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その恋が生け贄を終わらせた

作者: 佐倉 百

 蛇ヶ淵には大蛇がいた。長き時を経て妖に転変し、ついに水を操るまでになった蛇は、水の神を名乗るようになった。


 大雨を降らせて下流の町や村に被害をもたらすので、たびたび討伐のために若者が挑んだが、誰一人として帰ってこない。困り果てて遠方の寺から高名な僧侶を呼び、対話を試みたところ、若い娘を要求してきた。


 ――生娘一人につき五十年。水の恵みと金脈を与えてやろう。


 蛇は水害を止めるだけでなく、人間に恩恵を与えると提案している。誰もが言うことを聞かせるための方便だと知っていた。だが他に策がない人間は、大人しく蛇の言うことを聞くしかなかった。



***



 高い塀に囲まれた屋敷は、楽園なのだとナギは教えられた。あそこの主人になったら、綺麗な着物を着て働かなくてもいい。皆が平伏してわがままを叶えてくれる。村がどんなに飢えていても、主人だけは腹一杯食べられるらしい。


 そんな贅沢が認められているのは、大切なお役目があるから。だから決して妬んだり羨んではいけないのだと、父親がよく言っていた。


 大人でも見上げるほど高い漆喰塀の内側は、決して外から覗けないようになっている。いつも怖い顔をした見張りがいて、侵入者を警戒していた。たまに村の子供達が度胸試しに近づいてみたりするが、覗きに成功した者はいない。それはナギが生まれるずっと前から続いていることだった。


 自分たちとは住む世界が違う。そう思っていたナギは、塀の内側に入れる日が来るなんて考えたこともなかった。




 大人たちに混ざって見回りを終えたナギは、持っていた槍を壁にかけた。彼の身長に合わせて作ってもらった槍は、大人には少し短い。壁にかける位置も大人の太ももの位置だ。


 槍をかける高さは、屋敷内の序列ごとになっている。ナギの下にはまだ誰の槍もない。それでもナギには不満などなかった。幼児の頃から聞かされていた「壁屋敷」の警備に抜擢されたのだから。


 ナギは今年で十二歳になった。壁屋敷の警備をするには少し若いが、武芸を極めるにはちょうど良いそうだ。ナギに目をつけた警備頭がそう言っていた。小間使いとしての役割も期待されていたと知ったのは、壁屋敷に入った後のことだ。


 ナギは井戸まで走って、後から来る大人たちのために水を汲んだ。澄んだ水は冷たくて、今すぐ手を突っ込みたくなる。だがナギは大人たちが来るまで我慢した。


「ナギ。お前は本当に働き者だな」

「偉いぞ」


 合流してきた大人たちは、ナギが彼らの手桶に水を入れると礼を言ってきた。お手伝いをした幼児を褒めるような言い方にむっとしたが、どんなにナギが怒っても彼らが態度を改めることなんてない。言い返すだけ無駄なので、笑うだけにとどめた。


 事実、彼らから見れば元服もしていないナギは、まだまだ子供なのだ。


 全員の手桶に水を満たすと、ナギは自分の手桶を持って洗い場へ向かった。大人たちの邪魔にならないところで、自分の顔や手足についた汚れを拭う。


 壁屋敷には、いくつかの決まりがあった。その一つが、常に建物や働く者は清潔でなければならないということだ。よほどの緊急時でなければ、汚れた体のまま屋敷に上がるなんて許されなかった。


 壁屋敷の主人が不快にならないように、壁の外にある全ての穢れを主人に見せてはならない。ナギは壁屋敷に入った最初に、そう教わった。


 身を清めたナギは、大人たちと修練場へ向かった。壁屋敷を守るナギたち護衛は、警備以外の起きている時間は鍛錬に費やされる。槍や剣、弓の練習は欠かせなかった。


 ――今日こそ一本取りたいな。


 ナギは同年代の子供の中では体が大きかったが、大人たちにはまるで敵わなかった。練習を続ける体力はもとより、試合では一度も勝てない。しかも大人たちは手加減をしないので、ナギはいつも負けて修練場の床に転がされていた。


 どんなに負け続けていても、ナギは諦めていなかった。壁屋敷へ来てから確実に体力がついている。大人たちの攻撃だって見切れるようになってきた。だから今は無理でも、練習を続けていればいつか勝てるようになるだろう。


 いつもと変わらない練習が終わると、ナギは使用人の老女から風呂に入るよう言われた。


「二の姫様が遊びを所望しておられる。お相手をして差し上げなさい」


 老女は二人の姫に仕えている。身の回りのことから食事に至るまで、彼女の指示で他の使用人が動く。


 壁屋敷には二人の姫がいた。それぞれ一の姫、二の姫と呼ばれ、本名は知らされていない。彼女たちに仕えている者は、彼女たちを決して名前で呼ばなかった。ナギは理由を知らないが、そういう決まりなのだと思って彼らにならっている。


 二の姫はナギと歳が近く、たびたび遊びに誘われることがあった。二人の姫は壁屋敷から出られない。退屈するのは当然だ。だから大人たちは姫が求めるままに、ナギを向かわせた。


 子供の遊び相手は子供が望ましい。そう考えているのだ。


 風呂で身を清めたナギは、用意された着物を身につけた。


 絹で仕立てた着物は手触りがよく、ナギが普段着ているような麻や綿の着物とはまるで違う。二の姫が目にするもの全て、最高級のものでなくてはならない。


 着替えが終わったナギは、老女に上から下まで点検された。やれ着物の着付けが甘いだの、髪が乱れているだのと小言を言われ、他の使用人を使って満足するまで手直しされる始末だ。毎度のこととはいえ、ナギは二の姫に会う前の「儀式」だけはうんざりしていた。


