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一章 平穏の終わりと戦争の始まり

ーーー夜は静寂に守られていたのではない。死が音を奪っていたのだ。



霧生レンが目を覚ました時、最初に感じたのは粘膜を刺すような鉄錆の臭いだった。それは、かつて理科室で嗅いだ乾燥した鉄の匂いなどではない。生温かく、内臓の奥底を掻き混ぜるような、新鮮な「死」の芳香だ。

寝室のドアを開けた瞬間、足裏に伝わったのは冷たいフローリングの感触ではなく、ぬめりとした吸い付くような液体だった。廊下は鏡面のように光る鮮血の海と化しており、一歩踏み出すたびに「ぐちゃり」と、未だ体温を残した肉片を噛む不快な音が鼓膜を震わせる。

視界の先、リビングの入り口に積み上げられていたのは、数分前まで「家族」だった肉塊だ。

父の喉笛は内側から爆ぜ、頸動脈から噴き出した血が壁に醜い文様を描いている。母の四肢はあり得ない方向にねじ曲がり、骨が皮膚を突き破って白く突き出していた。そして、まだ幼い妹の瞳は、逃げ惑う間もなく絶望に凍りついたまま、光を失って天井を見つめている。

その惨劇の頂点、肉の祭壇の中央に、黒い外套を纏った影が立っていた。

影の右手が、まるで脈動する心臓のように赤黒く瞬く。

「……なぜだ」

絞り出した声は、喉の奥で凝固した恐怖に阻まれ、ひどく掠れていた。

影は振り向かない。ただ、足元に広がる血溜まりを愛でるように、その指先から滴る紅い雫を見つめている。

「天秤の戦争が始まる」

低く、感情を削ぎ落とした声。その響きだけで、レンの脊髄に氷の楔が打ち込まれる。

「七人目の魔法使いにお前は選ばれた」

影がわずかに動いた瞬間、レンの視界を「創の光」が焼き切った。それは命を育む光ではない。既存の理を破壊し、強制的に再構築する暴力的な波動。レンの心臓が、恐怖ではなく絶対的な「格差」によって凍りつく。影はそのまま空間の綻びに溶け込み、消えた。

残されたのは、静寂と、冷えゆく家族の亡骸と、救いようのない絶望。

レンは叫ばなかった。絶叫さえも、この圧倒的な喪失の前では軽薄な記号に過ぎない。

彼はただ、膝をついた。血の海に浸かり、服が、肌が、家族の体液で汚染されていくのを無機質に受け入れた。

その時だった。

無残に壊された机の上に、重力に逆らうように一枚の手紙が浮かび上がる。

漆黒の紙に、どす黒い封蝋。

【天秤の戦争への招待状】

震える指で封を切る。中には、血で書かれたような文字が踊っていた。

ーーー願いは一つ

ーーー祭壇界にて決せられる

ーーー参加資格:魔法使い 波動の使い手

レンの目が激しく揺れる。

「波動」。

それは、彼がこれまで魔法学院で「最弱」と蔑まれてきた属性だ。攻撃力は皆無に等しく、防壁を張る速度も亀のように遅い。微弱な空気の震えを起こす程度の、実戦では使い物にならないゴミクズの力。

だが、今、その「波動」が変質していた。

床に散らばった家族の血。その飛沫の一つ一つに宿る残存思念。それらが、レンの怒りと絶望に共鳴し、黒く澱んだ波紋となって彼の体内を駆け巡る。

「……取り戻す。必ず」

レンは父の、母の、そして妹の冷たい手を、自らの血まみれの手で握り締めた。

復讐ではない。それはもっと独善的で、禍々しい渇望。

命の理を、世界の均衡を、天秤ごと叩き壊してでも、この日常を強奪し返す。

その瞬間、部屋全体の空気が激しく振動した。

「波動」が怒りと混じり合い、空間そのものを侵食する干渉波へと昇華する。

目に見えぬ天秤の針が、大きく、残酷に、地獄の方角へと振り切れた。

――こうして、血塗られた聖戦の幕が上がったのだった

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