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血と賭け

 柊は夢の中で泣いていた。彼は子どもの姿で、ひとりぼっちだった。


 彼は暗い場所にいる。墨のように真っ黒な空間にうずくまって動けない。


 時折、透明で光る人型のものが目の前を通り過ぎるが、そのどれも、柊の前で立ち止まることはない。

 助けを呼ぼうと喉をいくら振り絞っても、口から出るのは嗚咽ばかりである。


 いつもの夢だと理解はしていた。だが涙を抑えることができない。



 不意に柔らかなものが柊を包み込んだ。


──大丈夫大丈夫、きっと大丈夫……


 一番欲しい言葉が耳元に囁かれる。柊はそれにしがみつく。もう置き去りにしないで、ひとりにしないで、と必死にしがみつく。


 髪を撫ぜられ、背中を優しく叩かれて、柊は穏やかな気持ちで眠りについた。







 物心ついた時、既に母はいなかった。父によると「男と逃げた」らしい。

 だから幼い柊は父と祖母と、三人で暮らした。


 小学校に入学すると同時に祖母が死に、父と二人暮らしとなる。


 そして三年生に上がった時、父は再婚した。義母は大人しく優しい女で、柊を実の子のように可愛がってくれたし、柊も彼女によく懐いた。


 三人の生活はうまくいっているかに見えた。

 ところが四年生の冬、父親が忽然と姿を消す。義母が職場に問い合わせても、思い当たる場所を探しても、行方は知れなかった。前兆も、消える心当たりも全くなかった。


 事故や事件に巻き込まれたのかもしれない。二人は父の身を案じた。

 義母と警察まで捜索願を出しに行った帰り、見上げた空に細かな雪が舞っていたのを覚えている。


 父を待つ二人の元へ、彼からの封書が届いたのは半年後のことだった。


 仕事から帰った義母は居間に駆け込み、アニメを観ていた柊の前で封を破った。しかし二人の意に反して、出てきたのは一通の離婚届。

 当時の柊はその三文字の漢字を読むことができなかったが、義母の顔色がはっきりと青ざめてゆくのを見て、ただ事ではないと察した。

居間の時間が凍りついた。


 赤の他人となった後も、元義母は柊の世話を焼いてくれた。責任感の強い人だったから、義務感でそうしたのだろうと柊は思う。


 だが結局、彼女は酒に逃げるようになる。仕事にも行かず、家にこもって、一日中グラスを舐めていた。


 ある夜、テーブルに突っ伏す元義母に柊は毛布を掛けてやった。すると彼女は起きていてこう言った。

「優しいふりしてあんたにも、あの男の血が流れてるのよね」

 その言葉と暗い目が忘れられない。


 父親は、優しかった元義母を三年足らずで別人へと変えてしまった。彼女から掛けられた言葉同様、その変化も柊をおののかせた。


 そして彼女も、時を経ずして柊の前からいなくなる。蒸し暑く、酷い夕立の降った日の夜遅く、こうなることを前からわかっていたような気持ちで、柊はひとり少し硬めのカップラーメンをすすった。


