第4話 親子龍の生活(下)
予想を遥かに上回る人数の閲覧があって嬉しいやら驚くやらで大変です。ありがとうございます。時間を見つけては書いておりますので、遅筆なのはどうかご容赦下さい。
ディラックと母アルヴィスの暮らす洞穴の入り口には、辺りの巨石群と比べても一回り大きい巨大な岩がある。洞穴の開口部から大きく天に突き出したその岩はアルヴィスによってきれいに削り取られ、彼女が巣に入るための離着陸場として利用されていた。
その大岩に今日の獲物を置いてアルヴィスが着地すると、わずかにディラックの足元が震えた。母の体は小山の様な大きさで、体長は地球の単位で20mを優に超える。その体重がどれ程になるかは推して知るべしである。
『おかえりなさい…ごめんなさい、母様。まだ制御が甘くて、常に集中してないと駄目みたいです』
『ふふふ、我が姿を見て嬉しさから集中を緩めたと言うても咎めはせぬぞ、幼子よ』
悄然と肩を落としたディラックが出迎えたものの、アルヴィスは機嫌良く息子をからかい続ける。贔屓目に見てもディラックはこの半年で格段の進歩を遂げていたし、何より誤って魔力の直撃を浴びたところで痛くも痒くも無いのだ。初めて生まれた我が仔のする事であり、成功こそ喜ぶが失態をことさら咎める様な真似をするつもりは彼女には無かった。
『大分良くなったものだよ、勤勉なる者よ。いずれは如何なる状態であっても制御を乱す事なき様にせねばらなぬが…そなたの事だ、遠からず体得できよう。さあ餌を食べるとしよう』
そう励ましてアルヴィスは息子を巣の中へと促す。ディラックからすれば無意識に家を爆破したり親に爆炎を浴びせる子供はどうなのだと悩むものの彼女は一顧だにしないようだ。
『今日は久方ぶりのクルバルだ。暢気に角鹿を追い回していた故、我が爪にかかってしまいおった』
巣の入り口に程近い、親子の『食事場』となっている辺りでアルヴィスは獲物のクルバルを解体する。クルバルとは大型の雑食性の魔獣で、ディラックから見れば『巨大なミノタウロスが蟹のごとき甲羅を着ている』様な生き物だ。知能はほぼ無く、雑食かつ暴食であるため人界では凶暴な害獣の代表格である。ディラックは人間の頃の意識をほぼそのまま保っているため、彼が知性のある存在を餌にする事に強い抵抗を訴えた事から母が知性ある魔獣の類を狩って来ることは殆ど無い。
アルヴィスは巨大な爪で器用にも固い甲殻を剥ぎ取り、鋭い牙で肉を引き裂くとその一塊をディラックの前に置く。魔術の鍛錬は精神力と共に体力も著しく奪う為、空腹ゆえか彼は無言で肉塊に牙を立てる。母はその尾が先ほどまでよりも力強く動いている様子を満足げに見やると自らも肉を咀嚼し始めた。巨体を維持するためか、ディラックの1食程の量が瞬く間に飲み込まれて消えていく。
『腹がくちくなったら、共に辺りを散策するとしよう。強き体躯を得る為には巣に篭って魔術を鍛えるだけでは不足であろう』
『はい、母様!』
妙に科学的な事を言う母に内心おかしさを覚えたディラックだったが、龍種は数万年以前より連綿とその知識を継承している。科学的な裏づけなど無くとも結果が伴うなら知識としては十分であった。
(こんな風に生肉を食べることにも、最初は抵抗感あったなぁ…)
漠然とディラックは思いながら、鮮血滴る生肉を噛み千切る。口内に広がるまだ暖かい血と程よく脂肪の乗った赤身を彼はすこぶる美味と感じていたが、生まれた当初は内心かなりの抵抗を感じていた。人間の精神を内包しているのだから当然だが、生肉を食べる事以上に困惑したのは、その生肉を体は実に平然と受け入れ美味しく感じた事だった。見たことも無い怪物の生肉を心は反射的に拒絶するのに、アルヴィスの手前嫌がる事など出来るはずも無く食べてみると体は美味い美味いと欲するのだ。龍の体に人間の心、それが実に乖離した物である事を実感した、最初の出来事だった。
(今でも少し抵抗感は残ってるけど、こんなに美味い)
滴る血さえ啜る様に飲み込みながら、複雑な心境を抱える。最初はむせ返る程の血臭に吐き気すら覚えたものだった。尤も体は盛大にその血臭を待ちわびていたが。
最後の一口を音を立てて飲み込み母を見ると、既に食事を終えていた。ディラックにはまだ些かの無理があったが、アルヴィスは殆どの骨をそのまま噛み砕いて食べる為、ごく一部の骨と甲殻以外何も残っていない。満足げな様子でディラックを見ると、彼女は巨大な翼を揺らし立ち上がり洞穴の入り口に歩を進めた。
