ふたたび水槽の部屋
夏帆は両手に重い袋を下げて、夕暮れ前の道を歩いている。満開の桜が頭上でヒラヒラと手を振っている。
──先生とお花見に行きたかったのに。
このところ柊と会っていない夏帆は、どうも欲求不満気味だ。
卒業式も終わり、もはや大学に用はないのに、柊に会うためだけに何かと理由をつけて研究室をのぞくのが夏帆の日課だった。
しかし柊は体調不良で、もう三日も研究室に来ていない。
そうでなくても年の瀬に屋上で流星群を見て以来、柊との関係はすっかり希薄となっていた。
まず年末年始は冬休みがあり、春からする予定の一人暮らしのため短期バイトに精を出した。それが明けると卒論研究の追い込みと発表の準備が始まった。
さすがの夏帆も学生の本分以外のことで、のんびり柊に構っている暇がなかった。
バレンタインデーに市販のチョコレートを送ったくらいだ。予想通り、お返しは無し。
そして消化不良のまま卒業してしまった。
もちろん、彼のことを諦めたわけではない。しかし夏帆には柊が何を考えているのか、相変わらずさっぱりわからない。
夏帆を試しているのか警戒しているのかそれとも両方なのかどちらも違うのか、柊の行動の意味をいくら考えても結論が出なかった。
屋上で苦いコーヒー味のキスを味わった翌日からも、彼は何事もなかったように夏帆に接する。
──まるで逃げ水みたいな人。
ただ星空の下で聞いた「お前とはヤッてヤッてヤリまくりたいんだよ」というセリフ、なんとなくあれは百パーセント本心のように思えてならない。
それを夏帆は、ポジティブに解釈することに決めた。
つまり彼は夏帆の人格には興味はないが、肉体的魅力は感じているということになる。
この際、身体だけの関係でもいい。「運命の人」と、卒業後もなんらかの形で繋がっていたかった。
いい加減、腕が疲れてきた。何しろ両腕のエコバッグには、ペットボトルや果物などがぎっしりと詰まっている。夏帆は立ち止まり持ち手の位置を変えた。
今から柊のアパートに行くのだ。
柊のスマホは、いくら電話しても繋がらない。電源が入っていないようだった。
もしかすると高熱でうなされ食事も取れない状態で強盗に押し入られ、身ぐるみ剥がされた挙げ句の果てに孤独死しているかもしれない。
夏帆は居ても立っても居られなかった。玄関で追い返されるとしても、彼の無事の確認だけはどうしてもしたい。
柊の住むアパートは、昨夏の飲み会帰りに一度行ったきり。記憶の引き出しからその住所を引っ張り出しながら、夏帆は足早に歩を進めた。
──確か小さな郵便局を曲がって裏道を少し歩いて、外階段のあるアパートの一階の真ん中の部屋。
呼び鈴を三回鳴らすと、無精髭を生やした固太りの男が出てきた。四十を少し超えたくらいに見える。
──先生がこの三日で年老いて肥大した?!
