第2話 新生
やっと本筋の世界にたどり着きました。遅筆でごめんなさい。
何か暖かなものが体を撫でてゆく。閉じたまぶたの向こうから僅かに光が差すものの、ひりつく様な痛みが襲ってきて目を開ける事はできなかった。
(体も動かない…頭も働かない…もう生まれ変わったんだよな……)
翔は何とか体をよじり、目を開けようとする。思うように動かない、恐らく生まれたばかりであろう体に比例して思考能力も低下しているのか、朦朧としていた。一刻も早く自分がどの様に変化したか確かめたいがそれもままならない。もどかしく思うまま暖かいものに包まれ撫でられる彼の心に、慈愛を感じさせる優しい声が響いた。
『我と天地の祝福を受けて生まれし鱗柔らかき幼子よ、眼を開けよ。世界がそなたを祝福している』
呆としていた意識を揺り動かした声に翔は驚いた。ようやくその機能を果たし始めた耳には、風鳴りの柔らかな音と木々のざわめきのみが聞こえてくる。この声は直接心の中に響いているのだった。
(あなたは…だれだ?)
『おお…健やかなりし仔よ。生まれて直ぐに念話に答えることができるとは。そなたは実に強き龍となろうぞ。我はそなたの母』
(母さん?)
体の奥底に、火花の様な感覚がわだかまっていた。じりじりと内側から焦がす様な力が押し上げて早く眼を開け、体を動かせと急かしていた。
『幼子よ、そなたの裡に猛々しくも優しい力の胎動を感じるぞ。心地よい。母は此処に居る。安心するがいい』
凛然とした気高さと優しさを感じさせる声はこの世界での新しき母の声だった。状況が概ねつかめて来た。彼はどうやら生まれたばかりであり、母龍が傍に居るようだ。
ようやく眼の奥に感じる痛みも収まってきていた。前世でどうだったかは当然ながら覚えて居なかったが、初めて感じる光だ。慣れが必要なのだろう。うっすらとまぶたを上げる。
初めて眼に飛び込んできたものは黄金に輝く大きな龍の姿だった。胴体半ばから後は見えないが、前脚を折りたたみ、長い首をもたげてこちらを覗き込んでいる。長大な2本の角が生えた精悍さを感じさせる鋭角的な頭部に、金の中に紅い血の色を溶かし込んだような爛々と輝く瞳がこちらを見ていた。剣の様な鋭い牙が並ぶ口が開かれ、赤い舌にぞろりと顔を舐められた。先ほどから翔が感じていた暖かなものは母の舌だった様だ。大きく頭の上を横切る輝きは翼だろうか。
(きれい…母さん…)
自ら望んだ事とはいえ、現実として目の前に自分の母となった龍が居る。その圧倒的な存在感に体が震えた。恐怖ではなく歓喜に。母龍の姿を呆然と眺めてから、翔は自分の体はどうなっているのかと視点を移した。元の手の感覚に近い前脚を少し動かしてみる。母龍の鋭い、何者をもってしても貫けまいと思える強固な鱗とは違い、滑らかなくすんだ金色の鱗を纏った細い足が目の前に2本あった。指は4本で、内1本は親指の様に残りの指と相対して生えている。指先には生まれたばかりとは思えない、鋭い鉤爪がある。
今までの人間としての自分との差異に戸惑うかと思ったが、見事に順応していた。元からそうであったとしか思えない自然な感覚で指を折り、力を込めて体の下に敷かれていた草をつかむことが出来た。
体の裡の火花が、より一層強く燃え上がり、肉体から溢れそうになる。
(熱い)
突き動かされる様に、四肢に力を込めて立ち上がる。後脚は眼で見て確認しては居なかったが、前脚と似たようでより力強い感覚を返してくる。人でいう足に近い感覚である。尻の先からは尾と思しき反応もあり、これも無意識に動かすことが出来るのだろう。殆ど動かせなかったが背に翼も感じた。
