じクラスになったのは、今回が二度目。

「それはどうかな」

 去年の秋頃から、僕は彼女に視線を奪われ続けている。どうしてか。僕にとって彼女は、特別な存在になっている。

 二度目のチャイムと共に、教室の前の扉が開いた。

「こら。とっくに朝のホームルームの時間になってるわよ。島本くんたち、早く席に着きなさい」

 カトちゃんが注意する。島本くんたち。先生から見たら、優等生ぶっている島本が、僕たちの中では一番名前を呼び易いのかもしれない。

 長嶺くんたち。そう呼ばれる日は来るのだろうか。

 僕の前の席に長嶺は座り、島本は少し離れた廊下側の席に向かう。前を向いてしまったので長嶺の表情は見えないが、きっと、不機嫌だ。

 頬杖をつき、足を揺すっている。かなり、不機嫌だ。

「じゃあ、これから朝のホームルームを始めますね」

 先生の声が教室内に響く。カトちゃんの声に反応し、長嶺の機嫌がみるみる回復していくのが判る。

 これでばれていないつもりだというのが不思議だ。判り易過ぎる。

「カトちゃん、今日は委員決めですか?」

「こら。私のことはカトちゃんじゃなく加藤先生って呼びなさい」

 口うるさい小野が、立候補する気満々で尋ねた。何で女子はあんなにやかましいのだろう。そのくせ僕たちに『男子うるさい』とか言うのが気に入らない。うるさいのはどっちだよ。

 僕は、彼女以外の女子には興味が持てそうになかった。

 他の女子はやかましくて仕方がない。女が三つで姦しい。びっくりするほどしっくり来ている。

「まあ、委員決めはするんだけどね」

 クラスの女子だけではなく、先生も同じだろう。彼女以外は皆、同じだ。

 窓際に視線を移すと、彼女の姿が目に入った。透明な彼女と満開の桜。僕の心の清涼剤。

「今からプリント配るわよ」

 青空に溶けてしまいそう。空よりも遠く、桜よりも儚く。彼女はそこにいる。僕の目には映っている。

 はらはらと舞い散る桜の花弁を背景に、彼女は静かに。

「寺田……」

 興味なさげに、教室内を見回している。

「……おい」

 気のせいでなければ。

「プリント。ここ置いとくぞ」

 僕の気のせいでなければ。

「あ? ああ」

 一瞬、目が合った。

 時の流れは曖昧で、主観によって早くも遅くも変化する。彼女と目が合った。ほんの一瞬の出来事が、僕の中で永遠に変化していく。

 深く黒い瞳が、艶やかな長い髪が。彼女を取り巻く透き通った空気が。

 残像になり、僕の脳裏に焼き付いた。

 この一瞬の奇跡を、僕は一生忘れない。僕は一生、忘れたくない。

「……おい」

 腹立たしげな長嶺の声に、はっとした。

「え?」

 何度か話しかけられていたらしく、少し苛立った様子で長嶺が僕の机を叩いている。

「紙、配られたろ? 回収するから早く書けよ」

 いつの間にか机の上に置かれていたプリントには、長嶺の汚い字で僕の名前が書かれていた。

「俺の名前は書いといてやったから」

 学級委員の欄には長嶺礼人、図書委員の欄には寺田直。他の欄は空白のままで。

「消してやる」

「何でだよ?」

 何でも何も、僕は委員会なんて入るつもりは毛頭ない。長嶺の名前は残しつつ、僕の名前は消そうと思う。けれど。

「はい。それじゃ、回収するよ」

 先生の一言で、プリントを修正する時間が奪われてしまった。

「馬鹿長嶺!」

 紙を手渡しながら、長嶺に文句を言う。

「良いじゃん一緒に委員会やろうぜ」

「僕にはメリット全然ねえだろ」

 たとえば彼女が図書委員になるとでもいうのならば、メリットがあるかもしれない。けれど彼女はやらないだろう。

「ちょっとそこ、長嶺たちうるさい」

 口うるさい小野が、わざわざ振り向いて僕たちに注意した。

「うるさいのはそっちだろ」

 すかさず長嶺が反論する。先にけしかけて来るのは、いつも決まって女子で。

「センセー男子がうるさいでーす」

 うるさくするのも女子だ。けれど怒られるのは、いつも決まって僕たちで。

「ほらほら。騒いでないでちゃっちゃと集める」

 理不尽だし、納得がいかない。もちろんそれは長嶺も同じだ。いや、長嶺の場合は個人的感情を挟む分、僕より強く感じているのかもしれない。

「俺が委員長になったら小野をパシリにしてやる」

 また不機嫌になってしまった。仕方がないけれど。

 しかしどうして長嶺は、加藤先生のことが好きなのだろう。僕が彼女に感じているのと、同じような理由だろうか。

 もしもそうだとしたならば、僕のこの気持ちは、恋だということになってしまう。

 彼女のことを、僕は。

 窓際を見詰める。彼女を眺めるいつもの行動が、何故か苦しくて仕方がない。彼女の瞳を思い出すと、息の仕方を忘れてしまいそうで。

「僕、風邪、引いたかも」

 違う。この理由は、たぶん、間違いなく。

「マジでか。寺田が風邪引くわけねえじゃん」

 あの、一瞬の出来事で。

「いくら馬鹿でも風邪くらい引くわ」

 僕の感情が変化したからだ。恋に、落ちたからだ。

 どうしよう。恋になんてならないと思っていた。僕にとって彼女は、鑑賞するだけで満足するような存在で。

「顔赤えよ。熱あんじゃね?」

 近付きたいと願っても、決して近付けるような存在ではなくて。

「……かもな」

 窓から差し込む春の光と同じ。目に見えても触れることの叶わない存在で。

「保健室行くか?」

 惚れていると自覚すればするほど、彼女への距離が遠くなる。共通の話題なんてない。彼女のことを僕は知らない。僕は、何も知らない。

「その間に図書委員にしてやるから安心しろ」

 会話を交わしてみたい。僕を知って欲しい。欲望だけが膨らんでいく。

 彼女の瞳に映る世界に、僕も住みたい。

「それは勘弁」

 彼女と同じ、空気になりたい。

 きっかけなんて判らない。きっと、初めて彼女を見た日から。僕が気付いていなかっただけで。

 この感情は、生まれていたのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