夜明け
鏡を前にして僕は目を細めた。そして同時に口角を上げる。
異常は無い。いや、いつも以上ではない。それを確認する。
過ぎた笑顔は駄目なのだ。そんなの求めてなどいなかった。満面の笑みというものは、僕にとっては机上の空論のようなものだった。理想には違いないが、現実には不可能なのだ。というのも、僕がしていたプロセスでは、そんなの有り得ない。そう感じるし、考えた結果もそう示していたからだ。楽しい事の先に待つ笑顔を、僕は先取りしていた。それで幸せになれると信じていた。結果としての事象の存在が、それに至る道の存在を創りあげる。笑みのその前に、幸福はある。だから笑えば幸せもあったことになり、自ずと幸せは手に入るのだ。だから笑うことは、人生においてそれだけあれば困らないモノと言っても、言い過ぎではない。筈なんだ。幸福が人生の全てなら。
洗面器で浴槽から熱いお湯をすくい、肩からかけた。そして、頭にかける。自然と笑みがこぼれていた。鼻や口にお湯が入り込み不快さを感じたけれど、表情は変えられなかった。それに変える気にもならないであろう。奥底から沸き上がる感覚に、初めて自分に対する恍惚が抑えられなくなった。僕のコウイによるものなのだ。今日の僕、今日の今の僕、今日の今の一瞬の僕は、幸せだ。この刹那の連続が人生ならと切に願う。でも、実現可能かもしれないなのだから、なんとも不思議だ。
皮が剥けるすんでまで身体を、こすった。いわゆる、洗う行為には程遠い。爪が剥げるイメージを作り、それに近くなるようにした。最後に浴槽に浸かったが、もうぬるくなってしまっている。しかし、それも僕には起爆剤と成りうるんだろう。
母が呼んでいる気がする。余りに時間をかけ過ぎていたからだろうか。最後にシャワーで、身体に付着した浴槽の水を洗い流した。そして丹念に水気を取り、髪も整えた。清潔感と、微笑を携えた、絵に書いた好青年。そんなのに近づいた気がする。
簡単に用事を済ませ、床に入った。ベッドに横になってから間もなくして気付けば、カーテンの隙間から朝日が差し込んでいた。間もなく、というのは感じ方の尺度ではない。実際に間もなくだ。だが、寝る事に慣れてない僕にとっては好都合なだけである。朝日を浴びる為にカーテンを全開にする。眩しさを感じる訳でもないが、夜明けを知るには十分に気持ちの良いものではあった。更に朝の清々しさを感じたいと思ったけれども、外を走るという考えは頭をよぎっただけに留まった。
朝御飯を作ってみた。外からの明かりだけで電気は点けずにだ。キッチンには東向きの窓がある。それだけで十分に明るい。見た目にはとても美味しそうに出来上がった。だが、 すぐに残飯行き同様なのは確定だ。
ゲームが始まった。唐突な始まり方には慣れないものだ。まだ二日目だから仕方ない。そんな風に片付けることは可能だが、僕はそう妥協するのは嫌だ。ブザーのような音が鳴る。のなら、分かり易いのだが、違う。このゲームには、始まりの合図がない。あるのはキョウキの音だけ。それを瞬時に嗅ぎ分けられるようにならなければ。
キッチンの窓から見えたのだ。狂気が、そして狂喜が。だが、至って普通の光景だ。朝の通勤、通学をする人達が次々に倒れていく。一人の男が原因だ。ここからではキョウキの種類が視認出来ないことは残念な限りだ。
敵になる見込みは無い。僕はそう判断した。互いが敵対する状況に陥ることはあるだろう。しかし、まともに相手をしてやる必要に迫られる相手ではないように思う。だが、用心に越したことは無い、一応写真は撮ることにしておいた。
一人の食卓には慣れてないので、テレビのスイッチを入れる。現時点で分かっている限り3人殺した殺人犯が、昨日捕まったというニュースをトップでしていた。憐れなものだ、奴はこのゲームの敗者なのだろうか。先程の彼を見た後だと、彼がいかに普通でこのテレビの中の奴がいかに異常かが分かる。視界に入った人間を片っ端から葬る彼よりも、恨んで3人殺す奴の方が比べるまでもなく異常者だ。ただし世間的には、だが。キョウキを得たら感覚が変わるらしい。
キョウキによる殺人は、挨拶に等しい。
僕は学校へ行く為の準備を始めた。そして、ゴミの表を確認した後に浴室へと向かった。
「今日は出しても良いらしい。」
鞄にはキョウキが入ってる。
やっぱりそうだ。
口が耳まで裂けたらどうしようかな。