 ようやく二の姫がいる座敷の前へ連れて行かれると、ナギは中にいるはずの二の姫に声をかけた。


「姫様。ナギです。お呼びですか」

「遅いわ。さっさと入って来なさい」


 座敷に入ったナギは、まず不機嫌を隠そうともしない二の姫と目が合った。


「いつもいつも、どうして時間がかかるのかしら。多少汚くても気にしないって、私は言ってるのよ」

「汗で汚れていましたので」


 答えたのは、ここまでついてきた老女だ。


「それがどうしたのよ。生きていたら汗ぐらい出るわ」

「ナギが風邪を引きますゆえ」


 二の姫は嫌そうに顔をしかめた。言い返せないのだ。ナギが体調を崩して寝込んでしまえば、二の姫の暇つぶしに付き合う子供がいなくなる。


「ふん。だったら、もっと早く着られる着物を用意することね。どうせ着付けが悪くてやり直ししてたんでしょ」

 まるで見てきたかのように二の姫が言う。

「まあいいわ。今度から気をつけてよね。時間は有限なのよ」


 二の姫はナギと同い年なのに、ナギが知らない言葉をよく使う。ユウゲンなんて、周りの大人たちが言っているのは聞いたことがなかった。


「今日は私と遊ぶのよ。コマ回しをしてみたいわ。あなたはやったことがあるんでしょう?」


 遊びと聞いて、老女は黙って座敷の隅に座った。ここから先、二の姫の相手をするのはナギだけだ。老女は二の姫に危険がないように見張るだけで、子供同士の遊びは口を挟まず自由にさせてくれる。


 座敷にはコマが二つ用意されていた。商人に持ってきてもらったのだろう。削り出したばかりの木に、赤や緑で色鮮やかに着色されている。ヒモも真新しく、一度も使った形跡がない。


 ナギが遊んでいたのは、兄弟みんなで使って黒ずんだコマだ。塗装も剥げてしまっていたが、兄弟で遊んだ思い出が詰まっている。綺麗なコマを見ると、なぜかナギの心に痛みが走った。


「姫様。廊下で遊びませんか? 畳の上では上手く回らないでしょう」

「いいわ。あなたの提案を聞いてあげる」


 尊大な態度で廊下へ出た二の姫は、ナギの説明を聞いてコマを回した。案の定、コマは回らずに廊下に転がってしまう。


「何よ。難しいわね」


 すぐに飽きるかと思われたが、二の姫は自分でコマを拾って何度も試していた。彼女は負けず嫌いらしい。ナギに投げろと命じて見学し、自分と何が違うのか考えている。そしてようやく回せるようになってから、どうだと言わんばかりにナギを見た。


「私に出来ないことはないのよ」

「さすがです」


 コマは逆さ向きに回っている。村の子供達が見たら、やれ下手だの才能がないだの囃し立てるだろう。


 ナギは余計なことを言わなかった。ずっと彼女の隣で練習する様子を見ていたのだ。逆さだろうと、回せたことに違いはない。


「お正月にここへ来た大道芸人はね、手の上で回していたのよ。こう、ヒモで上に飛ばしてね。それから扇子の上でも回していたわ。あなたはできるの?」

「いいえ。たくさん練習しないと、そこまでは……」

「そうよね。簡単に真似できないから、見せ物にしてお金を取っているのよ」


 やれと言われたらどうしようかと思ったが、二の姫は要求してこない。


 二の姫と遊ぶようになってから、ナギは噂があてにならないことを知った。村では壁屋敷の主人は、わがまま放題できると思われている。ところが二人の姫は心がとっくに大人になっていて、理不尽なことは言ってこない。相手に出来ることを理解した上で自分の要求を伝えていた。


「飽きたわ。次は他の遊びを教えなさい。あなたは村で何をしていたの?」


 ナギはコマを拾い、座敷へ戻る二の姫を追いかけながら、彼女の要求に応えていった。





「今日は先生が来る日よ。私とあなたで出迎えるの。いいわね?」


 ある日、二の姫のところへ向かったナギは、座敷に入るなりそう命令された。


「分かりました」


 ナギはすぐに答えた。


 壁屋敷の中では、姫の命令はほぼ絶対なのだ。最初から断るという選択肢はない。それに壁屋敷に招かれる大切な客人を出迎えるのは、警備として当然のことでもある。


 もし「先生」が姫の命を狙っている者なら、ナギは死んでも姫を守らなければならない。ナギに大人を制圧する力はなくても、姫を逃す時間は稼げる。


「あなたも私と一緒に先生の話を聞くのよ。あなたは何も知らないんだから、この機会にしっかり覚えておきなさい」


 おそらく二の姫のことを知らない人が聞いたら、ずいぶんと失礼なことを言う子供だと思うだろう。ナギは二の姫が本当のことしか言わないと知っている。


 何も知らないのは事実だ。生まれ育ったのは狭い村の中で、山を越えた先にあるという町の名前も知らない。田畑の仕事と武芸は多少できるものの、自分より優れている人は大勢いた。


 文字は二の姫に教えてもらって、ようやく平仮名が読める程度。二の姫に何も知らないと言われるのは無理もない。自分なんかより、壁屋敷から出られない二の姫の方が物事をよく知っている。


 ナギは最初から二の姫を理解できたわけではない。初めて顔を合わせたとき、彼女が言うことの一つ一つに腹が立った。言い返したいけれど、大人たちに何も言うなと言われていたから、沈黙していただけだ。


 ナギが考え方を変えたのは、二の姫の役目を正しく理解したときだった。その時のナギは自分の無神経さも知らず、どうして壁の外へ出られないのかと尋ねたのだ。


「どうしてって、私がいなくなると困る人がいるからよ。困るのは一人じゃないわ。あなたが想像するよりも、ずっと大勢の人よ」

「姫様が将来、蛇神様にお仕えするから?」

「あなたって頭の中まで幸せなのね」


 そう答えた二の姫の顔を、よく覚えている。呆れと羨望、そして諦めを混ぜた顔だった。


 村では子供たちに姫のことを説明するとき、生け贄という言葉を使わない。残酷すぎると配慮をして、お仕えする、奉仕すると湾曲に言う。言葉の通りに覚えてしまったナギは、あろうことか本人に言ってしまった。


 二の姫はナギを叱責したり怒らなかった。当たり散らされても許されることをしたのに。子供が言ったことだから仕方ないと、姫は自分のことを棚に上げて忘れることを選んだ。


 あとで姫の役割を知ったナギは、あえて二の姫に謝罪をしていない。彼女はそんなことをしても喜ばないのだ。むしろ話題にせず、今を楽しく過ごすことを望んでいる。ナギにできる贖罪は、その楽しい思い出を一つでも多く作ることだ。