生まれたばかりの四肢は震え、満足に動かすには至らなかったものの、何とか踏ん張って立ち上がる。同時に、半眼に開いていたまぶたも大きく開いた。
母龍はそんな仔を見て僅かに驚いたように眼を見開いた。この種の龍に天敵など居ない。同等の強さを持つものはいくつか居るがすべて種族違いの龍であり、彼らは皆広い縄張りを持っている。生まれたばかりの仔龍を襲う脅威など天災以外に存在しない。それ故、龍は生まれたばかりで動こうと必死になることなど無いのだ。悠然と数日かけて体を動かし始めるのが当然と母龍は考えていた。恐らく自分が生まれた時も――もう1500年ほど昔の事だが――そうであったはずだ。
『幼子よ、何かを恐れて直ぐに立つ事はない。ゆるりと体を慣らすがいい。そなたを襲うものなど居らぬ』
母龍がいたわる様に心に語りかけてくる。しかし翔は、裡から身を焦がす火花によって急かされる様に衝動的に立ち上がったのだ。心に念じて母に答える。
『そうじゃないんです。体が中から熱くて、早く立ち上がりたくて…』
そう言った途端、母龍は洞窟が震える程に咆哮した。喜色をにじませるその咆哮にびくりと身を竦める翔だったが、構わず母龍は目を細め翔の顔を舐め上げた。
『素晴らしきかな、強き仔よ。そなたはいずれ始祖に負けるとも劣らぬ力ある龍となろう。偉大なる始祖、空の黄金と謳われたバルディラック=アルゴルンの名を頂いて名を与えよう。そなたの名はディラック』
名を授けられた刹那、体の裡から溢れんばかりだった火花が、炸裂した。かつて人間『佐伯翔』であった龍、ディラックはこみ上げる衝動のままに首をもたげ、遠く高く初めての咆哮をあげた。
◆◆◆
黄金の幼き龍が名を受けた直後。遠く離れた地にある王城の中が急に慌しくなった。
広い執務室で書類を片手に数人の臣下と話しこんでいるのは齢60前後と見える男である。昔は見事な金色だったであろう頭髪は殆どが白く染まり、生え際も頭頂部に差し掛かってその重責を伺わせる。その容貌には年月と不摂生によって、深い皺と隈が溜め込まれていた。豪華な装飾が施された長衣の下、大柄な体躯はどこも見事に垂れ下がった贅肉に包まれている。
彼が税務を担当する文官に羊皮紙の束を叩き付けた直後、分厚い樫の木で作られた執務室の扉が控えめにノックされた。
「執務中の所まことに申し訳ございません。教区神官長クィズリー様が至急お伝えしたい事があると登城されました。迎賓の間にお通ししましたが、如何致されますか」
警護についていた近衛兵とは別の落ち着いた声に、男は眉間の皺を一際深くしながら答える。大陸最大の宗教である『オージス神智教』の神官、しかも王都の神殿で最も位階の高いクィズリーの訪問とあっては無下には出来ない。
「クィズリーだと?…ここに呼べ。お前達は下がれ、用が済めば続きを行うゆえ隣室に控えよ」
「は」
答えて文官達が一礼し退室すると、程なく先ほどの声の主と共に老人が入室してくる。
執務室の主よりも一層老いて見える骸骨の様なその老人は荘重な白と青のローブを引きずるように歩み寄り、宝石で飾られた司祭帽を取り深く一礼すると普段の媚びた態度もそこそこに男に話しかけた。
「これはカムロン王、ご機嫌麗しく…。火急のご報告が必要となりましたため、手続きを踏む事無く登城した非礼をお許しください」
「早春の祭祀の予定は10日後であったはずだが、余の勘違いであったかな?神殿とは違い我等は忙しい。火急の用事とは執務を邪魔するほどの事なのだろうな」
カムロン王と呼ばれた男は頬を歪めて神官を嘲るが、嘲られた当人は意にも介さず報告を始める。その額には一筋の汗が流れ、老人の焦りを物語っていた。
「は。王はルブスの南に広がる魔の森を御記憶でしょうか。その更に南の天剣山脈で今朝方、爆発的な魔力の放射が確認されました」