夏帆は一瞬血迷ったことを考えたが、部屋を間違えたのだとさすがに気付く。
「あんた何」
男は酒臭い息を吐いた。
まずい。夏帆は「もうすぐ社会人モード」を発動させた。
「申し訳ございません、間違えたようです。ご迷惑おかけしました」と頭を下げる。
ところが男はドアを閉めずに夏帆を上から下まで舐めるように見ている。
「誰に用?」
「柊先生という人です」
「あいつ先生なのか」
男は意外そうな顔した。
「部屋の番号ご存知ですか?」
「あの無愛想で暗い男の部屋はそっち」と、顎で左隣を指す。
夏帆はムッとした。
「暗いと言うか、影のあるミステリアスな魅力と暗さに満ちた方です!」
「へぇ、あの根暗男も隅におけんな」
男はニヤニヤしている。
「アイツがどうかしたの」
「連絡が取れないんです。中で倒れてるのかも……」
男の目に怪しい光がともる。
「じゃあウチに入りなさい」
「え」
夏帆の頭で危険信号が明滅した。
「ウチ通って、ベランダの仕切り破ってのぞいてみればいい、緊急事態なんだろ」
「いえ結構です、ホントにすみませんでした」と言って立ち去ろうとした時、強い力で二の腕を掴まれた。下げていた袋が落ちる。
「いいから来いって!」
豹変した男に引っ張られ、血の気が引くのがわかった。
とっさに「先生助けて!」と叫んでいた。
部屋に引き込もうとする男に必死で抵抗していると、隣のドアが勢いよく開いた。顔を出した柊は一瞬で状況を把握したらしく、つかつかと二人に歩み寄り男の腕に手をかけた。男が力を緩める。
「コイツは俺が引き取りますので」
こちらも「社会人モード」の爽やかな笑顔で
「すみません。二度とこのようなことがないよう、よく言って聞かせます」と少し掠れた声で言って、夏帆の手を掴み引き寄せた。
「クソが」
捨て台詞の後、勢いよくドアの閉まる音。
夏帆がしばし呆然としている間、柊がエコバッグを拾い上げる。
「重いなコレ……兵器かなんか?」
二人は部屋に入った。
ドアの内側で、柊はため息を吐いた。
「危機管理能力どうなってんだよ」
「痛い……」
夏帆は上着の裾を捲り上げ、先ほど掴まれた二の腕を確認した。
「おい、そこ大丈夫?」
夏帆のさする右腕の関節付近は、皮膚が引きつって盛り上がったようになっている。
「ただの古傷です。……怖かった」
恐怖が今頃になって襲ってきた。柊に正面から思い切り抱きつく。
柊はバランスを崩し、狭い玄関の床に尻もちをついた。エコバッグの中身が散乱する。
「おいおい……」
「会いたかったです」
柊の胸に顔を擦り付けていると、厚手のスウェットを通して熱が伝わってきた。
バン!
突然、壁の向こうで何かをぶつけたような音がした。二人は顔を見合わせた。
「先生、ここ治安悪くないですか?」
「隣のヤツが異常なだけだよ」
「あの人ヤバいですって。引っ越した方がいいですよ」
「つーかマジでしんどいんだって……」
「すみません!」
夏帆は慌てて柊から身を離す。
しんどいというのは本音らしく、柊はすぐにワンルームのフローリングに直接敷いてある布団に潜り込んだ。夏帆も後に続く。
部屋はカーテンが閉め切られて薄暗い。前回同様、壁際に複数の水槽が並ぶが、今は光は灯っていない。
「あの……ちょっとだけ居させてもらっていいですか?」
「危険だから、しばらくはここにいた方がいいかもな」
柊は布団の中から目だけこちらに向けている。熱のためか表面に膜が張ったようになった瞳に、細く差す夕方の日が映っている。
ほら、やっぱり綺麗だ、と夏帆は思った。
「すみません……体調悪いのに」
夏帆は布団のそばに座り、柊の額に手を当てた。夏帆の大好きな目が全貌を露わにする。
柊はなされるがままとなっている。
「やっぱり熱っぽいですね」
頬も少し赤い。夏帆はキュンとした。
「そんな時にはコレ」
夏帆は玄関に散乱した物体達の中からひとつを選びとって来て、天高く掲げた。そして低めのダミ声で叫ぶ。
「冷〜却シーーートォォォーー!」
「運命の人」を看病しなければ、という使命感に燃えているのである。
「ドラえもんかよ」
「ハイ。昔の方の。ジャイアンが常に橙色の服着てた頃の」
今度は黙殺される。
また壁ドン。
「壁薄いんだから勘弁してくれ」
「すみません」
今日の夏帆は謝ってばかりだ。