 壁屋敷を訪れた「先生」は、痩せぎすな男だった。ナギでも簡単に取り押さえられそうで安心だ。柔らかい表情と声は、決して二の姫の心を傷つけないだろう。


「初めまして。私のことはウスイと呼んでください。雨に水と書きます」

「覚えていたら、そう呼ぶわ」


 二の姫は素っ気なく答えた。


 ナギと初めて会った時と同じだ。二の姫は人の名前を覚えないと宣言する。壁屋敷では姫とそれ以外の人間、二種類しかいない。姫は全ての人間に命令できるのだから、名前を知らなくても問題ないのだ。


 もしかしたら、別の理由もあるかもしれないとナギは思っている。その他大勢よりも、名前を知っている人や物の方が愛着が強くなる。二の姫は別れが惜しくならないように、あえて名前を呼ばないようにしているのではないだろうか。本人に言えば、きっと鼻で笑うだろう。二の姫はそういう性格だ。


 先生は二の姫だけでなくナギにも親切だった。もっと読み書きができるようになりたいと言えば、公家か武家が習うような本を使って教えてくれる。ふと口にした疑問でも、笑ったりせず答えてくれるような人だ。ナギは一緒に勉強するのだと言ってくれた二の姫に、心の中で感謝していた。


 盆に砂を敷いたもので字の練習をしているナギの横で、先生と二の姫はもっと高度な勉強をしていた。途中で眠くなりそうな文章や、天体の話までしている。座敷の隅にいる老女なんて、難しい話についていけず居眠りをすることもあった。


「本で草木のことを調べても分からないわ」


 ある秋の朝、二の姫はそう言ってナギに絵付きの本を見せた。


「この草を採ってきてよ。田んぼの畦道に生えているそうじゃない。いいわよね? 私が欲しいって言ってるのよ」


 二の姫が欲しいと言った花は、ナギも村で見たことがある。はるか昔に偉い僧侶が遠くまで旅をして、持って帰ったという赤い花だ。


「ほんの一、二輪あればいいわ。今日中に帰ってくるのよ」


 門番に話をつけるのは、老女がやってくれた。


 ナギは久しぶりに村へ戻り、二の姫のために赤い花を二輪だけ摘む。途中で顔見知りに声をかけられたり、ナギが帰ってきていると知った家族に囲まれたりと、目的以外のことで時間がなくなっていく。


 名残惜しいが二の姫を待たせたくない。皆には正月の休みになったら帰ると言って、壁屋敷へ戻った。


 老女に用意してもらった花瓶に花を入れ、座敷にいるはずの二の姫に声をかける。開け放した襖の奥にいた二の姫は、退屈そうに投げていたお手玉を畳の上に落とした。


「早かったじゃないの。あなたのことだから、もっと時間がかかると思っていたわ」

「早く帰らないと、花が萎れてしまうと思いましたので」

「別に遊んできても良かったのよ。あなたぐらいの歳の男の子って、仕事を放り出して友達と遊ぶんじゃないの?」

「姫様が待っているのに、そんなことできません」

「そう。真面目すぎてつまらないわね」


 二の姫はナギが持っている花瓶を持って床間に置いた。


「花や茎には触れませんよう。手がかぶれてしまいます」

「知っているわ。本に書いてあったもの」


 こちらに背を向けて座っている二の姫は、上機嫌で答えた。言葉ほど不機嫌ではないようだ。


 それから、二の姫はことあるごとに野草や花を所望した。山や村のどこに生えているのか、必要な道具なども教えてくれる。時には先生も同行して、薬草を摘むこともあった。


 先生は弱そうな見た目に反して、急な山道でも平地のような速さで登っていく。猟師が使う罠の作り方まで知っていた。その知識が生かされたのは、もちろん二の姫がウサギが見たい、タヌキを連れてこい、次はキツネだと言った時だ。


 さんざん山中を歩き回ったナギは、山のどこに何があるのか全て覚えてしまった。獣道を利用して隣の村や町へ行くこともできる。二の姫がわがままを言わなければ、ナギは一生知らないままだっただろう。





 ナギが二の姫専属の下男になって二年が経った。この頃になると、朝は二の姫と一緒に先生の授業を受けて、昼から警備の仕事をする生活になっていた。


 夏のある日、井戸で冷やした甘酒を持って二の姫が待つ座敷へ向かっていたナギは、使用人たちが小声で話しているところに出くわした。彼らはナギに気がついていない。見てはいけない気がして隠れたナギの耳に、彼らの声が聞こえてきた。


「蛇神様が一の姫を求めているらしい」


 すっと心に冷たいものが降りてくる。いつか来ると頭では分かっていても、心は理解を拒んでいた。


「でも前回は二十年前だったはず……」

「どんどん期間が短くなっているじゃないか」

「だから屋敷に二人も姫がいるんだ。いつ望まれてもいいように」

「やだねぇ。いくら富を与えてくれるといっても、誰かが死ぬなんて……」


 ナギは一の姫のことはあまり知らず、いつも穏やかに笑っている人という印象しか持っていない。彼女は喋ることや考えることは苦手なのだと、二の姫が言っていた。


 ナギは静かにその場を離れ、遠回りをして座敷に入った。待っていた二の姫はナギの顔を見るなり、呆れた顔で言う。


「ひどい顔よ。いじめられたの?」

「いえ……」

「そう。じゃあ生け贄のことを聞いたのね。当たりでしょ?」


 相変わらず、二の姫は隠していることを見透かしてくる。


「あなたが死にそうな顔をしてどうするのよ」

「でも」

「そんなの、この屋敷にいるなら分かっていたはずよ。辛いなら今すぐここを出て、村で耳を塞いでいればいいの」


 二の姫は甘酒が入った竹筒をナギから取り上げた。


「私たちが贅沢をしているのは、その時のためよ。やっぱり死にたくありませんなんて許されないの。あなたもここで寝起きをしてご飯を食べているなら覚悟なさい」


 平然とした顔の二の姫は、誰よりも大人だった。


「同情なんてしたら叩くわよ。私とあの人は、生まれた時からそう決まっていたんだから。そういう一族なのよ。神職についている本家か、分家に娘が生まれたら、ここへ連れて来られるわけ」