『さあ、今日は頂上まで行こう。そなたはまだ翼を扱えない故、脚を滑らさぬよう留意するのだぞ』
『はい、母様。これでも大分脚は強くなったんですよ、大丈夫です』
睦まじく言葉を交わしながら親子は洞穴を出る。剣に喩えられる険しい山とは言え、4本の逞しい脚に卓越したバランス感覚を持つ龍にとっては平地を歩むのと大差はない。食後の軽い運動を兼ねて、この山脈に関する逸話を話しながら2匹は巣の上にそびえる山肌を歩いて行った。
◆◆◆
夜。地球のものより僅かに大きい太陽が隠れると、山肌は星明かりに満ちる。
銀に輝く調和と実りの月リグル、金に輝く闘争と武の月アルゴル。二つの月光が妖しく輝きながら天頂を目指す時間になると、親子は眠りの時間を迎える。アルヴィスは緩やかな弧を描いて横たわり、その腹部にディラックは体を預けていた。
徐々に夢うつつとなる穏やかな時間の中でディラックは半年ほど前の出来事を思い出していた。
(あの時はすこし自分の安直さに嫌になったな)
それはアルヴィスが餌を運んで巣に帰ってきた直後の事だった。その時も獲物はクルバルで、いつもの様に獲物を解体していた母は急に鎌首をもたげ、辺りを伺う様に眼を細めた。何も感じず訝しげな様子のディラックに構わず少しの間そうしていた彼女は何かを確信すると、ディラックが初めて聞く、低く腹の底に響く獰猛な憤怒の声を漏らした。
『そなた、此処より一歩も動くでないぞ。我はすぐに戻る』
そう念話で告げた母は素早く身を翻して洞穴の入り口から飛び立った。説明も無く飛び出した彼女の命じた通りディラックが緊張しつつ座り込んで待っていると、程なく山のふもと、魔の森の方角から轟く怒りの咆哮が聞こえてきた。
(母様何があったんだろう?怒っている所を初めて見た)
普段は穏やかな母の豹変ぶりに身を固くするディラックの元に怒りの咆哮の直後、3度の爆音が聞こえた。微かだが魔力が煮え滾る気配と熱すら彼は感じた。
常のアルヴィスは、狩の時も魔術を行使することは殆ど無い。その爪と牙だけでは及ばない程の魔獣などこの近辺には居ないし、意味も無く森や山肌を焼き払い生物が暮らせない状態にしても良い事など無いと彼女は知っている為だ。その彼女が火術を行使し何者かを焼殺せんとしたとなれば、これは只事ではない。ディラックは母の無事を疑う事無く、しかし緊張を解く事も無く待ち続けた。
程なく、アルヴィスが巣の入口に戻ってきた。双眸は爛々と輝き、今だ全身から憤怒の気配が漏れ出ているものの、見た所傷一つなくディラックはそっと安堵した。
『一体何があったのですか?』
アルヴィスはよく見れば前足に何かを掴んでおり、腹立たしげにそれを放り出した。彼女の爪を離れた3つの黒い塊は床に落ちると、ぼろりと崩れていくつかの破片に変わる。彼女の逆鱗に触れた哀れな犠牲者達は、強力な火術で炭化するほどに焼かれていたのだ。
『姿を隠し気配を絶つ術を使って我らの巣を伺っておった人間共だ。大方そなたが生まれた事を知って探りを入れに来たのだろう』
『人間…!?』
驚きに目を剥いたディラックが炭化した塊を凝視すると、確かに元は人間の形をしていたと解った。見れば今だに煙を上げる炭の中に焼け焦げ中程から折れた刀剣らしきものも覗いている。突然の事に彼は混乱し、つい声を上げてしまった。
『母様、彼らは人間ですよ!何もここを探っていただけでこんな、こんな惨い殺し方を…!』
彼は人間だった頃も含めて人の死体を見るのは初めてだったし、今まで優しい面しか見せなかったアルヴィスの豹変を目の当たりにした事で気が動転していたのだ。しかしそんなディラックこそ、母からすれば異常な考え方だった。彼女は怒りの感情をディラックに叩きつけて言う。
『人間。人間だから何だと言うのだ、浅慮なる者よ!此処は我らの領域、我らの棲家だ。そなたには人間が如何なる物か、十分に教えたはずだ。彼奴等は神に与えられた当然の権利と嘯き我等の地を奪おうとする。その様な者共が我が家を探る時、手を下すのは当然の行いであろう。魔獣共は我を恐れて近寄らぬが、もしこやつらと同じ振る舞いをするならば、我もまた等しく行うだろう。何か我はおかしな事を言うたか』
