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第3章後編:星葬の楽園

「門」を抜けた瞬間、レンの存在は「否定」された。

鼓膜を破らんばかりに轟いていた神殿の崩壊音、瓦礫が立てる断末魔——それら一切の「音」が、存在しなかったかのように消滅した。

否。消えたのではない。

「音」を伝える媒体そのものが、ここには存在しないのだ。

「…………っ!!」

レンは絶叫しようとした。しかし、喉は無益に痙攣するだけだった。肺の中に残っていたわずかな空気が、目に見えない巨大な万力によって絞り出される。内圧と外圧の均衡が崩れ、鼓膜が内側から弾け飛び、眼球が眼窩から押し出されそうになる。

熱が奪われていく。体中の水分が沸騰し、同時に凍りつくという、矛盾した地獄が皮膚を苛む。

空気がない。音がない。熱がない。

そこにあるのは、物理法則が牙を剥く、暴力的なまでの「無」だった。

視界に飛び込んできたのは、狂った神が描いた抽象画のような光景だ。

星。星。星。

それは地上の夜空に見上げる、ロマンチックな瞬きでは断じてない。大気というフィルターを通さない、剥き出しの核融合炉群が放つ、殺意に満ちた光の洪水。網膜を焼き切らんとするその光は、影を作ることすら許さず、全方位からレンの存在を希釈しようと押し寄せる。上下左右、前後不覚。宇宙という巨大な胃袋の中に、一粒の異物として放り込まれたような絶望感。

しかし、レンの足裏は、不可解な抵抗を捉えていた。

視線を落とすと、そこには薄氷のように透明な床が、果てしなく広がっていた。ガラスよりも硬質で、虚空よりも頼りない、物理限界を超えた「何か」。その遙か下方——いや、レンが本能的に「下」と認識させられている場所には、巨大な、あまりに巨大な青い惑星が「落ちて」いた。

海はどす黒く濁り、かつての文明の痕跡は、這い蹲る蟲のような不気味な雲の渦に覆い隠されている。

宇宙に下などない。それなのに、あの惑星は、底なしの深淵へと永遠に、終わることなく転落し続けているように見えた。その光景を視界に入れた瞬間、レンの三半規管は完全に破壊され、脳が裏返るような強烈な嘔吐感に襲われる。

(ここは……重力が、固定されている……?)

レンは震える波動を展開し、自身の周囲の空間を定義し直すことで、どうにか意識を繋ぎ止めた。

ここが「楽園」と呼ばれる場所の正体か。美しい。あまりに静謐で、清廉。だがその静寂は、死後硬直を起こした遺体のそれと同じ、不吉な拒絶と、生者への憎悪に満ちていた。

永劫とも思える静寂の中で、レンの視界の端が不自然に揺れた。

重力に縛られないはずの空間で、それは明確な「意思」を持って、こちらへ「歩いて」きた。

白い、煤けた宇宙服を着た人間だ。背中には巨大な生命維持装置が背負われているが、そこから伸びるホースは無残に引きちぎられ、中からは空気ではなく、どす黒い、ヘドロのような粘液が泡となって溢れ出している。

金色の泡 金色の膜 そして……その奥。

そこには、生きた人間の顔などなかった。

肉は削げ落ち、剥き出しになった眼窩。歯茎が剥き出しになった頭蓋骨が、暗い笑みを浮かべてレンを見ていた。

「……っ!」

音のない世界で、レンの脳内に直接、濡れ雑巾を絞るような、湿った声が響き渡った。

『落ちる。落ちる。落ちる。落ちる。落ちる。落ちる。落ちる。落ちる。落ちる。落ちる。落ちる。落ちる。落ちる。落ちる』

その呪詛と共に、足元の透明な床が、飴細工のようにぐにゃりと柔らかく歪んだ。

「がはっ……!」

突如、世界の上下が反転する。レンの身体は「上」へと猛烈な速度で引き寄せられた。いや、宇宙そのものが巨大な肺となって、レンという異物を深淵へと吸い込もうとしているのだ。

レンは即座に波動を最大出力で展開した。

「干渉……重力の位相を、ずらす……ッ!!」

空間の継ぎ目を強引に書き換え、自身の位置を虚空に固定する。慣性の法則を無視した急停止に、全身の血管が破裂しそうな衝撃が走り、毛細血管から滲み出た血が、真空中で赤い霧となって霧散した。