 ナギは自分の甘さを再確認した。安全圏にいる自分なんかが青い顔をする資格なんてない。そもそも護衛が心を揺さぶられて動けなくなるなど、情けない話だ。


「余計なことを考えるんじゃないわよ? 蛇が金脈を教えて、人間が採掘して、対価に生け贄を渡す。そうやって、この地域は成り立ってきたんだから。採掘した金の一部は、ここの生活を続けるために使われているわ。一人じゃ変えられないの。分かった?」


 この会話をした一週間後に、一の姫は蛇神が待つ淵へ旅立っていった。


 彼女が寝起きしていた座敷はすぐに片付けられ、着物やかんざしは一部を除いてどこかへ売られてしまったらしい。わざと残した品物は、真っ白な壺に入れられて立派な墓の下に埋められた。


 こんなにも簡単に、生きていた痕跡が消えてしまう。けれどナギの頭の中には、一の姫が笑っていた記憶がある。記憶と現実の落差にめまいがしそうだ。


 一の姫が使っていた座敷へ繋がる襖を開けたら、彼女が座っているかもしれない。けれどナギは襖を開ける勇気が出なかった。襖を開けてしまえば、現実が待っているのだ。





 一の姫が消えてしまってからしばらく、壁屋敷の外はにぎやかだった。


 村の近くにある金鉱山では、新しい金脈が見つかったらしい。ナギは蛇神が生け贄の対価に情報をもたらしたと考えたくなかった。


 きっと偶然だろう。


 本当は生け贄なんてものはただの方便で、一の姫はどこか遠く離れたところで静かに暮らしていると思いたい。


 村では金鉱山で働いている者が、蛇神に感謝をしている。本当に感謝をすべきなのは、一の姫であるはずだ。壁屋敷の中と外で評価が違いすぎる。


 壁屋敷の中では、二の姫という呼び名が消えた。今ここにいる姫は一人だけだ。だから数字をつけて区別をする必要がない。


 この頃の姫は子供の遊びをしなくなり、勉学に励んでいる。だがナギを壁屋敷の外へ出して、望む品を持って来させるのはやめない。周りの人間も慣れたもので、ナギが門へ近づくと、また姫様のお使いかと笑って見送ってくれるようになった。


 庭の一角を畑にするよう命じたのも姫だ。だが彼女が畑を耕したり世話をすることはない。それらは全てナギの仕事だった。


 数年でナギは身長が伸びた。同じくらいの身長だった二の姫を引き離し、背伸びをしなくても彼女の頭を見下ろせるようになっている。武芸もだいぶ上達して、槍でナギに勝てる大人がいなくなった。


 弓は動かない的なら当てられる。


 元服も終えて、ナギはようやく大人の仲間入りだ。そう思っていたけれど、大人たちがナギを子供扱いするのは変わらない。ナギが年下だから仕方ないのだろう。いずれ新しい年下の護衛が増えたら、ようやくナギの「子供役」が終わる。





「私、花火がしたいわ。手で持つ花火よ」


 姫がまた珍しい品を所望している。


「では商人が来たら伝えましょう」

「今すぐ欲しいの」

「使いの者を出しましょうか」


 ナギは足を悪くしている老女に代わって、使用人と護衛に声をかけた。その間に老女は手紙をしたため、代金を包んでいる。彼らが壁屋敷を出発すると、姫は退屈そうに庭に降りた。


「汚れますよ」


 ナギも姫に続いて庭へ降りる。庭は午前中の雨で、まだ地面がぬかるんでいた。


「汚れたら洗えばいいわ」


 姫は太ももの辺りから着物を軽く持ち上げた。隠れていた白いくるぶしが見えて、ナギは視線をそらした。幼い頃から何度も見ていた光景なのに、今日は見てはいけないような気がする。


「ほら、ニワトリだって歩いているのよ。私が庭を歩いてはいけないなんて決まりはないわ」


 姫が指差した先には、卵をとるために飼っているニワトリが数羽、地面をつついていた。雨の影響で出てきたミミズを探して食べているようだ。姫が近づいていくと、ミミズをくわえて逃げていく。


「ちょっと。近くで見せなさいよ。どうせあなたもここから出られないんだから、暇つぶしに付き合いなさい。言うこと聞かないと、羽をむしって丸ごと煮込むわよ」


 あなたも、という言い方が引っかかる。姫は自分の境遇とニワトリを重ねているのだろうか。


「なに見てるのよ。ニワトリを捕まえるのを手伝いなさい」


 姫の矛先がナギに向いた。睨まれても、まるで怖くない。何年も姫のそばにいれば、文句も命令も慣れてしまう。


 ナギは遠くへ行ってしまったニワトリを探して、姫の近くに放した。


 使いに出た者が帰って来たのは、夜も更けたころだった。姫はさっそく花火がしたいと言う。もちろん誰も反対しなかった。


「姫。足元にお気をつけください」


 縁側から庭へ降りるさい、ナギは姫に手を差し出した。


「あなたが足元を照らしてるじゃないの」

「慣れている場所でも、夜は危ないのですよ」

「別に転んだぐらいじゃ死なないわよ」


 姫は文句を言いつつもナギの手を握る。


 提灯の光に照らされた姫は綺麗だった。太陽の下で見るよりも、白い肌が際立っている気がする。唇は紅を引かなくても赤い。大きな目は色が薄く、提灯の光を反射して輝いて見えた。


 姫が歩くたびに黒髪の艶が揺れている。緊張して心臓の鼓動が速くなった。


 ここ最近は、ずっとこんな不調が続く。姫がいないところでは、いつもと変わらないのに。


「……どうして水桶が五つもあるのよ」


 庭の真ん中に到着した姫は、地面に置いた水桶を睨んだ。


「姫様の安全のためです。着物に燃え移るかもしれない、火傷するかもしれない、庭の草木に燃え移るかもしれない。主にこの三つに対処するためですよ」

「過保護ねぇ。幼児じゃないんだから、火が恐ろしいことぐらい知っているわよ。振り回したりするもんですか」

「それでも必要です。ここまでしないと、トヨさんの許可が降りませんでした」


 トヨは二の姫に仕えている老女の名前だ。


「まさか人生初の花火を水桶に囲まれてやるなんてね。いいわ。心配性のあなたたちが安心できるようにするのも、私の役目ってことにしてあげる」


 花火を持った姫は、まずナギに一本渡した。


「姫?」

「あなたもやるのよ。見ているだけなんて許さないわ。仕事を放棄する護衛という、最大の汚名をあげる」


 言うやいなや、姫は花火の先端をロウソクに近づけた。初めての花火を楽しむ姫の表情は、達観したところが消えて年相応の少女に見える。


 ナギも同じように火をつけたが、弾ける火花よりも姫の横顔が気になって仕方なかった。





 何年も壁屋敷で暮らしていれば、ここが作られた目的を嫌というほど知ることになる。


 道具を使っても越えるのが困難な高い壁。頑丈な門。四方に建てられた物見櫓。武器を手に敷地内を巡回する護衛たち。そして物々しい外観からは想像がつかない、華やかな屋敷。


