病室
大丈夫、きっと大丈夫──
懐かしい言葉に導かれ浮上した。温かで力強い腕に包み込まれた。
微かだけれど確かな記憶がある。
目を開けると薄暗い部屋にいた。
──私、どこにいるんだろ。確か、「運命の人」の腕の中で息絶えて……美しきメリーバッドエンドを迎えたはずなんだけど。
一瞬考え、点滴スタンドから腕に伸びる管が視界に入り、病院にいるのだとわかった。
夏帆は右脇腹に手をやった。確かにそこにはガーゼが貼ってあり、じんじんとした痛みを感じる。
首だけで見回すと、ソファに横になって居眠りをする母親の姿がぼんやり見えた。
「お母さん……?」
すぐに母は起き上がった。灯された部屋の明かりに夏帆は顔をしかめた。
「あぁ良かった、体調はどう?」
母は目をしょぼしょぼさせている。
「うん……まあまあ」
心配ばかりかけて申し訳ないな、と母の目の下にできた濃いクマに夏帆は胸が痛んだ。
「あんたは災難ばかりねぇ。大変だったのよ、輸血もたくさんして。こっちも寿命が縮んだわよ」
母はふぅっと長いため息を吐いた。
「ねぇ、私と一緒にいた人は?」
「柊さんて人でしょ。面会時間過ぎたから帰ったわよ」
夏帆は胸を撫で下ろす。
「犯人、捕まったって」と母。
夏帆は「そう」と頷いたが、正直言って自分を刺した男に興味はない。ただ柊が無事であればそれで良かった。
あの時、夏帆は柊の向こう側に、ブツブツと何かを呟きながら近づいて来る不審な男を見たのだった。
男はナイフ片手に、ぼんやり突っ立っている柊を睨んでいた。いつか会った、柊の部屋の隣人だった。
「気を付けなさいね、いくら結婚が決まったからって、外でベタベタしてたらまた無敵の人に狙われるわよ」
「えっ」
夏帆は思わず体を起こそうとしたが、鋭い痛みに再び横になる。
「何の話」
「あんたも水臭いわね、そういう人がいるのなら早く言ってくれればいいのに」
「だから何の話」
「柊さん、『娘さんを危険に晒して申し訳ございません。これからは一生かけて守っていきますのでお許しください』って頭下げたのよ。年はいってるけど、なかなか誠実そうな人じゃない」
夏帆は「うぅ……」と呻いて頭まで布団を被った。涙が勝手に溢れるのを、母親に見られるのが恥ずかしかったからだ。
「痛むの? ナースコール押そうか」
母に覗き込まれる気配があった。
「大丈夫……」
やっとのことで答える。
「元が……しっかり……取れた……」
「え? 頭を打ったわけじゃないわよね?」
心底心配そうに母が聞く。
夏帆は肩を震わせ泣き出した。
「可哀想に、痛くて怖かったわよねぇ」
母は娘の涙が恐怖からきたものだと解釈したらしい。布団越しに頭を撫でてくれた。
「ねぇ夏帆、『柊』って名前、あんたの命の恩人と一緒よね。すごい偶然」
──偶然じゃなくて、運命なんだよ……
夏帆は胸の中で呟いた。早く彼に会いたかった。
*
柊は走っている。
「運命の人」の元へと全力疾走している。
ゴール直前、追い越した看護師に「猛ダッシュしない!」と注意されたので、競歩のフォームに切り替えた。
「倉永ーーー!!」
柊は勢いよく病室の扉を開けた。扉はドゴンッ!とバウンドした後、柊の左腕に直撃した。
さっきの看護師に「絶叫しない!」とまた叱られてしまう。
「倉永ー!」
少々音量を落としてベッドに駆け寄る。
彼は午後の面会時間に合わせて研究室を抜け出して来たのである。
夏帆は目を開けて横になっていた。柊と目が合うと、恥じらうように笑った。
「倉永……本当に良かった……」
夏帆の肩をそっと掴んでかがみ込む。
「先生、ちょっと待──」
「待てない」
有無を言わさず唇を合わせた。夏帆は少しの間抵抗していたが、やがてぐったりと力を抜いた。
左手で頭を支え、右で背中をまさぐると、薄い病衣を通して夏帆の痩せたのを感じ、切なさと愛しさが込み上げる。
柊はいったん唇を離した。さぁ第二ラウンドはさらにディープなヤツをお見舞いしてやろうか、入院中だけに、と再び接近を試みていると──
「ゲフゲフゲッフン!!」
突然背後で大きな咳払いがしたので柊は飛び上がった。
振り向くと、夏帆そっくりの睫毛をした二人の男がソファに腰掛けている。ひとりは昨日も会った夏帆の父親で、もうひとりは年恰好からして兄か弟のどちらからしかった。
「睫毛の長いのって、優性遺伝なんですかね」
柊はどうでも良いことを、引きつった笑みと共に口走った。
「……ちなみにいつからいらっしゃったんですか」
「うん……『倉永ーーー!! ドゴンッ!』のとこからかな」
気まずそうに父が答える。
──最初からじゃねぇか……
柊は観念した。
「『待てない……ハァハァ』」
若い方の男が、目の据わった満面の笑みで畳み掛ける。
「ダメですよ、お義兄さん。性交渉は退院後に相手の同意を得た上で、無人の密室にて行わないと」
近い将来に義弟となる男の、狂気の笑顔から発せられる野暮な正論に、柊は顔が熱くなった。
そんな柊を不憫に感じたのか、父親がおどけたように「娘をヨロシクネ」と長い睫毛で器用にウインクした。
後ろで「ふふっ」と小さく夏帆の笑う声がする。
家族というものも存外悪いものでもないのかもしれないな、と柊は考えていた。