だが、骨の宇宙飛行士は止まらない。

無重力下とは思えない、ぎこちなく、しかし確実な歩みで距離を詰めると、その枯れ木のような指がレンの肩を掴んだ。

——冷たい。

絶対零度の冷気が防護服を透過し、皮膚を焼き、筋肉を凍らせ、レンの魂まで凍てつかせる。

ヘルメットの亀裂から、墨汁のような黒い液体が滲み出し、レンの視界を侵食していく。それは単なる物質ではない。かつてこの無酸素の地獄で、内側から肺を破裂させ、眼球を飛び出させ、全身の骨を砕かれながら、数分間かけて圧死していった者たちの、濃縮された「絶望の記憶」だった。

「あああああ、あああああああ!!!!」

音にならない絶叫がレンの精神をかき乱す。

肺がひしゃげ、肋骨が一本ずつ、メキメキと音を立てて内側に向かってへし折れていく感覚。眼球の後ろ側から圧力がかかり、視神経が引き千切られそうになる。

これは物理的な干渉ではない。精神に直接流し込まれる「重力の恐怖」そのものだ。

宇宙の本質とは何か。それは広大さではない。永遠に続く、終わりのない「落下」だ。拠り所をすべて失い、闇の底へと永遠に加速し続ける絶望。

レンの視界が歪み始める。

周囲の星々が、光の帯となって引き延ばされ、まるで巨大な檻の柵のようになる。

眼下の青い惑星が、熟れすぎた果実のようにメリメリとひび割れ、中から赤黒いマグマが、臓物のように宇宙空間へ溢れ出した。

足元の床が消えた。

レンは再び、無限の闇へと叩き落とされる。

どこまで落ちても底はない。どこまで加速しても終わりはない。

酸素が尽き、鼓動が一つ、また一つと間隔を空けていく。

意識の縁が、宇宙の冷たい暗闇に溶けていく。

(……待て)

(これは、揺らぎだ)

意識が完全に消失する寸前、レンの波動が奇妙な静寂に達した。

激しい振動ではなく、針の穴を通すような鋭い「定点」の感覚。

レンは、この極限状態で理解した。波動とは、世界の「継ぎ目」に触れる力だ。ならば、この狂った重力の檻、この絶望的な落下にも、必ず「繋ぎ目」があるはずだ。

落下する絶望と、静止する恐怖。その境界線。因果が逆転するその瞬間。

「……そこだ」

レンは指先を、虚空の一点に突き立てた。

無音の中心。重力の位相が交差する、唯一の不動点。

その瞬間、宇宙がガラス細工のように、音もなく粉々に砕け散った。

「楽園」の皮が剥がれ、そのおぞましい正体が露わになる。

全方位を覆っていた星々は、巨大な生物の「神経」だった。光を放っていたのは、そこに流れる異常なエネルギーだ。

眼下の惑星は、どろりと濁った、巨大な「瞳孔」。

ここは宇宙などではない。神か、あるいはそれに類する、この宇宙の法則そのものだった巨大な存在の「死体」の上なのだ。法則が崩壊し、腐敗した残骸が作り出した、生の幻影。