 これらは外の有象無象から姫を守るためではない。生け贄を逃さないようにする檻なのだ。


 事実に気がつくと、壁屋敷の生活が息苦しくなってくる。ずっと中にいたら、ナギは心を病んでいたかもしれない。ナギがまだ正常でいられるのは、姫の命令で壁の外へ行けるからだろう。


 日を追うごとに、姫は美しくなっていく。反対に、ナギは誰にも言えないことが増えていった。


 つい姫を目で追ってしまう。彼女の行動の一つ一つが気になる。あのガラス玉のような瞳で見ている世界は、ナギが見ている世界とは違うのだろう。姫は壁屋敷から出たことがないはずなのに、ナギよりもたくさんのことを知っている。


「姫」


 庭を散歩している姫に、手を差し出した。この先は池だ。飛び石で反対側へ渡れるようになっているが、姫には危ないかもしれない。


「私が滑って落ちることを想像したのね? なんて失礼なの。少しくらい濡れても平気よ」


 自信たっぷりに姫は言う。


 真っ赤な鼻緒の下駄が飛び石を踏みつけた。反対側へ行く途中で一度だけ滑りそうになったが、ナギは手に力を入れて姫の体を自分へ寄せる。お互い何も言わずに次の飛び石へ移り、白い玉砂利の対岸へ到着した。


 姫は助けられたことに礼を言わない。それが当然だからだ。ナギも無事を確かめなかった。姫が怪我をすれば絶対に気がつく。そもそも、怪我をするような道なら、最初から避けている。


 ――こんな日がずっと続けばいいのに。


 昔は生け贄一人につき五十年の時間が与えられたらしい。現代も同じ周期では駄目なのだろうか。


 五十年も経てば、姫は見目麗しい少女ではなくなる。蛇神の好みから外れれば、姫が犠牲にならなくても済む。


 酷いことを考えているのは自覚していた。生け贄が姫でなければいいと思っているのだから。


 この壁屋敷を作った者達は、生け贄と深く関わらなければ心が痛むことはないと知っていたのだ。


 だから姫に名前を与えなかった。

 生きている人間ではなく、最期まで生け贄として扱うために。


 ナギは物見櫓を見上げた。人影が二つ見える。一人はこちらを見下ろして、姫を監視していた。


 高い塀を越えて脱走するのは無理だろう。どの方角から逃げてもすぐに見つかってしまう。それに自分一人だけでも塀をよじ登るのは大変なのに、姫を抱えて登れるとは思えない。





 ナギの元服から四年経った。


 近頃は姫がナギを呼びつける回数が減っている。その代わりに先生との授業が長くなり、あまりに庭へ出てこない。こもりきりで心配になるが、呼ばれてもいないのだから姫のところへ行けなかった。


 ナギは護衛だ。心配だからという理由で、姫を煩わせてはいけない。ナギと姫は最期まで生け贄と護衛でなければならないのだ。もしナギが護衛の心得を忘れていると知られたら、壁屋敷から追い出されてしまう。


 庭の紅葉が色づき始めたころ、久しぶりに姫がわがままを言った。


「金鉱山が見てみたいわ」

「……姫。それは、さすがに……」

「分かっているわよ。出られないことぐらい。だから金鉱山で使っている道具を全て見せて。いい? 鉱山で使っているもの全部よ。一つでも持ってこなかったら許さないから」


 なぜか道具の運搬にはナギも手伝うことになった。山の中腹まで荷車を押し、道具を積んで坑夫を連れてくる。生け贄の事情を知っている坑夫は、初めて入る壁屋敷に顔がこわばっていた。


 道具の説明は坑夫に任せ、ナギは興味深そうに聞いている姫を見物した。坑夫が自分の経験を話すと、姫は質問を交えながら楽しそうに聞いている。ナギと話している時よりも目が輝いているように見えるのは気のせいだろうか。


「金鉱山はすべて手作業というわけでもないのね」

「人力じゃぁ掘れないところもありますから。ちょいと発破をかけてやるんですよ」


 面白くない。ナギには姫が知らない話を提供できない事実を思い知った。


 道具と坑夫を鉱山に送り届け、屋敷に戻ってくると、あたりはすっかり暗くなっていた。使った荷車を片付けて護衛が雑魚寝をしている離れへ向かう。人の気配を察して振り向くと、物陰にいる姫と目が合った。