 柊は元の両親を、ご飯を作って待った。家庭科の教科書を参考に、下手なりに味噌汁やおひたしを作った。それでも誰も来なかった。

お利口にしていたら帰ってくるのだと信じ、家の掃除をし、夏休みの宿題もちゃんとやった。


 誰かに迎えに来てほしかった。父でも元義母でも死んだ祖母でも、顔も知らない実の母でもいい。でも誰も来なかった。

 その内お金が尽き、家の電気も止まり、街中を歩き回った。


 孤独な生活の幕切れは、夏休みの終わりに訪れる。公園で倒れていたのを救急搬送されたのだ。


 熱中症に加えて軽度の低栄養状態と診断された彼は、入院生活を経た後、児童養護施設へ送られることとなる。引き取ろうとする親戚はいなかった。


 彼は前髪を伸ばし始め、自分を外界から遮断した。

 人と関わろうとせず、施設を抜け出して海にばかり行った。潮溜りでひとり、イソギンチャクやヤドカリをつついて何時間でも座っていた。


 児童養護施設を十八で退所後、柊はがむしゃらに働いた。ろくな思い出のない地元を離れ、寮付きの仕事を求めてあちこちを渡り歩いた。


 高校の同じクラスの者達が当然のように進学して行くのを横目で見ながら、自分も大学に行きたいと強く思ったからである。

 だが経済的な理由から、それをいったん諦めた。


「やることもないし遊びたいからとりあえず大学に行く」と言う呑気な奴らに柊は激しく嫉妬し、そして憎んだ。


──親無しが大学に行って何が悪い。


 それだけの理由で、意地になって金を貯め続けた。仕事が休みの日にも単発のバイトを入れ、寝る間も惜しんで受験勉強をする日々が続く。


 進学できればどの学部でも良かったが、海が好きだからという何となくの理由から、柊は水産学部を選んだ。


 二年遅れての働きながらの学生生活は、もちろん楽ではない。

 それでも彼はお金が尽きかけた時には、あの十一歳の夏の苦しさに比べればと自らに言い聞かせて乗り切り、なんとか四年で卒業する。


 柊はできれば大学に残りたかった。人間の相手は最小限に留め、好きな海の生物と関わって生きていたかった。

 だが現実的な問題が立ちはだかる。学費と生活費が足りない。


 大学院への進学を諦めた時、警察から一本の電話が入る。行方知らずの父親が孤独死したという知らせだった。

 父はなんと隣の県にいた。築四十年の狭い木造アパートに、一人きりで住んでいたという。


 どうして俺がと最初は拒否したが、一晩眠らず悩んだ末、彼は引き取りを決意する。自分の最期を見るような気がして、とても無視できなかったのだ。


 父親の部屋は不自然なほど殺風景で、腐臭のようなものがこびり付いていた。

 ゴミ袋に投げ入れるように少ない遺品を整理する中、一枚の古い写真が彼の目にとまった。押し入れに直に置かれていたノートや本をいっぺんに掴んで持ち上げた時、それはヒラヒラと足元に落下したのだ。


 こどもの日に祖母が撮ったものらしく、父と柊が並んで写っている。幼い柊は新聞紙の兜をかぶり、おもちゃの鯉のぼりを持ってはにかんでいる。

 そして、まだ三十歳前後であろう父は、柊の肩に手を置いて目を細めていた。


 柊は久々に見た父の顔に総毛立った。その顔は鏡の中の、父の年齢に近づきつつある彼自身にそっくりだったのだ。

 柊は写真をくしゃくしゃに丸め、思い直してバラバラに千切って捨てた。


 西向きの部屋のすりガラスの窓から入る日は昼間でも弱々しく、テーブルの上に二つ並ぶ焼酎の瓶や、几帳面に束ねられた薬の入った袋、時間の止まったカレンダーをより辛気臭く見せていた。


 やがて日没を迎えた時、部屋は一面真っ赤に染まった。


──血の檻。


 しばらく動けなかった。


 その後の煩雑な死後の手続きの途中、父親の銀行口座に三百万ほどの預金があることが判明する。柊はそれを相続し、大学院の学費と生活費の足しにした。


 父親には最終的には捨てられたにしろ、数年間は親子水入らずで暮らした温かな思い出もわずかにある。だが涙の一滴も出なかった。


──絶妙なタイミングで逝ってくれてサンキューな、親父。


 むしろ、父の死を喜んでいる自分がいた。


 柊は自分に流れる血を憎んだ。







 夢うつつに、柔らかいものに触れた。目覚めると女の寝顔があった。


──なんでコイツがいるんだっけ……。


 カーテンの隙間から差し込む光の角度から、朝なのだと気付く。半日も眠っていたのか、と柊は自分に呆れた。


 熱の下がった身体の軽さと、寝過ごした後の気怠さとが混じった妙な心地だった。


「おい起きろ」と、毛布を深く被り仰向けに寝る女の頬を軽く叩く。夏帆はわずかに顔をしかめた。

長い睫毛(まつげ)が、また柊の心を騒つかせる。


 肩を揺すろうと毛布をずらして息をのんだ。外れかけた肩紐のかかった華奢な肩が目に飛び込んだからだ。


 夏帆の上半身は、ただ一枚のキャミソールで覆われているだけなのだった。


 ぎょっとするが、枕元に脱いだ服や上着、ブラジャーが綺麗に折り畳まれて置いてあるため、柊自身がやったわけではないとわかり胸を撫で下ろす。

 それに、いくら熱で朦朧としていたとしても、そのような行為があったのならば記憶に残っているはずだ。


 柊は毛布を元通りに掛けなおそうとした。しかしホッとしたのも束の間、夏帆が体の向きを変えた。寝顔が間近に迫る。


 柊は繊細な睫毛の一本一本に見入った。視線に気がついたように瞼が持ち上がる。


「後悔するなよ?」


 夏帆はパチパチと瞬きを繰り返している。


「何があっても後悔するなよ?」

 肩紐をぐいと下げてもう一度聞くと、夏帆は返事の代わりに柊の首に腕を巻きつけてきた。


 柊の頭のタガが、完全に外れた瞬間だった。

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