その巨大な、惑星サイズの「目」が、ぎょろりとレンを捉えた。

『波動……』

脳を直接粉砕するような、おぞましい重低音。

『落下を止めた者……因果の外にある者……危険……排除……』

目の中心、瞳孔にあたる黒い深淵の部分に、一際濃い、黒く澱んだ結晶が浮いている。

「天秤石……!」

レンが、凍りついた手を伸ばそうとしたその時。

レンの背後の空間が、燃え盛るような真っ赤な光に染まった。

「レン!! それに直接触れるな! その瞬間に、ここを中心とした全重力が崩壊して、この宙域ごと潰れるわよ!」

紅蓮の閃光と共に、虚空から現れたのは、ユイだった。


「ユイ……! 助かった……のか?」

レンの喉が、ようやく音を取り戻した。真空ではない。彼女の「創」の力が、自身の周囲に強引に生存環境を作り出しているのだ。

「お礼は後! この『目』、死んでるくせに自我があるわよ! 私たちの存在を拒絶してる!」

ユイが叫ぶと同時に、目の巨大な瞳孔が細められた。

『創は秩序……波動は否定……交わらぬ、水と油……。我が体内において、交わることは許さぬ……』

周りの星々(神経)が一斉に発光し、レンとユイに向かって、空間そのものを圧壊させるほどの重力波が放たれた。

「理屈はいいから、さっさと消えなさい、この死損ないが!」

ユイが「創」の力を最大出力で展開する。

虚空から無数の赤い鎖が噴出し、暴走する重力の神経を、一本ずつ強引に縛り上げる。鎖が神経に食い込むたび、宇宙が悲鳴のような不協和音を奏でた。

「レン、今よ! 石の周りの構造線を叩いて! 石そのものじゃなく、石を固定している『因果の継ぎ目』を!」

「分かってる! ……干渉!」

レンは全身の毛穴から血を噴き出しながらも、全神経を集中し、天秤石の周囲に張り巡らされた、目に見えない重力の継ぎ目——その一点に、自身の全波動を叩き込んだ。

「解体……ッ!!!!」

巨大な目が、断末魔の叫びを上げるように裂けた。

視界を埋め尽くしていた星々(神経)が、火花を散らして砕け散り、眼下の惑星(瞳孔)が、内側から爆発する。

本来なら、その衝撃で空間そのものが自壊し、ブラックホールさえ凌駕する重力の特異点が発生するはずだった。

だが、ユイの「創」が、崩れゆく世界の法則を強引に繋ぎ止め、レンの「波動」が、不要な因果と余剰エネルギーを、この世界から削ぎ落としていく。

秩序をもたらす力と、否定をもたらす力。

本来、決して相容れないはずの二人の力が、この極限状態において、奇跡的な、そしておぞましいほどの完璧さで噛み合っていた。

それは、地獄の上で踊る、完璧なワルツだった。

爆発的な、すべてを白く染め上げる光と共に、巨大な死体の「目」は消滅した。

後に残されたのは、真の暗闇の中を、力なく漂う黒い結晶。

天秤石が、今度は偽りの重力ではなく、真実の虚無へと、静かに落ちていく。

「逃がすか……!」

レンは迷わず、空気のない虚空へ身を投げ出した。

空気を蹴る感覚はない。だが、背後からユイの赤い「創」の光が、レンの背中を、まるで翼のように押し出す。

指先が、冷たく、そして泣きたくなるほど重い石に触れた。

掴んだ瞬間、世界を支配していた狂った落下感が止まった。

周囲にはただ、静かで、冷たく、どこまでも孤独で、しかし「自由」な、本物の宇宙が広がっていた。

5. 闇からの囁き

ユイが大きく、自身の「創」で作った空気の中で肩で息をしながら、レンの隣に浮いた。

その顔は蒼白で、鼻からは血が流れている。

「……マジで死ぬかと思った。あんな化け物の死体の中で戦うなんて、もう二度とごめんだわ」

「……俺一人じゃ、あの重力に潰されて、骨の宇宙飛行士の仲間入りだったよ。ありがとう、ユイ」

レンの言葉に、ユイは少しだけ顔を赤らめ、気まずそうにそっぽを向いた。

「……勘違いしないでよね。あんたが死んだら、私が一人でこの石を集めなきゃいけなくなるから、助けただけ。あんたは本当に……危なっかしいんだから」

死地を乗り越えた二人の間に、ほんのわずかだけ、人間らしい暖かな温度が戻る。

だが。

そのわずかな安らぎを切り裂くように、闇の奥底、宇宙の深淵から、湿った、何かが這い回るような囁きが聞こえた。

『二つ目……』

『創と波動……交わらぬはずの両極が、近づく……』

『相容れぬ力が混ざり合う時……それは、祝福ではない。完全なる破滅への加速……』

宇宙の端が、濡れた紙のようにぐにゃりと歪み始める。

新たな「門」が、空間を裂いて口を開く。

そこから漏れ出すのは、星の光さえ届かない、どろりとした、濃厚な「死」と「穢れ」の気配。

「次は……幽世かくりよか」

レンは手にした天秤石を、砕けんばかりに強く握りしめた。

二人の背後に、逃れようのない巨大な影が、今度こそ確実に忍び寄っていた。

それは、彼らが手に入れた力さえも、嘲笑うかのような、圧倒的な闇だった。

ユイが、怯えたようにレンの腕を掴む。

二人の温もりが、再び冷たい宇宙の静寂に飲み込まれていった。

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