「……何をなさっているのですか」

「私はここの主人よ。どこにいようと問題ないわ」

「もう寝る時間では?」

「星の動きを観測しようと思ったのよ」

「今日は曇っております」

「私には見えるの!」


 姫が見えると言えば見えるのだろう。ナギは、そうですかと言った。


「……鉱山の中は見てきたの?」

「いいえ。出入り口は厳重に封鎖されていました。盗掘を防ぐために、関係者以外は入れないようにしているのでしょう」


 知ることができたのは道具の保管状況ぐらいだ。


「そう」


 姫は途端に興味を無くしたのか、大人しく寝所へ戻っていった。





 久方ぶりに姫がナギを呼びつけ、遠方の菓子が食べたいと言った。


 目的地までは行って帰ってくるだけで二日かかる。日を跨ぐ要求は珍しい。もちろん拒否をする理由などないので、ナギは皆に見送られて壁屋敷を出た。


 また別の日にも、姫は一日では終わらない用事を言いつける。何度か繰り返すうちに、ナギも皆も慣れてしまった。


 何があってもナギは壁屋敷へ戻ってくる。それが全員の認識だ。護衛の役目に嫌気がさして、どこかへ逃げるなんて考えていない。


 雪が溶けて桜の蕾が綻び始めたころ、ナギは姫の座敷へ呼ばれた。


「蛇神様が姫を求めておられる。出立は二日後だ」


 話を持ってきたのは、蛇神神社を管理しているという神主だった。金鉱山の責任者という男もいる。男は姫に黙って頭を下げた。


 座敷にはトヨと警備頭もいた。二人とも感情を削ぎ落とした顔で、黙って座っている。


 この時ほど、言葉が分からない子供でいたいと思ったことはない。


 姫は道端の小石でも見つけたような顔で、分かったとだけ言った。


「ナギ。お前は姫のお供をしなさい」


 警備頭がようやく口を開いた。落胆している声だと感じたのは、ナギの願望だろうか。


 この屋敷にいる全員を敵に回してでも、姫を逃すことは可能か。ナギは無謀なことを考えたが、姫の変わらない態度を見て改めた。


「お役目、承りました」


 手をついて頭を下げるとき、自分でも驚くほど感情がない声が出た。


 姫の顔を見る勇気がない。人形のように無表情だろうか。それとも苛立っているだろうか。姫が一切の感情を声に出さないということが、今は恐ろしい。


 神主たちが帰ったあと、姫は皆に要求の品を持ってこいと命じてきた。


「いいわよね? 最期なんですもの。私が心置きなく旅立てるようにするのが、あなたたちの役目よ。拒んだら首を吊って死ぬわ」


 もちろん反対する者はいなかった。ナギもまた姫から要求されたものを調達すべく、壁屋敷を出る。入手は困難だったが、不可能ではなかった。それもこれも、姫のわがままに付き合って、方々を駆け回ったからだろう。


 壁屋敷へ戻って座敷にいる姫に報告したが、なぜか今日に限って返事をもらえなかった。


「姫」

「世の中に姫が何人いると思っているのよ」

「しかし……」


 姫以外に呼び名を知らない。


「誰か一人ぐらい、私に名前をくれてもいいはずよ。一の姫だって、出立の前日にフジって名前をもらっていたわ」


 姫はいいことを思いついた顔でナギに近づいた。


「特別に、あなたが付けてもいいわよ」


 普通の名前では満足しないだろう。とはいえナギが持っている知識の中に、姫に合う名前が見つかるとは思えない。


 たっぷり考えた末に、ナギは一つだけ告げた。


「……おイワ」

「あなたは名付けをしない方がいいわ」

「すいません。妹にも同じことを言われました」

「名付けをしたことがあるの?」

「昔、家で可愛がっていた犬がいたんです。耳が半分欠けていたので、ハンカケと名前をつけました。それが、可愛くないと不評で」

「あなたの妹と意見が合いそうだわ」


 呆れた姫は、もういいわよと言った。


「勝手にサクヤって名乗るわ。私のお墓にそう刻んでおくのよ。いいわね?」


 話が終わり、ナギは座敷から閉め出されてしまった。


「……サクヤ?」


 文字は咲耶だろうか。美しいまま散ろうとしている姫には似合っていたが、ナギは自分が言った名前の通りであってほしいと思った。





 出立の日、ナギは玄関で皆と姫を待っていた。お揃いの白い着物に、浅葱色の袴。槍と弓を持っているが、身を守るためにだけ使えと言われている。


 皆は無言だった。壁屋敷の中は静まり返っていて、耳が痛いほどだ。


「ナギ」


 警備頭がナギに小さな布の包みを見せた。中身は蒸しまんじゅうだ。白い表面の頂点に、赤い点がついている。


「もし姫が嫌がったり、暴れたら、これを食べさせろ。心を鈍くさせる薬が中に入っている。あの姫なら大丈夫だと思うが、一応な」

「分かりました」


 ナギが包みを受け取ったすぐ後に、先生が庭の方から玄関へ歩いてきた。


「私は一足先にお暇いたします。もうお会いすることはないでしょう」


 この壁屋敷から姫がいなくなるのだ。先生の仕事も終わる。


「お世話になりました」

「こちらこそ、この数年は楽しかったですよ」


 先生は最後まで穏やかな人だった。


 やがて姫が奥から出てくると、皆は軽く首を垂れる。ナギは玄関で草履を履いた姫に手を貸して外へ出た。


 姫は今日初めて、壁屋敷の外へ出る。


 朝日の下で見る姫は、真っ白な絹の着物姿だった。光の加減で蝶の織り模様が浮かび上がって見える。頭には薄い紗を被り、化粧をした顔を半ばまで隠していた。


 花嫁衣装のようでもあり、死装束のようでもある。


 姫は片手にナギたちが集めた「姫が要望した品」を持っていた。これも白い布で包んでいる。姫が荷物を持参する決まりはないが、最期だから見逃されているらしい。


 ――この手をとって逃げることができたら。


 無理だ。こんな格好の姫を連れて逃げるなんて、現実的ではない。


 姫を真っ黒な漆塗りの駕籠に乗せ、一行は蛇神がいるという山へ向かった。生け贄の出立は村に通知されていたのか、遠くに見える民家に隠れてこちらを見物している村人が見える。あの中にはナギの家族もいるのだろう。できることなら、生け贄の出立を悲しんでほしい。


 山への入り口に到着すると、姫は駕籠から出た。背負子に姫を乗せて、交代で山道を登っていく。山道は誰かが整備しているらしく、余計な草や枝を取り払い、登りやすいように要所要所を石で補強してあった。


 ときおり鳥の鳴き声がする以外は、生き物の気配を感じられない。


 途中で一人、また一人と立ち止まった。送る側から見送る側になるのは、昔から続いているしきたりだ。やがてナギが背負子を背負う順番が回ってきた時、同行しているのは先ほどまで姫を背負っていた護衛だけだった。


