みたび水槽の部屋
夏帆は部屋に上がるとまず、水槽のカクレクマノミの前にしゃがんで挨拶した。
「久しぶり、ニモ」
オレンジ色の可愛らしい海水魚は「やぁご無沙汰」と、こちらに向かってヒレを動かしているように見えた。
「このクマノミさん達、夫婦ですか?」
部屋の入り口に折り畳んだ段ボールを立てかけている柊に夏帆は聞いた。
「うん、ペアで買ったから。そろそろ卵産む頃かもな」
夏帆は何故だか胸がドキドキした。
「先生の部屋に来るの、これで三回目ですね」
夏帆は立ち上がり、感慨深く部屋の中を見回した。
柊の部屋は、いくつもの段ボールが積み上げられているせいで雑然としている。
中身が半分残された状態でクローゼットの扉は開け放たれ、床には段ボールの他に、たくさんの書類の束が紐で束ねられ置いてある。
元々狭いのにますます狭くなった部屋の中、柊はここ数日寝起きしているらしい。
が、今の二人には、部屋が窮屈でも問題ない。むしろ、狭ければ狭いほど都合が良かった。
「水槽はどうやって運ぶんですか?」
「それは業者に頼む」
柊は夏帆の部屋に引っ越す予定なのである。柊を刺そうとした男の住んでいたアパートにそのまま居続けるのを、夏帆が嫌がったのだ。
とりあえず一緒に住んでから、ゆっくり新しい部屋を探すつもりだ。
「ちょっと休憩」
夏帆はまた水槽の前に座った。
「やっと二人きりになれた」
柊も夏帆の横にあぐらをかく。
夏帆は今朝退院して、柊のアパートに寄った。彼が引っ越す前になんとなく、柊が十二年間暮らし、二人が初めて肌を合わせた部屋を、記憶に留めておきたかった。
「あの日何もなかったら、本当にもう二度と会わないつもりだった?」
柊が尋ねる。
「いえ、またどこかで会えるって信じてましたよ。なんてったって先生は私の『運命の人』ですから」
さらりと答える。そして柊の肩に頭を預けた。
「それでこそお前だよ」
柊は笑った。
柊に抱えられ、あぐらをかいた上に横向きに乗せられた。軽く抱擁される。
「……先生、夏帆って呼んで」
「……夏帆」
夏帆は満足して微笑む。
「夏帆夏帆夏帆夏帆夏帆夏帆夏帆夏帆夏帆夏帆夏帆夏帆」
「呼び過ぎです」
目を閉じると、柊が夏帆の瞼をそっと撫でた。
「実にけしからん睫毛だ。一個人の人生を左右する、とんでもない睫毛だ。俺以外には見せるなよ」
「無理です……先生、ちょっとお願いがあるんですけど……」
「何でも言ってみろ、退院祝いだ」
夏帆は柊の耳に口を近づけた。
「せんせ、まだ動かないで……」
山積みの段ボールの狭間、目を閉じた柊の顔の前で、真剣な面持ちの夏帆は言う。
「ちょっと待──」
柊はむず痒いような表情をしている。
「今動いたら大変なことになります……さぁ最後の仕上げです……」
夏帆が握るハサミが閉じた瞬間、柊が「クシュン」と小さなくしゃみをした。
「先生のくしゃみ、可愛い!」
夏帆が思わず柊の頬に口付けすると、彼の顔中にへばりついた細かい髪の毛が口に入り込んできた。
「どうなった? 俺の前髪どうなった?!」
柊は洗面所の方へ突進してゆく。
鏡をのぞいたらしい柊の悲鳴が、間をおかず狭いワンルームまで響いてくる。
「大事故起こしてんじゃねーか!!」
柊の前髪の一部はその大半の長さを失い、彼は部分的眉上ぱっつんに成り果ててしまった。
夏帆は常々、柊の長すぎる前髪を切ってあげたいと思っていた。
せっかく綺麗な目をしているのだから、もっと全世界にアピールすれば良いのに、と。
「俺の前髪が死んだ……もう俺は太陽の下を歩くことができない」
鏡の前でガックリと肩を落とす彼を、夏帆は励ました。
「大丈夫! ギザギザにすれば、まだ軽傷に抑えられるはず!」
しかし夏帆の手により、柊の前髪は主にセンター部分がさらに短くなってしまった。
「俺の防護壁……」
柊は力が抜けたように背後の壁に寄りかかった。
「大丈夫! 全体的に短くすれば、まだ軽い重症で済むはずです!」