母の言葉は至極正しいものだった。アルヴィスが語った知識によると、人間の大半が信仰している宗教の教義、すなわち彼等は大地を遍く従えるべく神に祝福されており、自ら以外の恩寵無き魔獣や亜人達を排斥する事は当然の権利と信じているという。彼女は知識の内容に自分の立場や見解から色づけする事は一切無い為、それは正しいのだろう。
同時に彼女は特別人間を嫌っている訳では無い。偶々今隆盛を誇っているだけであり、地に満ちる数多の種族の一つという認識でしか無いのだ。アルヴィスはけっして好戦的な性格では無く、敵対して来ない相手を殺し傷つけるのは、自然の摂理として食物にする時だけである。しかしもし敵対するものあれば、その時は圧倒的な力を以って殲滅する。魔獣の中にも龍を敵視する物は居る。知恵持つ魔獣の中には、龍の血肉は万物の真理をもたらすと信ずる物も居る。死霊共は相手が龍であろうとも見境無く敵対するだろう。人間が特別な敵と言う訳では無い。
大切な我が仔を守る巣に何らかの意図を持って侵入しようとする人間はテリトリーを侵し『敵対者』の範疇に入った。只それだけの事であり、彼女は何も間違っては居なかった。
『いえ……その、母様は何も間違った事をおっしゃってません。………ごめんなさい』
長い逡巡の間にディラックはそう思い至り、頭を垂れる。彼の本来人間であった心はそれに納得出来たとは言いがたかったものの、それと理屈を違える事は何とか踏みとどまった。それでも浮かない様子のディラックに、母は怒気を消し去って優しく声をかけた。
『優しき者よ、心持つ魔獣を餌とする事すら心底嫌がったそなたの事だ。母が知恵ある者を簡単に殺してしまった事が悲しかったのであろう』
『……はい、母様』
項垂れたまま、顔を上げない我が仔に彼女は言葉を続ける。
『そなたは我が仔とは思えぬ程に優しすぎるきらいがある。優しき事は間違いではない。が、それも時と場合によろう。我等は傷付けられる事すら稀とは言え、その意思を持って爪牙向けられた時敵手を滅ぼすのは当然の行いだ。誇り高き龍となるならば、其処を間違えてはならぬ』
ディラックは複雑な顔をしていたが、母が思う所とその内実は違っていた。
彼は確かに知能を持つ魔獣を餌とする事を嫌ったが、それ以上に人間であった精神が人間を殺す事を拒否したのだった。平和な日本に暮らしていた彼にとっては、敵対者とは言え人を殺す覚悟など当然無い。それだけの事である。それに食われる側から見れば知能の高低によっての区別など考えの浅いエゴでしかない。
『はい、母様。正しくあるよう、努めます』
母の言う事は正しく、問題があるならばそれはディラック自身の出自と、精神の未熟さだった。安易にドラゴンになりたいなどと願い、それがどういう結果を引き起こすかには考えが至らなかった己の未熟さを、彼が初めて痛感したのはこの時であった。
『理解したのであれば良い。聡明な仔よ。…人間は墓という、亡骸を納める穴を作り死後そこに入るものだ。彼奴等は我に敵対したとは言え既に命を支払った。亡骸は墓に収め大地に還してやろう』
今だ消沈している我が仔を見かねてか、アルヴィスは人間の風習を教えその通りに彼等を葬る事を提案した。炭化した3人の亡骸を片脚でひょいと掴み上げ、残り3本の脚で器用に巣の外の山肌へと向かう。ディラックも共に出ると穴を掘り、遺体を並べるときれいに土砂で埋めてやったのだった。
久方ぶりに食べたクルバルの味が思い起こさせたのか、ディラックは苦々しく顔をしかめる。『人間と敵対する』という事に何の実感も無かった頃の自分にである。
(後悔はしてないけど…本当に子供だったな。今もだけれど)
甘い考えしか持たず、龍の仔としては些か異常な自分はこの先折り合いをつけて生きて行けるのだろうか。そんな思いに捕らわれていたディラックの体を、不意に金の翳りが覆う。傍目には寝ているとしか見えないアルヴィスが片翼を広げ、そっと彼を包んだのだ。
(……おいおい、自分の道を考えていこう)
まだまだ時間はあり、心身ともに成熟するのは遥か先の事だろう。だが今は母の温もりに安堵したのか、彼はようやく眠りに向かい瞳を閉じたのだった。
後半のエピソードを今回に入れるか迷った結果、時間がかかってしまいました。次回は少し軽い話になるかもです。
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