「ナギ。いけるか?」

「うん」


 初めて背負った姫は軽かった。屋敷に届く米俵を運ぶ方がきついはずなのに、心は辛いと言っている。


「すまんな」


 交代した護衛は、荷物を一つナギに預け、耳元で言った。


「最後の役割はお前じゃない方がいいと思ったんだが……姫がどうしても、と」

「大丈夫。途中で逃げたりしないよ」


 ナギはしっかりした足取りで山道を登っていった。

 護衛が見えなくなったころ、後ろから声がした。


「ナギ」


 姫が初めてナギの名前を呼んでいる。信じられなくて空耳かと思ったら、また名前を呼ばれた。


「……はい」

「あなたは私を送り届けたら、屋敷へ戻らずに遠いところで暮らしなさい」

「なぜですか」

「壁屋敷の護衛、向いてないわよ」

「姫」

「あなたが泣いても意味ないの」


 ナギは濡れている頬を袖でぬぐった。


「顔が見えないから分からないと思った? 私ね、耳がいいのよ。情けないって言いたいところだけど、皆の前で泣かなかったから許してあげるわ」


 姫はいつもと変わらない。


「あなたは壁屋敷じゃなくても生きていけるわ。だって、そのために先生を呼んで一緒に勉強してあげたのよ。山の歩き方も覚えたわね? 畑の仕事も少しだけやったから、次は一人でやれるでしょ。でも最初は不安だと思うわ。だから先生のところへ行きなさい。話を通してあるのよ。ナギっていう不器用な男の子を助けてねって」


「……どうして、そこまでするのですか」

「あなたって真面目すぎるのよ。絶対に生け贄のことを引きずるでしょう? 私を蛇のところへ連れて行ったあとは、護衛なんてできなくなるはずよ。次の生け贄候補が連れてこられたら、きっとその子を連れて逃げようとするでしょうね。馬鹿な人。そんなことをしても、生け贄を捧げることは無くならないわ」


「姫。答えになっていません」

「うるさいわね。いいから聞きなさい。あなたのことだから、毎年、お墓に花を持ってくるでしょうね。そんなことしたら怒るわよ。山を降りたら、生け贄に関することは全部忘れるの。いいわね?」


 途中から姫の声は震えていた。


 遠くから水が流れる音が聞こえてくる。蛇神がいるという淵が近い。

 ナギは休憩しますと言って、姫を降ろした。


「姫」

「うるさい。ここから先は私一人で行くわ。あなたなんて必要ないのよ」

「いいえ。お供します」

「へえ。じゃあ私が逃げるって言ったら、ついてくるわけ?」

「姫が……サクヤ様が望むなら」

「あなたって本当に可愛くない!」


 姫はそっぽを向いて黙ってしまった。


「昔から可愛くなかったわ! 私のことが嫌いになるように、何度もわがままを言っていたのよ。それなのに馬鹿正直に全部聞いて叶えようとするなんて、どうかしてるわ。仕事が嫌になって逃げればよかったのに。そんなに給金の額が良かったの?」

「いいえ。姫の側にいたかったのです。こんな日が来なければいいと、ずっと願っていました。壁屋敷で過ごした日々は、なんと言われようと忘れられません」


 振り向いた姫は無言でナギを見上げた。


「……そこまで言うなら、私が死ぬまで私のために動きなさい」

「分かりました」


 ナギは再び姫を背負って蛇神がいる淵を目指した。


 滝の音が大きくなった。山道は清らかな川に続いている。そこを登っていくと、淵に流れる滝が見えた。


「あの上よ」


 回り道を探して滝の上に登った。蛇が淵という名前の通り、大きな滝の下に深い淵が広がっている。


「滝の中腹に洞窟があるのよ。そこにいるわ」


 よく見れば淵の外側から滝の裏側へ入れる道がある。ナギは姫を降ろし、矢筒と一緒にまとめていた弓に弦を張った。


「矢が一本しか入っていないわよ」

「そういう決まりなんです。蛇神様に敵意がないことを示すため、と聞いたことがあります」

「嫌になるわね。何もかも蛇のためだなんて」

「姫。御神酒はいかがしますか?」


 ナギは背負子にくくりつけてあったひょうたんを外した。


「飲まないわ」


 はっきりと姫は拒絶した。


「それね、生け贄が恐怖を感じないようにするためのものよ。あなたが持っているお菓子と同じだわ」


 やはり姫は薬入りのまんじゅうのことを察していたらしい。ナギは蒸しまんじゅうを背負子の上に置いた。


 姫が着物の帯を解き、着物を一枚脱いだ。白い着物の下に隠れていた、紺色の着物が現れる。下半身は農民が着ている裾が窄まった袴だ。


 姫は抱えていた荷物の中から同じ色の足袋と草履を出して身につけ、被っていた紗を乱暴に取り払う。頭につけていたかんざしも取り払い、一度脱いだ着物を羽織って体の前で合わせた。