しかし夏帆の手により、柊の前髪は全体的にほとんど消滅してしまう。
「今日から昆布を毎日食べよう」
柊は遠い目をしている。
鏡に顔を近づけ、なかなか遊んでくれない毛先を懸命に遊ばせようとする柊に夏帆は言った。
「先生、前髪が無くたって死にはしませんよ!」
「お前が言うと説得力あるな」
吹っ切れたように言った。
夏帆はティッシュで柊の頬の髪を払う。
「これからは私が防護壁になりますから安心してくださいね」
言った途端、抱きしめられた。
柊の手がシャツの裾をたくし上げ、右脇腹の傷に触れる。柊のしなやかで器用な指。
久々の感覚に、夏帆の身体は熱くなる。
「傷、残っちゃったな」
「名誉の負傷です」
「まだ痛む?」
「激しい運動をしない限りは」
「激しくない運動ならいいってことか」
夏帆はうなずく代わりに柊の背中に手を回した。
それを合図に、
「移動しようか」
柊が切羽詰まった声で囁く。
段ボールの山の中、布団だけがそのまま敷いてあるのを、夏帆は微笑ましく思う。
「隣は牢屋の中だからいくら叫んだっていいぞ。そっちは棺桶に首までつかった、耳の遠い爺さんだし」
柊が右隣と左隣を指差して言う。
「先生のそういう、ブラックな陰湿さも含めて全部好き」
二人は早急に、絡まり合うように布団に倒れ込んだ。
*
太陽が高く昇り、差し込む光の線が短くなっても、段ボールの谷間に敷かれた布団の上に二人はいた。
柊が肘枕をして横になった隣に、夏帆は仰向けに寝転がってスマホに夢中になっている。
柊は夏帆の真剣な横顔を見つめた。
「さっきから何見てんの」
「壮大な計画を立ててるんです。先生、今日は私達の初デートですよ」
そう言えば夏帆とは短くない付き合いだが、二人きりできちんとした食事を取ったことすらない。海に行った時、軽トラックの車内でコンビニのおにぎりを頬張ったくらいだ。
柊は改めて夏帆のことを雑に扱ってきたことを反省した。
「お昼はアーケードまで遠征します。ガッツリと丼物でいきましょう。サーモンとイクラとウニの大量に乗った、背徳的な海鮮丼が待ってます」
「初デートで丼物とは確かに壮大だな」
「病院のご飯で健康的になりすぎました。高カロリー食で明日の仕事復帰に備えます。食べ終えたら、デザート目指して速やかに電車で移動します」
「デザートもアーケードで良くないか?」
「先生と巨大パフェを制覇したいんです」
スマホの画面を見せられる。そこにはカラフルなフルーツやチョコレートのゴテゴテと乗った、巨大なパフェが映っている。
見ているだけで胸焼けがしてきた。九割くらいの処理は夏帆に任せよう、と柊は決めた。
「その後は?」
「食べた後で考えます。空腹で頭が働きません!」
「壮大というか、ぞんざいな計画だな」
夏帆は仰向けから横向きに体勢を変えた。スマホ画面を懸命にスクロールしている。
「十二時三十二分のバスが一番早いですよ」
柊はキュロットスカートの裾から覗く夏帆の太腿を凝視した。
柊の視線に気付き、夏帆は柊の方を向く。
「やっぱり前髪、短い方が似合います!」
ニッコリ微笑む。
「さ、行きましょうか。先生、私達の冒険は始まったばかりですよ!」
「序盤から打ち切られてどうする」
柊は起きあがろうとする夏帆にのしかかり、抱きしめた。鼻先を胸にうずめる。
「……夏帆」
「全くお盛んですなぁ」
「それは第三者が言うセリフだろ」
上から顔を覗き込むと、早くも夏帆はとろんとした目つきになっている。
柊の頭の中では、一回くらいならギリ間に合うだろ、と時間の計算がなされている。
「先生、バスに遅れちゃ──」
夏帆の発言を、柊は唇で強制終了させた。
結局この日、二人は十二時三十二分のバスに乗り遅れ、背徳的な海鮮丼にはありつけず、巨大パフェにも挑戦しなかった。
部屋でやるべきことがたくさんあって、それどころじゃなかったからだ。
一体何をしていたかというと、それは二人だけの秘密──
──完──