冷却シートを開封し、夏帆は柊の前髪をかき上げた。形の良い額をしばし堪能した後、貼り付ける。
「感染するぞ」
「大丈夫。周りがインフルエンザにかかった時も、牡蠣にあたった時も新型感染症の時も、私だけは無事でした」
「強靭な免疫機能が羨ましいよ」
「先生って、なんで前髪長いんですか」
夏帆は以前から気になっていることを尋ねてみた。
「落ち着くから」
柊は簡潔に答えた。
「病院行きました?」
「行ってない」
「そう思っていろいろ買ってきました」
夏帆は玄関に散らばった残りの物を運び入れて並べた。
ポカリスエット、ビタミンジュース、野菜一日これ一本、ペットボトルの緑茶に麦茶、赤いきつねと緑のたぬき、大量のレトルトの粥やサトウのごはん、桃の缶詰、のど飴にゼリー飲料、ヨーグルト、プリン、梅干し、黒酢、アイス、りんご、みかん、ハンドタオル、割り箸、スプーン、万能ナイフに万能ネギ、解熱剤、種々の風邪薬……。
単発バイトの帰り、スーパーとドラッグストアを梯子して買ってきたのである。
ズラリと並んだ物資を見て、柊は「やっぱりドラえもんなのかお前は」と呆れている。
「りんごの皮剥きしていいですか?」
洗面所で手を洗った夏帆は、りんごとナイフを準備した。
「愛する人の体調不良時にりんごの皮を枕元で剥くのが夢だったんです」
「安上がりな夢だな」
柊は「勝手にしろ」とは言ったが、迷惑そうな響きはなかった。
いつものようにあからさまに邪険にされないのは体調不良によるものもあるだろうが、本当はそばにいてほしいのだ、と夏帆は都合よく解釈した。
それに、あの時見た鬼気迫る背中、全てを拒んでいるような背中。
夏の日の真夜中、水槽の光に黒い影として浮かび上がった彼の背中は、静かでいて雄弁に何かを語っているように思えてならなかった。
助けて助けて助けて助けて、寂しい寂しい寂しい寂しいと、痛切な叫びを聞いた気がした。
だから夏帆はそばにいることに決めた。それが少しでも彼の助けになるならば。
りんごの皮はドラマみたいにひと続きには剥けなくて、ぶちぶちと途中で切れまくった。
「お前下手だなぁ」
「あーん」
差し出すと柊は素直に一口大のりんごを口に入れた。
「薬も要ります? これが解熱剤、こっちは喉痛の薬、これは鼻水に特化したの、咳止め、葛根湯もありますよ」
柊は解熱剤を選んだ。
「正直助かった、金払うよ」
夏帆は慌てて、
「いいんですいいんです! 私が勝手にやったことだし、先生には一年間お世話になりましたから」
「そう……鍵はその台の上。郵便受けに入れといて。あと水槽の明かり点けといて」
すうっと眠ってしまった。
──体調の急変に備えなければ!
水槽のスイッチをなんとか探し当てた夏帆は、どさくさに紛れて柊の隣に添い寝する。
柊の規則正しい寝息を聞いていると、夏帆もいつの間にか眠っていた。
苦しげな音で目を覚ます。
音はすぐ横から聞こえてくる。寝返りを打ってそちらを見ると柊が泣いていた。
付けっぱなしの水槽の光に、部屋の様子がぼんやり浮かび上がる。
彼は胎児のように背中を丸めてこちらに顔を向けていた。そして眠ったまま、すすり泣いていた。
「先生……?」
前髪が重力により布団へと垂れ、ふたつの瞼が至近距離に見える。
溢れた涙は目尻をつたい、布団に流れ落ちてゆく。涙は後から後から零れ、布団に濃いしみを描く。
静かだけれど深い悲しみに満ちた泣き方だった。
「先生……」
夏帆は指で彼の瞼を拭った。
去年ここを訪れた時に聞いた、彼が小学生の頃の記憶の断片。
柊が時折見せる影はおそらく、幼少時の家庭環境に起因しているものだと夏帆は考えている。
体の位置をずらして、柊の頭を胸に抱いた。
「大丈夫大丈夫、きっと大丈夫……」
今度はこちらが励ます番だ。夏帆は柊の耳にそっと囁き背中を軽く叩いた。
すると柊は夏帆の腰にギュッと抱きついてきた。
──萌える……。
年上の男がふと見せる意外な仕草は、夏帆の母性本能を十二分に刺激した。
後頭部の髪をゆっくりと撫でる。柊は夏帆の胸に深く顔をうずめた。そして安心したように、穏やかな寝息を立て始めた。
激しさを増す鼓動が彼を起こしてしまわないか、夏帆は心配になった。
──もう少しの気がする。先生を振り向かせられるまで、もう少し……。
夏帆は大きな賭けに出ることにした。