王の眦は『魔の森』と聞いた瞬間に跳ねていたが、神官の言葉が終わる頃には一気に危険な角度にまで吊りあがった。
「御記憶かだと?あの森と魔獣共のお陰でルブス以南は十年は開発が止まっておるわ。忘れられる物なら忘れたいくらいだ。で、此度は何だ?魔晶石鉱脈でも臨界に達したか?」
天然の魔晶石鉱脈は例えるなら溶岩溜まりの様な物である。地下のマグマが圧力の限界を迎えると噴火するように、魔力がこれ以上蓄積出来なくなると爆発的に大気中に放出される。その現象は俗に臨界と呼ばれ、貴重な天然資源である魔力の満ちた鉱石の大損失に加え周囲の魔獣をより強く凶暴にしてしまう。
人間や動植物が浴びたとしても起こらない凶暴化現象の仕組みについてはいまだ解明されていないものの鉱脈の臨界は百害あって一利無しの為、魔晶石鉱脈は臨界を迎える直前に採掘を開始し魔力を失った晶石で溢れる魔力を吸い取らせるという手法で採掘されるのが常であった。
尤も凶暴な魔獣達のテリトリーであり国軍すら立ち入ることの難しい魔の森のさらに先、もし鉱脈があったとしても採掘作業など到底出来はしないため、溢れては臨界を繰り返し周囲の魔獣達の力を高めてしまうのを指をくわえて見ている事しか出来ない。王はまたそれが起きたのかと問うたがそれが希望的観測だという事はすぐに開かされた。
「いえ。魔力放射が確認された地点では今まで鉱脈と思しきものは確認されておりません。術院にも使いを出しましたが神殿と寸分違わぬ観測結果を出しておりましたゆえ、間違いはございませんでしょう」
「ならば何だというのだ。もったいぶらずに早く申せ」
覚悟は出来ているとでも言う様に王は先を促した。
「は、申し訳ございません。実はその一帯にはかねてより、黄金の上位龍が営巣しているという報告がございました。私が愚考致しますに…此度の事は恐らく…」
「仔か……!」
老いた神官の言葉を遮って呟いたカムロン王は知らず執務机に両手を叩きつけて立ち上がっていた。重厚な黒檀の机が僅かに震える。怒りとも恐れともつかない感情で歪んだその面には神官と同じくにじみ出た汗が伝っていた。数瞬の硬直の後、口を開いた王に神官を揶揄していた時の余裕は微塵もない。
「よく知らせてくれた。民達には一切この事が漏れない様に緘口令を敷け!特に商人共と他国からの者には絶対に気取られるな。いずれ知れ渡る事になろうがそれは遅ければ遅い程良い。観測は続けよ。ラング」
「はっ」
ラングと呼ばれた、老神官を招き入れた壮年の男が剣帯を鳴らし一歩前に出る。彼もその表情は強張っているものの、自分を御す事にはなんとか成功していた。
「貴様は部隊を選抜して偵察を出せ。『遠耳』で逐次連絡を取れ」
「御意に。仔が真に生まれて居れば恐らく生きては帰らぬでしょう。失って問題となる貴族の子弟は除外いたします」
「うむ。…全て終わり次第再度会議を開く。……下がれ」
今後の対策を決め、男達が頭を垂れて退室すると同時にカムロンは力無く椅子に座り込んだ。白くなるほどに力を込めて握った両手を見つめて彼は呟く。
「我が国内でよくも、神をも恐れぬ蜥蜴の化け物が…!神よ、我が王国にかかる苦難を何故与えられたのか…」
神智暦2707年。この日を境に大陸全土に及ぶ動乱の時代が始まることを予見した者は誰も居なかった。
以後主人公は特別な場合を除き翔ではなくディラックと呼びます。今後は龍サイドと人間サイドで近隣の情勢や世界のあり方などを明らかにしていければと思います。誤字やご意見ご感想ありましたら気軽にコメント下さい。
母龍の名が決まって無かった事に今気がつきました。