 ここからは姫にも歩いてもらわないといけない。姫は文句も言わずに、残りの荷物をしっかり抱いて、ナギの手を借りながら滝裏への道を進んだ。


 洞窟の手前は大きくえぐれていた。姫と並んで立っても、まだ余裕がある。洞窟の入り口はやや狭い。


「明かりは?」

「用意いたします」


 ナギは護衛に渡された荷物の中から提灯を出した。ロウソクに火をつけて洞窟の奥を照らしてみる。中はかなり深いらしく、奥まで見通せない。


「行くわよ」

「はい」


 ナギを先頭に進んでいくと、重いものを引きずる音がした。


「止まれ」


 奥から耳障りな声がする。ナギは提灯の光で奥を照らした。洞窟は急激に狭くなり、人一人が入れる隙間だけが空いている。その奥に、ぎらついた黄色い瞳が見えた。


 蛇神かと身構えたナギは、胸に衝撃を受けて吹き飛ばされた。息が詰まる。無様に転がった拍子に、矢筒が落ちた。中に入っている一本の矢が、半分だけ外へ出る。


 胸に手をあてると、濡れた感触があった。口の中が金臭い。


「男は近づくな。教えてもらっていないのか?」


 蛇神と思しき声がする。提灯は洞窟の入り口付近まで飛んで行ってしまった。提灯全体が火に包まれていく。燃え尽きるのも時間の問題だろう。


「ナギ……」


 振り返った姫の顔は暗くて見えない。だが青白くなっているのだろう。ナギはどこか他人事のように感じていた。


 姫の着物と抱えている荷物だけがよく見える。

 胸が焼けるように熱い。体を起こしたが、片膝をついたところから立ち上がれない。


「我の前で、男の名前を呼ぶでない。目の前で切り刻んでやっても良いのだぞ」


 ずるりと重いものが奥へ移動する音がした。ぼんやりと巨大な蛇の尻尾が見える。先端が姫の体をなでた。


「はよう来い。存分に愛でてやろう。我は今、気分がいい。お前が素直に来るなら、そこの男は見逃してやってもいい」


 ナギは矢筒を掴んで洞窟の出口へ向かって歩きだした。最初はゆっくりだったが、次第に体が動くようになってくる。


 背を向けて去っていくナギに向かって、蛇の笑い声が追いかけてきた。


「これは傑作だ! 勇ましい格好で入ってきたかと思えば! 少し遊んでやっただけで逃げていくぞ!」

「彼の役目は私をここへ連れてくることです。戦うためではありません」


 姫は抱えている荷物に視線を落とした。


「そこにいるの? 暗くて見えないわ」

「真っ直ぐ歩いて来い。そう、そのまま」


 蛇神が姫を誘導している。姫は起伏が激しい洞窟内をふらつきながら歩いていく。


「その穴から入っておいで。怖がることはない。共に楽しく暮らそうではないか」


 裂け目を何かが通っていく音がする。


 洞窟の入り口まで戻ったナギは、矢筒から濡れている矢を取り出した。本来なら矢尻があるところには、布が巻きつけてある。己の血で嗅覚が麻痺しているが、姫が飲まないと言った酒がたっぷりと染み込ませてあった。


 提灯の火は、いまにも消えそうだ。


「最後にお前の願いを聞いてやろう。なんでも言ってみろ。叶えてやろう」

「いらないわ。聞くだけ聞いて、どうせ叶えてくれないもの」


 洞窟内の空気が震えた。


「生け贄一人につき五十年という約束を守らない奴が、私の願いを聞くなんて思えないわ。あなたが願いを叶えたとしても、私にそれを確認する方法なんてない。だから言うだけ無駄よ」

「生意気な」


 蛇の威嚇音だ。ナギは直感でそう思った。


「力の差も分からんなら、まずはお前の喉を潰して――」

「ナギ!」


 初めて聞いた姫の叫び声に、体が反応した。即席の火矢を構えて待っていたナギは、遠くに見えている白い的へ向かって矢を放つ。


 動かない目標物なら当てられる。姫が着ていた白い着物は目立つ。


 矢を放ってすぐ、ナギはこちらへ走ってくる姫の腕を掴んだ。ナギが姫の体を抱えると同時に、奥から爆風が襲ってきた。ナギと姫はお互いの体に縋り付くような格好で、洞窟の外へ押し出される。


 姫が蛇神のところへ出立することが決まった日から、ナギは彼女の要求する品を集めてきた。姫が着ている紺色の着物や、矢尻に布を巻いて細工をした矢も、姫の指示だ。


 とくに入手が難しかった品は、姫が裂け目に押し込んだ火薬だった。事前に金鉱山を偵察したナギが前日に忍び込んで、抱えられるだけ持ってきた。今頃、金鉱山ではちょっとした騒ぎになっていることだろう。


 蛇は怒り狂って叫んでいる。爆発音で聞こえにくくなったナギの耳には、くぐもった囁き声にしか聞こえない。


 洞窟前の足場が崩れた。爆発の衝撃はナギが予想したよりも大きかったらしく、洞窟の奥から崩落が始まった。


 体が傾いだ。ついに足場が無くなってしまった。


 滝に飲み込まれたナギが最後に見たのは、腕に抱えた姫の艶やかな黒髪だった。



***



「――それで終わり?」

「はい。おしまいです」


 ウスイがそう答えると、子供は不満を顔全体で表現した。土間で縄を編むウスイの隣に座って膝を抱え、面白くなさそうに藁をいじっている。


「二人はどうなったの? 蛇神は?」

「二人の行方は分かりません。蛇神は、あれから何の音沙汰もないので死んでしまったのでしょう」

「つまんなーい。じゃあ金鉱山は?」

「今も金を採掘していますよ。ただし、金脈を見つけるのが難しくなったようですね。以前の半分ほどの採掘量です」

「蛇神は本当に金脈を教えてくれていたってこと?」

「そうかもしれません」


 子供はまだ聞き足りないようで、矢継ぎ早に質問してきた。


「蛇神は水を抑えていたんだよね? いなくなって大変なんじゃないの?」

「まず川の水量が減って、以前ほど川が暴れなくなりました。蛇神がいた洞窟が崩れて、川の流れが変わったのでしょう」


「じゃあ壁屋敷は?」

「蛇神がいなくなったので役目を終えました。今は跡形も残っていませんよ。もう何年も前の話ですから。あそこで働いていた人々も、どこかへ離散してしまったようです」

「じゃあ蛇神の神社も?」


 生け贄は神社を管理する家系から選ばれる。子供はそれを覚えていたらしい。


「あの神社は土砂崩れで埋まりました」

「ふーん……おじさんが集めてる話って、変なのが多いね。この前は化けたぬきを捕まえたと思ったら、人間だった話だったじゃないか。現実はそんなもんだって言うけど、やっぱり面白くないよ」

 好き勝手に感想を言った子供は立ち上がって帰ろうとしたが、思い出したようにウスイのところへ戻ってきた。

「忘れるところだった。お父からまんじゅうと手紙を預かってたんだよ。手紙はね、山の向こうから届いたやつだってさ。さっき行商人が持ってきたんだって」


 子供は風呂敷包みをウスイの隣に置き、じゃあねと言った。


「気をつけて帰るのですよ」

「大丈夫だよ。近所だし」


 子供の姿が見えなくなると、ウスイは風呂敷から手紙を抜き取った。夫婦二人で書いたのだろう。二種類の筆跡が並んでいる。


 かつて高い壁に囲まれた屋敷で見た筆跡と、なんら変わっていない。


「穏やかに暮らしているようで、何よりです。色々と教えた甲斐がありました」


 ウスイは図らずも彼らの「計画」に関与できたことを嬉しく思っていた。


「対価が人の命でなければ、今も神として崇められたのに。しょせんは神になり損ねた畜生。見下していた人間に退治されて、さぞ業腹だったでしょうね。神社が潰れてしまったのは偶然かもしれませんが、積もり積もった生け贄の感情が働いたことも……」


 自分の思考に囚われそうになったウスイは、軽く頭を振った。


「考えても答えは出ませんね。これ以上、犠牲者は出なくなった。それで良しとしましょう」

読んでくださってありがとうございます

満足していただいた方も、そうでなかった方も、よろしければ下の星を塗りつぶして満足度を教えてください。励みになります。


佐倉百

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