遠い人
道ゆく人々の注目を浴びながら帰宅した夏帆は、鏡の前で小麦色のファンデーションを落としながら考える。
──先生は運命を信じないって言ったけれど、私は信じてる。だって、私自身がそれを目の当たりにしたから。
夏帆にとって、柊は「運命の人」である。「運命の人」のためなら死ねる、とも夏帆は思っている。
── 彼に初めて会った日、私は一度死んだ。だから文字通りこの命、彼に捧げてもいいんだ。
夏帆には恋愛経験がない。
初めてのデートも、キス(セカンド)も、それ以上も、「運命の人」とすると決めているからだ。
しかしその「運命の人」であるところの柊が何を考えているのか、夏帆にはさっぱりわからない。
夏帆は大学入学後の三年間、勉強ばかりしていた。成績上位者は希望する研究室に優先的に配属されるからだ。
が、念願叶って柊と同じ研究室に入ることができたのに、彼との距離は一向に縮まる気配がなかった。
先輩達に聞いても柊の私生活は一切謎。独身らしいということしかわからない。研究室の外では誰とも会わないし、よほどの理由がない限り飲み会にも来ない。
柊は感情の起伏があまりなく、表情もあまり変わらない。ただ黙々と慣れた手付きで実験器具を扱い、周囲をうろつく夏帆を淡々とあしらい、油断すると風のように研究室から消えていたりする。
かと思うと時おり実験台に頬杖をついて、物思いに耽っていることもある。そういう時、彼の背中に何者をも拒絶する壁を感じ、さすがの夏帆も話しかけることができなかった。
しかし夏帆は、彼の長い前髪の下の瞳がとても綺麗なのを知っている。
彼の瞳が好きだ。器具を操作する、長くてしなやかな指が好きだ。癖のある黒い髪も、落ち着いたやや低めの声も、着古した白衣を脱ぎ着する様も、白衣の下の長い手足も、実験台の前でその足を組む仕草も、全てが夏帆を釘付けにする。
彼の瞳を間近で見たくて、ネットの恋愛に関する情報を読み漁り、夏帆は様々な作戦を春から決行してきた。
まずボディタッチを頻繁に行ってみた。
「先生」と呼びかけながら肩や腕周辺をピシリとやる。しかし柊は「痛い痛い」と普通に痛がるだけだった。
「クロスの法則」も積極的に取り入れてみた。手を交差させ、女性らしい仕草で彼を悩殺する作戦。具体的には、極端に右側にある実験器具の操作を左手で行うのだ。
しかし器具の度重なる破損に繋がり、教授から大目玉を喰らっただけだった。
次に胃袋を掴む作戦に出た。
ありとあらゆる食材を用いて、柊のために連日弁当を作って差し出すのである。しかし柊は「今は腹減ってないから」と准教授の机へとそれを平行移動させ、結果として料理スキルが格段に上がった上、准教授の餌付けに成功しただけだった。
准教授は以来、「倉永君、今日のごはん何?」と聞いてくる始末。
運命的な巡り合いを演出しようと、学食へ向かう柊を全力で追いかけたこともある。
しかし、気管支をゼェゼェヒューヒュー言わせながら「いやぁ先生、偶然ですね」とやっても、「必然だろ」と一蹴されて即終了。
頻繁に連絡を取る作戦を取り入れてもみた。
ラインアプリを利用していない柊に、何気ない日常のアレコレをメールで送り付けるのである。
しかし、「今回のチョコボールも見事外れました!」とか「自転車のペダルだけが何故か盗難にあいました!」だとか「道端でテントウムシが交尾してましたよ!」だとかの文章を写真付きで尋常ならざる回数送付したところ、二日目にMAILER-DAEMONというエラーメッセージが返送されてきて、あえなく失敗。
吊り橋効果というものを試したくて、電車とバスで四時間もかかる秘境の吊り橋へと誘ってみたこともある。だが「行くわけねぇだろ」と一刀両断され、計画は一瞬で潰えた。
押してダメなら引いてみろ作戦を決行しても、ただひたすらに卒業研究が捗っただけだった。
だから今回、ヘアカラースプレーやマスカラや服を購入し、早起きまでして挑んだウミウシコスプレ大作戦が失敗に終わった今、もう打つ手がないように思えた。
夏帆は過剰に塗りたくったマスカラを、コットンで丹念に落としてゆく。
──お願いだからこっちを見て、私の「運命の人」。
涙が滲むのは、異物が目に混入したからだけではなかった。